カテゴリー「江戸城 平川門・不浄門」の34件の記事

江戸城不浄門について

ツツミ様からいただいた不浄門に関する事跡の紹介です。
(紹介が遅れましたこと、お詫び申し上げます)

従来の不浄門に関する説明の根底が、覆るような話です。
天明から化政文化の時期にかけて、江戸文化の中心に在った大田南畝が著した『一話一言』に、「天明四年甲辰三月、新御番佐野善左衛門、若年寄田沼山城守、殿中手疵一件」と題する記録があります。
当時権勢を振るっていた田沼意次の嫡男田沼意知が、佐野政言に殿中で切り付けられる、という、松の廊下の刃傷の次に有名な刃傷事件では、加害者、被害者共、どの門から退出したのか、公的な記録には書き残されていません。しかし、田沼意知は、神田橋の近くに在った父の意次の屋敷に運ばれ、佐野政言は、伝馬町の揚り座敷に送られており、それらの場所に向かうのに平川門から退出するのは合理的で、本丸で発生した他の事件の例に照らしてみても、当然平川門から退出したはず、と考えていました。
ところが、南畝の記録には、次のようにあります。
『天明四辰年三月廿四日蜷川相模守組新御番佐野善左衛門於殿中若年寄田沼山城守へ手疵爲負候節左之趣
一 田沼山城守は於殿中早速療治御手當被仰付駕籠にて“大手通り”神田橋屋敷へ退出す
一 佐野善左衛門は網乗物にて御徒目付御小人目付差添“大手通り”揚座敷へ被遣候』
なんと、被害者、加害者どちらも、表門である大手門を通って退出した、とされているのです。
南畝は、身分は低いもののれっきとした幕臣であり、狂歌だけでなく、江戸の故実についての著述などでも知られる人物です。田沼意次に近かった勘定組頭土山宗次郎とも親しく、この事件に関して間違いを記すとは思えません。それでも、これまで語られてきた「江戸の常識」からあまりにもかけ離れているので、万が一南畝が間違えている可能性も排除できずに、判断付きかねている状況でした。

そこに、またまた新発見が(笑)。
先日の「鉄道開業150年」展の記事を拝読して、国立公文書館のホームページで過去の展示内容をいろいろと見ていた所、この夏開催された「江戸城の事件簿」展に、昌平坂学問所旧蔵の『寛永以来刃傷記』なる書物が、展示されていた事を知りました。これは、もしや、とデジタルアーカイブで読んでみると、図星でした。
この書物には、『天明四年甲辰四月 日集之』と奥書が有り、田沼意知の事件から間を置かず、恐らくこの事件を契機に集められた情報を、書き留めた物らしい事が判ります。書名通り過去の刃傷事件も列記されていますが、ほとんどは簡略なもので、直近の田沼の事件に関する記録が大部分を占めています。
この書物には、佐野政言の江戸城からの退出場面が、記録されていました。『善左衛門を揚り座敷へつかハす(遣わす)とて御城より駕籠に乗せて“大手御門を出る時”下馬に居たる諸役人の供の者とも(者共)一同に武士はないかと思へハあるそ山城守をきつたとハてかした/\(武士は無いかと思えば、有るぞ。山城守を切ったとは、でかした/\。)と高聲に』云々、と記されており、南畝の記録同様、ここでも、この事件の犯人の退出に、平川門ではなく、大手門が使われていた事が明記されています。同書では、田沼意知がどの門から退出したのか不明ですが、加害者が大手門から出ている以上、南畝の記録通り、被害者も大手門から出たと考えるべきでしょう。『寛永以来刃傷記』は事件後間も無い時点での記録であり、『一話一言』の記述は、南畝の間違いではなかった、と判断してよいものと思います。
『寛永以来刃傷記』には、「細川宗孝公遭難事件」に関してもかなり詳しく書かれています。被害者の細川宗孝の退出について、『(細川)越中守乗物蘇鉄之間迄入中ノ口ヨリ平川口御門通リ退出』、加害者の板倉修理の退出については、『水野監物ニ御預ケ是又蘇鉄之間エ乗物入中ノ口ヨリ平川口ヨリ小川町水野監物屋敷エ引取』とあって、熊本藩の覚書の内容が正確である事も、これらの記録から改めて確認できました。

江戸城の制度については、まだまだ調べ切れていない事が、沢山有るように感じています。「江戸の常識」とされているものには、維新後に歴史学者等によって作り出された部分も、かなり有るのではないでしょうか。

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寛永期の平川門

ツツミ様から情報が寄せられましたので、転載します。
岡山大学附属図書館所管の池田家文庫のデータベースで探し当てられた絵図への理解です。
絵図は転載禁止ですので以下のURLからご参照ください。
https://repo.lib.okayama-u.ac.jp/zoomify/T9-80.html

『寛永十二亥年二之御丸指図』では、平川門が内桝形である事以外にも、平川堀が、天神堀の方に向かって、現状より深く入り込んでいるように描かれるなど、現状との多少の相違点が見られます。これについては、大雑把に大体の形を描いたのだろうと考えていました。しかし、池田家の「二・三之御丸絵図」を見ると、その考えは大間違いであり、当時の状況が正確に写し取られたものであった事が判ります。

「二・三之御丸絵図」にも、「寛永十二年図」にあるのと同様の位置に平川堀端の線が茶色で引かれていますが、それだけでは無く、その外側の、現在の平川堀端と同じ位置にも浅黄色の線が引かれており、二色の線の間のスペースには、「埋申分(埋め申す分)」と書き込まれています。どうやら、寛永二十年までは「寛永十二年図」通りの堀端の姿があり、平川門から入城した際に我々が通る平川堀・天神堀間の通路辺りは、この埋め立てまで御堀上だったようなのです。「寛永十二年図」の平川堀端の描写が正確なものであったという事は、平川門桝形付近も、指図に示される通りの姿であった事を証明するものと言えるでしょう。
ただ、「二・三之御丸絵図」では、平川門桝形の構造に変化が見られます。「寛永十二年図」に描かれる平川門桝形は、内枡形形式と言っても、平川堀側には石垣が設けられていない変則的なものですが、「二・三之御丸絵図」では、平川堀側にも石垣が造られ(帯曲輪との出入口は、桝形の外へ)、四方が石垣で囲われた完全な内桝形形式の門となっています。しかも、高麗門を入った右側に当る、その新設の石垣が渡り櫓門となり、入って左側の、従来の渡り櫓門だった石垣には埋み門が有るのみ、といったように、かなり大掛かりな改築を必要とする変化です。最初期の平川門桝形では、高麗門を入った正面に渡り櫓門が在ったらしい事は、寛永図や有名な国立歴史民俗博物館の『江戸図屏風』から窺い知る事が出来、「寛永十二年図」にある渡り櫓門も、江戸絵図に同様の配置を見る事が出来ますが、「二・三之御丸絵図」に見られる配置で桝形が描かれた物は、他に例が無いのではないかと思います。

この図面では、寛永十二年当時には桝形と天神堀の間に在った「御鷹部屋」が撤去され、その跡地に、三ノ丸御殿敷地内外の境界線となる石垣か土塀のような物が、設けられるようになっています。その付近の天神堀端も、敷地拡張の為、平川堀端同様埋め立てるようになっており、三ノ丸御殿建造に関連する図面である事は間違いないようです。桝形の構造の変化についても、三ノ丸御殿との関連を考えれば、その理由が判ります。御殿が近接して建つ為に、従来の渡り櫓門は、その役割を果たせなくなり、天神堀側の石垣も、裏に境界線となる石垣が出来る為に渡り櫓門とする事は出来ません。平川堀側に渡り櫓門を新設する以外に選択の余地は無かった、という事でしょう。

 この図が岡山藩に伝えられてきた、という事から、寛永二十年に池田光政が行った「平川虎口石壁改築」は、図面にある桝形の構築であり、その後、『江戸京都絵図屏風』が描かれるよりも前の時点で、外桝形への改築が行われた、という事も考えられます。しかし、同じ内桝形への改築よりも大規模となる外桝形への改築にも関わらず、この時以後、明暦の大火までの間、平川門近辺に手が加えられたという記録はどこにも見当たりません。桝形の位置そのものは動かず規模が縮小されるだけなのに、鍬初めで「古升形」という表現が使われているのも不自然です。そこで考えられるのは、『江戸御城二・三之御丸絵図』が、三ノ丸御殿建造に当たって最初に立てられた当初案を示すものであり、将軍家光や幕閣に諮った結果、現在の外桝形形式に築き直す計画に変更された、という可能性です。

渡り櫓門を平川堀側にすれば、城郭の本来の役割である防御上の問題が生じます。従来の桝形の隅に在った帯曲輪との出入口を、桝形の外に置かざるを得なくなるからです。帯曲輪を破られた場合でも、桝形内に敵が入ってくる形であれば、そこで撃退するチャンスもありますが、図面通りだと、城内への侵入は格段に容易になります。せっかく藤堂高虎が編み出した縄張りも、御殿建造の為に水の泡です。そこで、桝形内に帯曲輪との出入口を設ける事が可能な形を模索した結果生まれたのが、現在の外枡形形式の平川門だったのではないかと思うのです。

先述のように、「二・三之御丸絵図」には、天神堀端にも、埋め立てが行われるようになっている箇所があります。現状を見ると、確かにその部分の埋め立ては行われていますが、埋め立て部分は、梅林坂下の方向へより広範囲に及んでいます。このように、必ずしもこの指図通りに普請が行われている訳ではありません。この図面が、当初案として描かれたもので、実施案ではなかった可能性は高いと言えそうです。

 『江戸御城二・三之御丸絵図』の登場で、現在の平川門桝形が築かれたのは寛永二十年である、と断定は出来なくなりましたが、少なくともこの時点まで平川門が内枡形であった事と、三ノ丸御殿の築造が外枡形への改築に関係している事は、はっきりしました。ひとまずこれで納得し、さらなる新史料の発見に期待したいと思います。

 



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江戸城・平川門についてのツツミ様の投稿

ツツミ様より投稿がございましたので紹介いたします。
先日のコメントの後、確認の為「東京市史稿」を精読した所、寛永二十年の「平川虎口石壁改築」に関する考えを補強してくれる記述がある事に気付きました。岡山藩の史料『吉備温故』から引用された、この普請の鍬初めの儀式の記録です。
寛永二十年正月七日、先に記した徳川家光の平川橋御成り前に執り行われたもので、『同(〇寛永廿年正月。)七日、鍬初によりて、阿部豊後守(〇忠秋)普請場に出らる。此時古升形の上石二ツを刑部(〇河野。)はねる。土臺鍬を監物(〇若原。)堀る。其後熨斗を出され、烈公(〇池田光政。)いただきありて、其次に家老を始め、物頭・普請奉行迄殘らず頂戴す。』とあります。上石をはねるというのは、解体工事前の儀式だと思いますので、この普請が、内桝形形式の「古升形」を撤去し、別の位置に「新桝形」を構築するものであった事は、間違いないようです。
「東京市史稿」には、石垣竣工直後、三月二十九日付の岡山藩家老池田由成宛池田光政書状の文面も載っており、その中で光政は、『此度之御ふしん、かたのことくいてき〔形の如く出来〕申候かと存候。世上ニてもほめ申候。』と、枡形の出来に自負心をのぞかせています。歴史の彼方に忘れ去られているこの岡山藩の働きには、もう一度光が当てられるべきではないか、と思っています。

ところで、昨年12月5日の記事に載る『皇居と江戸城重ね絵図』の絵図面には、実際の平川門桝形の状況とは、異なる部分があります。桝形の竹橋側(図の上側)の石垣内側が、雁木状に描かれていますが、その上に掲載されている俯瞰写真を見ても判るように、本来そこには、多門櫓を載せられるような櫓台状の石垣が描かれなければなりません。
江戸図屏風の一つ、江戸東京博物館所蔵の『江戸京都絵図屏風』は、竹橋内北の丸の屋敷地に、徳川綱重の幼名である長松の名が在り、竹橋屋敷が長松に与えられた慶安二年十一月以降、明暦の大火以前の江戸城の姿を知る事が出来る貴重な史料です。ベースに描かれている地形が、デフォルメの多い寛永図(『武州豊嶋郡江戸庄図』)をそのまま写したものである為に、二ノ丸の拡張部分などは上手く描かれていませんが、それ以外の城郭の構造は、かなり正確に描かれ、特に城門部分は、現存する物と比較すると、その描写の正確さが分ります。平川門桝形も現在の形とほぼ同じですが、先述した櫓台部分には多門櫓が載っています。他の城門の描写の正確さから見て、寛永二十年の改築以降、恐らく明暦の大火で焼失するまで、櫓台上には実際に多門櫓が載っていたものと思われます。
明暦の大火以降、櫓が再建されていない事は、万治度の復旧工事の際の『御本丸総御絵図』で確認できます。実は、『皇居と江戸城重ね絵図』の間違いは今に始まった事ではなく、同様の描写は、この万治度の総絵図に既に見られます(「重ね絵図」作者は、これを写したのかも知れません)。櫓台が現存している事から、万治度の図面の描写が、線を引いた人物の誤認であるのは明らかですが、そういう間違いが起きてしまうという事は、既にこの時点で櫓台に櫓が無かった事を意味します。
甲良家文書の内、『江戸城平川口御門より上梅林御門地絵図』は、平川門桝形と帯曲輪の状況が正確に写された指図で、そこには、渡り櫓門や二つの高麗門の柱の配置、櫓の無い櫓台に至るまで、現在と寸分の違いも無い平川門桝形の姿を見る事が出来ます。現存の帯曲輪門に「帯曲輪東御門」、竹橋門桝形側に在った高麗門には「帯曲輪西御門」と記されており、これらが正式名称であった事も判ります。
図面の隅には、「甲良豊前扣」とあります。こういう正確な指図の作成には、現場に立ち入る必要が有りますが、それが可能だったのは、災害被害を受けた後の復旧工事の際位でしょう。甲良豊前を名乗り、明暦の大火や元禄地震後の復旧工事の作事に関わった甲良家三代宗賀(むねよし)、もしくは四代宗員(むねかず)が、いずれかの災害復旧工事に際し作成したのではないかと思いますが、この指図から見ても、外桝形への改築から現在まで、平川門桝形、帯曲輪に、大きな改変が加えられていないのは明らかです。

城門の描写が正確な『江戸京都絵図屏風』ではありますが、この絵図の平川門桝形には帯曲輪東御門が描かれていません。考えてみれば、城郭の図などは、絵師が目にできる範囲内の物しか描けないのですから、それも当然で、城外から観察しても、あの場所に高麗門が建っているなどとは、想像出来なかったはずです。二ノ丸の拡張部分が描かれないのも同様の理由からでしょう。帯曲輪の大部分や城内主要部分などは、雲で覆って胡麻化していますが、これも御上を憚ってというよりも、全く様子が掴めなかった事によるものと思います。
同様の事は、幕府大棟梁が総絵図を描く時にも言えたのではないかと思います。指図が作成された頃の総絵図には、帯曲輪と平川門桝形の接点が、比較的正確(享保期の甲良若狭棟利控『江戸御城之絵圖』では完璧)に描かれていますが、後代の総絵図では、その接点が少しずつ内側にずれて描かれます。皇居東御苑売店の図に至っては、渡り櫓門を入った内側の位置に帯曲輪が接するように線が引かれ、枡形が帯曲輪側に被さるはずの部分も無いなど、出入口の様子は、実態とは随分異なってしまっています。これは、図面作成者が、現場を見る事が出来ず、残されている過去の図面の引き写しを繰り返す内にずれが生じたり、線を引き間違えたりした結果だと思われます。総絵図に見られる相違点は、城郭の構造の変遷を表している訳ではない事の方が多い様ですので、扱いには注意が必要です。

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平川門桝形と帯曲輪の沿革について(ツツミ様より)

ツツミ様よりご投稿をいただきましたので紹介いたします。

平川門桝形と帯曲輪の沿革について考えてみます。江戸城総絵図などに描かれている情報を論拠にする場合、その情報が、どこまで正確なのか、どういう目的で作成された絵図なのか、といった史料批判を行った上で利用しないと、間違った答えが導き出されてしまう恐れがあります。その史料批判を行う為にも、平川門、帯曲輪の形成過程を検討しておく必要があります。

『江戸城始図』を含む慶長年間の江戸絵図類に見られる通り、当初は設けられていなかった帯曲輪の築造は、元和六年か、同八年の天下普請の際であった、と考えられています。
元和六年の天下普請では、平川門桝形の普請も行われていますが、この時に造られた桝形は、今のように、濠の側に張り出した外桝形の形式では無く、城郭の内側に組み込まれた内桝形の形式のものだったようです。(HN)平川門さんがコメントで指摘されたような、寛永図などに見られる、内枡形の平川門の隅に帯曲輪の先が接続している状態は、その当時の様子を案外正しく伝えているようで、国立博物館が所蔵する、当時の平川門桝形と帯曲輪の状況を正確に写すと思われる『寛永十二亥年二之御丸指図』を見ると、それがよく分かります。この指図に依れば、平川橋の架かる位置は、今と築造当初から変化は無く(木橋部分の長さは、もう少し有ったのかも知れません)、橋を渡った真正面、今は石垣になっている所に高麗門が建ち、桝形に入って左側に、渡り櫓門が在りました。帯曲輪は、現存の渡り櫓門が建つ隅の方で、桝形内に接続していた事が判ります。その口に高麗門が設けられていたのであれば、桝形内から見ると、二つの高麗門が少し離れて隣接している感じに見えたでしょうか。
この図は、以前は「東京市史稿 皇城編」掲載の白黒の写ししか見る事が出来なかったのですが、先日国立博物館のデータベースを確認した所、彩色された原本が、いつの間にか公開されていて、ちょっと感激いたしました。

内桝形だった平川門が、いつ、何のために、現存の形となったのか、という事については、江戸時代初期に行われた城内の様々な場所の改変が関わっているのではないかと思います。
かつては、二ノ丸と三ノ丸の間には濠が在り、下乗門の手前に下乗橋が架かっていた事は、知られていますが、慶長から寛永の前半にかけて、その濠は、下乗橋の架かる部分から、天神濠の方まで真っすぐに掘られていました。昨年春に三の丸尚蔵館の建て替え現場で江戸城築城当時の石垣が発掘された、というニュースがありましたが、この石垣は、その濠の一部分かも知れません。そうだとすれば、その延長線上の二ノ丸庭園の地下にも同じような石垣が埋まっている可能性があります。それは兎も角、今よりも敷地が広かった三ノ丸(当時は二ノ丸と呼ばれており、西丸下の大名小路を三ノ丸と呼んだようですが、便宜上後の呼び名を使います)には、寛永図などにあるように、酒井讃岐守や酒井雅楽頭等の屋敷が置かれていました。それらの屋敷を城外に移転させ、二ノ丸を現在の大手町方向に拡張する普請が始まったのが、寛永十二年で、その際作成された指図が、国立博物館の「二之御丸指図」という事になります。指図にある二ノ丸御殿も、翌十三年六月に完成します。
寛永十八年八月に将軍家光の嫡男竹千代(後の家綱)が誕生すると、同二十年には、竹千代の為に、二ノ丸御殿の建て替えが行われます。この時同時に、三ノ丸御殿が新造されますが、八年前の二ノ丸拡張で、三ノ丸の敷地はかなり狭まっており、そのままでは、御殿を建てるだけの余地は有りません。そこで、御殿を建てる場所を作り出す為に行われたのが、既存の平川門桝形を撤去し、新しい桝形を、平川橋に横付けする形に張り出して、帯曲輪の一部も取り込むように築き、桝形内に帯曲輪との出入用の高麗門を設ける、という改築工事だったのではないかと思います。三ノ丸御殿の指図は残されていませんが、総絵図には、そのアウトラインが描かれている物も多く、平川橋の位置から推せば、御殿の建てられた場所が、「二之御丸指図」にある平川門桝形と重なっている事がよく分かります。桝形を撤去しない限り、御殿の造営は出来ない訳ですから、寛永二十年に、平川門桝形を外枡形にする普請も行われていなければなりません。
この平川門桝形の改造について、はっきりそれと記されたものはありません。しかし、「東京市史稿 皇城編」に、『御徒方萬年記』を引いて、「正月七日〔寛永二十年。〕三之丸御縄張ニ平川口ヨリ八時(将軍家光が)御成、平川口橋ニ少之間御座、御普請被仰付候衆ニ被仰付、松平新太郎〔光政〕召被仰付候、上意ニ而富永主膳・阿部四郎五郎〔正行。〕兩人ニ御縄張之通可然存候由与御念頃ニ上意候」、また、『御當家紀年録』を引いて、「是年〔寛永二十年。〕改築江戸平川虎口石壁、松平〔池田。〕新太郎光政役之、久世大和守廣之奉命爲惣奉行、庄田小左衛門〔安照〕・朝比奈源六郎〔正重。〕奉行之。」などとあり、これまで述べてきた事柄を総合的に考えれば、この寛永二十年の「平川虎口石壁改築」が、内枡形から外枡形への改変であった可能性は、極めて高いと思います。池田光政が担当した石垣の改築が成ったのは、「東京市史稿」に依れば、この年の三月二十七日の事でした。
尚、江戸絵図の類には、これ以降も内枡形の平川門が描かれていますが、それらは、古い絵図を引き写した事に依るものでしょう。寛永の江戸絵図には、雉子橋と一ツ橋の名前が取り違えて記されていますが、その間違いは明暦三年開版の江戸絵図まで引き継がれており、一旦書(描)かれた情報が新しい情報に改められるまでには、かなりの時間を要したようです。

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江戸城 不浄門に関する考察(ツツミ様)

ツツミ様より江戸城不浄門について情報(コメント)をいただきました。ありがとうございます。江戸城不浄門については、ネットで検索しても残念ながら多くの情報を得ることが難しい状況です。貴重な情報と思います。ここに全文を掲載させていただきます。まだ、情報をお持ちのようです期待しております。いただきましたなら紹介させていただきます。

将軍とその家族の葬送経路について見てみます。『徳川実紀』や、その編纂に参照された幕府の公的な日誌『柳営日次記』などには、それらが、かなり詳しく記されています。別件を調べるために読んでいても、そうした情報につい目が行くのですが、数ヶ月前、『柳営日次記』を調べていて、偶然に、帯曲輪が葬送に使われたという例を見つけました。宝永二年六月二十三日に執り行われた、かの有名な、五代将軍綱吉生母桂昌院の葬送です。宝永二年六月の末尾に付されたその記録には、「御道筋 平川“帯曲輪”竹橋御門より半蔵御門井伊掃部頭屋敷下永井日向守屋敷前松平安藝守相馬図書頭屋敷脇」云々と、増上寺に至るまでの経路が記されています。この記録は、『徳川実紀』には引用されていないために、気付く人もほとんど居なかったのではないかと思われます。
江戸城内で死去した将軍の家族は、幼くして亡くなった例を除くと、それ程多くは有りません。大体の葬送の記録は、押さえているつもりですが、今の所、帯曲輪を葬列が通ったという記録は、この一例のみです。それでも、この記述を受けて、その他の記録は、帯曲輪の通過を当然の事として省略しているのではないか、という意見が出て来るものと思います。そこで、平川口から送り出されたと記される場合は帯曲輪を使っていない、と断定できる理由を、以下に述べます。
 葬送の記録には、葬送経路の他に、道筋の警衛の割り振りが載るものも有るのですが、平川口から出たとされる葬列の向かう先が、芝の増上寺の場合と上野の寛永寺の場合とでは、その割り振りに明確な違いが見られます。増上寺の場合は、平川門から竹橋門の間の警衛が命じられており、寛永寺の場合には、その間の警衛は無く、いきなり平川門から鎌倉河岸など一ツ橋より先の地点までの警衛となっているのです。もし帯曲輪が使われたのであれば、これとは全く逆で、代官町、半蔵門を通って増上寺に向かうのに、平川門から竹橋門の間の警衛は必要無くなり、一ツ橋を渡って寛永寺に向かうには、竹橋門からの警衛が必要になります。従って、これらの葬送には帯曲輪が使われていない、と判断できる訳です。具体例として、『徳川実紀』より、徳川家宣御台所天英院の葬送(これは、向かう先は増上寺ですが、一ツ橋、本町、日本橋を通過し南下するコースをとった稀な例です)の記述を挙げますと、「御道は平川口より一橋門外閑地〔護持院原〕をへて。鎌倉河岸より本町第二のちまた〔本町二丁目〕をよこぎり。日本橋をこへ。芝濵松町より增上寺の正門にいり。」云々とあるのに対し、「御道の警固は。平川より鎌倉河岸までは酒井修理大夫忠用。龍閑橋より室町までは稲葉内匠頭正益。」云々といった具合です。また、徳川家重の増上寺への通常のルートの葬送場面を見ると、平川門から竹橋門までの警衛担当者が記されると共に、「未の刻常の御座所〔二ノ丸〕より  靈柩を發引し奉り。“平川口門の外にて”拜迎にまかりし僧等修法し。」とあり、こうした記録からも、帯曲輪が使われなかった事を確認できます。桂昌院の葬送経路の記録は、帯曲輪が使われた場合には、その旨が日誌にきちんと記録される、と解釈すべきだと思います。                                                                        そもそも、将軍とその家族の葬列が城内から出る際には、平川門(両方の高麗門)の他、北桔橋門や矢来門など、裏門とされたいくつかの門が使われており、将軍、大御所で平川門から送られたのは、二ノ丸で死去した家重ただ一人です。平川門のみが、不浄門の役割を持っていた、とする事自体、間違いなのかもしれません。

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江戸城の不浄門についていただいたコメント

ツツミ様よりコメントをいただきました。ありがとうございます。コメントとしてよりは、記事として掲載するほうが適切と思い、ここに紹介させていただきます。
また、江戸城 平川門 不浄門 に関する記事が何回にもわたっていますので、カテゴリとしてまとめました。過去記事はこのカテゴリーをご覧いただければ、検索の手間が少なくなると思います。よろしくお願い致します。

平川門ゆかりの赤穂浪士討ち入りの日を記念して、参加させて頂きます。将軍の居城の内堀に肥し舟が浮かんでいるような事が、許されたのかどうか、というのは、けっこう重大な問題かも知れません。

まず、先日の(HN)平川門さんのコメントに、浅野内匠頭を乗せる為の乗物が桔梗門(桜田下馬)で待っていた、とありますが、この時桜田下馬に控えていたのは、田村家の目付役や物頭達が乗ってきた馬4頭と、請取部隊75名の内の足軽二十数名です。乗物は、初めは下乗門(大手三の門)外の下乗(もしくは下乗門を入った百人番所の辺り)に控えていましたが、公儀目付の指示で、御殿内の御坊主部屋まで運び込まれ、そこで内匠頭を乗せています。

四年前の今日、「皇居(江戸城)の平川門(2)」へのコメントにお示しした通り、田村右京大夫側の覚書に依り、元禄十四年三月十四日、戸に錠をかけ青網をかけた乗物に乗せられて、浅野内匠頭が、平川高麗門、平川橋の方から城外に出された事は、間違い無いものと思われます。詳しい護送経路も判明していますので、陸上を護送された事も、疑問を差し挟む余地はないようです。15名の六尺を除いた60名の侍・足軽が、網掛けの乗物のまま舟に乗せられた内匠頭を、厳しく取り囲んで護送して行く光景は、ちょっと想像できません。騎馬の4人が、その状態で舟に乗って、堀に架かる橋の下を潜った、とするのも無理があり、何よりも、75名を乗せるだけの数の舟と漕ぎ手を短時間で調達するのは、畳替えの話以上の無理難題でしょう。
以前ご紹介した護送経路等の記録は、要約するために、箇条書きの主要部分のみを原文でお示ししたものですが、当該条文の全文を載せた方が、平川高麗門からの退出が、よりはっきりすると思いますので、この機会に、端折った部分を加えて、平川口からの退出場面を再掲いたします。クォーテーションマークを付けた部分は、乗物が帯曲輪を通って竹橋門の方から出たのでは、説明の付かない記述です。
『一、足輕共其外人馬下馬に差置候、“平川口へ廻り候様仕度”の由申達候處、則其段御小人を以被申遣、内を參候間に、“足輕共平川口迄參罷在候”(平川口まで参り罷り在り候)由』
『一、“平川口より”、(牟岐)平右衛門(原田)源四郎先江乗、(檜川)源五(菅)治左衛門跡に押續き、乗物の廻り侍共嚴敷取包、外に棒持候足輕共取廻、跡に三ッ道具立、道筋“平川口より”大下馬先江、やよすがし(現日比谷通りの和田倉門外から第一生命館辺りまで)、日比谷御門、櫻田、愛宕下通り、此方表門江申の刻入申候』 (※以前のコメントでは、「騎馬の4人が先導」と書きましたが、檜川源五、菅治左衛門は、隊列のしんがりに続いたと読むべきかもしれません。)
 そして、四年前に全文を記していますが、幕府の公的な日誌である「祐筆所日記」の同日の記録にも、「平川口通り御乗物にて之を引取る」とある事を、改めてお伝えしておきます。
「絵島生島事件」についても見てみますと、いつぞやご紹介したフジテレビ制作の江戸城城門に関するアプリでは、白襦袢のような姿に縄を打たれた絵島が、素足で引き立てられていく様子が描かれていたように思いますが、これは、史料を無視した全くの出鱈目です。残された記録では、絵島は、大奥御広敷で、親類への当分御預けを申し渡された後、すぐに敷物の無い乗物に乗せられ、その乗物の両戸を開けて中が見える状態で、平川口から出されています(城を出たのは二月二日、評定所の遠流の決定は三月五日)。乗物で護送されているので、これも、舟で護送されたとするのは、無理があります。
それから、「細川宗孝公遭難事件」の際の、平川口からの宗孝主従の退出について、熊本藩に残された覚書の記述を、とうの昔にご紹介していたつもりで、いくつかのコメントを記して参りましたが、確かめてみると、まだお伝えしていなかったようです。
一部の江戸城総絵図の帯曲輪部分に書き込まれた「病人カゴ此口ヨリ出ル」の文言とは異なり、傷病人の退出に、帯曲輪が使用されていない事が、よく判るものですので、以下に記します。延享四年八月十五日、熊本藩主細川宗孝公が、薄暗い殿中の厠で、人違いから刺殺された事件で、瀕死の怪我を負っている(実際は息を引き取っていたと思われる)宗孝一行の退出場面です。時の将軍は九代家重。吉宗は大御所でした。『左候而引取申度由を御目附様江相達勝手次第可仕旨被仰聞候ニ付御駕舁ハ御間者陸尺(六尺)外ハ黒鍬大勢ニ而舁中ノ口より平川御門江御出被成彼方橋際より御手人ニ請取舁せ申候(さ候て、引取り申したき由を、御目付様へ相達し、勝手次第仕るべき旨、仰せ聞けられ候に付き、御駕籠は、御間(殿中)は六尺、外は黒鍬、大勢にて舁き、中ノ口より平川御門へ御出なされ、彼方橋際より、御手人に請取り、舁かせ申し候。)』<br /> このように、城内を幕府側の黒鍬者によって平川門まで運ばれた乗物が、「彼方橋際より」細川家の六尺へと請け渡された事が、はっきりと記されており、血まみれの怪我人である細川宗孝を乗せた乗物が、平川橋を通って城外に出た事も、間違いありません。平川橋際で乗物の受け渡しが行われた、とする記述は、大和郡山藩柳沢家に残る「殿中マナーブック(本来無題の書物で仮題は「御例集」)」に載る、若狭小浜藩主酒井遠江守忠与の病気退出例の注記にある、『御城内は、御駕籠、手前人ニ而ハ為舁不申御作法(手前人にては、舁かせ申さざる御作法)之由。』という記述とも合致しており、この覚書の信憑性の高さも裏付けられます。<br /> また、これらは、江戸城の事情に疎い外部の人間に伝達する目的で記されていますので、「記録するまでも無い当然の事」として、実は竹橋門の方から出ていた、とか、実は舟を使っていた、とかいった事柄を省くなどという事は無いものと思います。尤も、熊本藩の覚書には、本丸で御礼を済ませた藩主達は、西丸の大御所に御礼に回るのが通例だった為に、西丸の下馬の方へ移動して控えていた家臣達が、『平川江廻り候事難成漸刑部卿様御屋敷前ニ而馳付候事(平川へ回り候事、なり難く、漸く刑部卿様御屋敷前(一橋邸前)にて、馳せ付け候事)』と記されていますので、丸の内オアゾの辺りに在った細川藩邸に帰る一行が、陸路をとっていた事は確実です。
また随分と長くなってしまいました。お伝えしたい事は、まだまだ有るのですが、今回はここまでにいたします。

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旧江戸城 平川門・不浄門について

HN 平川門さんから、コメントをいただきました。誠にありがとうございます。
資料も限られていて、私自身が目を通す資料もさらに限られておりますので、以下は、まったくの私見として述べさせていただきます事、ご了解をお願い致します。20211204a4

「田村家から浅野内匠頭の引き取りを桔梗門で待っていたいたところ急遽平川門に籠を回した記録がある」とのご指摘を興味深く拝見しました。
松之大廊下とその後の尋問の部屋の位置からすると、近い桔梗門で待つというのは理解できます。ご指摘の通りであれば、殿中を血で怪我した者を「不浄門から出す」という形式・令法に則ったものと理解できます。
『享保年間不浄門はなかった』という西ヶ谷説については、詳細がわかりませんので、評価は控えさせていただきます。
享保年間の絵図では平川門に船着き場があった。20211204a1
(皇居と江戸城重ね絵図=平成24年発行)この元資料がわかりませんが享保年間の絵図と軌を一にしてます。20211204a11
元禄の時にすでに船着き場があったのかは不明ですが、形式・令法に則って不浄門に廻すという措置をしたなら、船着き場から内匠頭を出したと私は想像したいです。短ければ対岸で籠に引き渡したのか?どこまで船で行ったのか?想像に想像を重ねることになり、その点はわかりません。城中の糞尿も同様に船着き場から出したのではと考えています。(ご存じのように城中の糞尿は下肥の最高級品)

元禄より前の正保絵図を見ると曲輪は竹橋門に入ることなく門外で接続しているように見えます。20211204a2
そのように意識すると、さらに前の寛永の絵図も「そうかな」と思えなくもないです。20211204a3
門の詳細を書くことを目的としてる図ではないので、正確性は求められませんが。

江戸城秘図は、見たときビックリが先に立ち、描かれた年代は確認していません。20211204a12
先入観で、帯曲輪の初期段階かと思ってしまいました。(今から見ればお粗末でした)

平川門さんと、私の疑問は、当時の人にとって「当たり前の事」で、記録するまでもまでもない事だったのかもしれません。
ご指摘の通り現在の山里門単独では不浄門とされる機能はないです。疑問が残ります。


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江戸城石垣の採石場(熱海市下多賀)

江戸城の石垣は伊豆半島から運ばれました。その採石場の一つ熱海市下多賀を訪れました。(5月30日)
ここは、いわば江戸城の故郷になります。
数百メートル車で登って行きました。

今、目の前にある岩は、江戸城に運ばれることのなかった「残念石」になります。


『羽柴右近』(森忠政=森蘭丸の弟)の銘があります。



ノミで表面加工した「すだれ仕上げ」
今までお城へ運んで積み上げる前に工事現場での作業と思っていました。採石場での作業と知ったのは収穫です。


この石は、ここで欠けてしまったので、お江戸に行くことはなかったのでしょう。

有馬家の採石場であることを示す岩

「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年七月廿一日」と刻まれています。

「慶長十九年」の刻印石 徒歩でかなり上がって行ったところにあります。

(写真)青字で補った左側に刻まれています。
刻印石がゴロゴロしています。

江戸までは船で運ばれました。

嵐で一度に200艘が沈んだ記録があるそうです。落胆ぶりがわかります。

ここへ来て、江戸城の石垣の石を切り出し、運ぶことが危険で過酷な労働である事を強く感じました。

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江戸城始図を拝見

今月6日に江戸城の図面に関する展覧会を2展見に行ってきました。
1つは、都立中央図書館での「幕末の大奥と明治の皇城」展です。


展示の第1章が江戸と江戸城です。慶長江戸図の実物が展示されていました。
そして「今江戸図」も展示されていました。
今回の私のテーマである『江戸城の帯曲輪はいつできたのか?』のヒントがありました。
最初期の慶長にはまだありません。「今江戸図」には載っていますので、寛文(1650年ごろ)にはできたようです。このことがわかって嬉しかった。
「幕末の大奥」の展示も権力の移行が見えて良かった。



2つ目は、日比谷図書館文化館の「松江城と江戸城」展です。




江戸城始図の現物を見ました。
テレビニュースで知っていましたが生で見ると言うのはまた別格です。
お土産にクリアファイルを買いました。


そして図録

勉強になりました。

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皇居(江戸城)平川門と不浄門の新資料

 江戸東京博物館で開かれている企画展『徳川将軍家へようこそ』で、びっくりする資料に遭遇しました。“江戸城秘図”です。「平川門」の部分に目が釘付けになりました。

この地図にふれる前にこのブログで取り上げてきたことをまとめてみます。

 

城内に向かって平川門(渡櫓)の右隣にもう一つ門(帯曲輪門)があります。このような形態の門は、江戸城では、ここをおいて他にありません。この門は、死体や糞尿、罪人を城外にだした不浄門と言われています。舟で運び出されたとされています。

 

170823a3
ところが、ここからは(通路のようになっている)帯曲輪を通って竹橋門に出ます。不浄門から舟で運び出すことは不可能です。

 

170823a2_2

 

170823a5_2

江戸時代は260年以上続きましたので、江戸城も改変が行われています。

享保年間の江戸城図には船着き場のような記載があります

 

170823a4_2

 

詳細はわかりませんが、不浄門の機能を果たす有力な資料です。

初期にはそもそも帯曲輪はありませんでした。
(江戸城始図)

 

170823a11_2(寛永江戸図)

 

170823a121_2

 

ところがびっくり、
企画展『徳川将軍家へようこそ』で展示された“江戸城秘図”では、帯曲輪は竹橋門までつながっていません。

 

170822b1_2

不浄門として合理的な構造になっています。実に明確な図です。今まで目にしたことがない図ですし、出所も徳川記念財団ですから確かです。私が驚いた理由です。

ただ、この展示では、図を19世紀としてますし、更なる情報が欲しいところではあります。

現状の平川門、不浄門からみて、不浄門について疑問を持ったことがありましたが、帯曲輪門を不浄門とすることは合理的と思います。

 

 

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