江戸城不浄門について
ツツミ様からいただいた不浄門に関する事跡の紹介です。
(紹介が遅れましたこと、お詫び申し上げます)
従来の不浄門に関する説明の根底が、覆るような話です。
天明から化政文化の時期にかけて、江戸文化の中心に在った大田南畝が著した『一話一言』に、「天明四年甲辰三月、新御番佐野善左衛門、若年寄田沼山城守、殿中手疵一件」と題する記録があります。
当時権勢を振るっていた田沼意次の嫡男田沼意知が、佐野政言に殿中で切り付けられる、という、松の廊下の刃傷の次に有名な刃傷事件では、加害者、被害者共、どの門から退出したのか、公的な記録には書き残されていません。しかし、田沼意知は、神田橋の近くに在った父の意次の屋敷に運ばれ、佐野政言は、伝馬町の揚り座敷に送られており、それらの場所に向かうのに平川門から退出するのは合理的で、本丸で発生した他の事件の例に照らしてみても、当然平川門から退出したはず、と考えていました。
ところが、南畝の記録には、次のようにあります。
『天明四辰年三月廿四日蜷川相模守組新御番佐野善左衛門於殿中若年寄田沼山城守へ手疵爲負候節左之趣
一 田沼山城守は於殿中早速療治御手當被仰付駕籠にて“大手通り”神田橋屋敷へ退出す
一 佐野善左衛門は網乗物にて御徒目付御小人目付差添“大手通り”揚座敷へ被遣候』
なんと、被害者、加害者どちらも、表門である大手門を通って退出した、とされているのです。
南畝は、身分は低いもののれっきとした幕臣であり、狂歌だけでなく、江戸の故実についての著述などでも知られる人物です。田沼意次に近かった勘定組頭土山宗次郎とも親しく、この事件に関して間違いを記すとは思えません。それでも、これまで語られてきた「江戸の常識」からあまりにもかけ離れているので、万が一南畝が間違えている可能性も排除できずに、判断付きかねている状況でした。
そこに、またまた新発見が(笑)。
先日の「鉄道開業150年」展の記事を拝読して、国立公文書館のホームページで過去の展示内容をいろいろと見ていた所、この夏開催された「江戸城の事件簿」展に、昌平坂学問所旧蔵の『寛永以来刃傷記』なる書物が、展示されていた事を知りました。これは、もしや、とデジタルアーカイブで読んでみると、図星でした。
この書物には、『天明四年甲辰四月 日集之』と奥書が有り、田沼意知の事件から間を置かず、恐らくこの事件を契機に集められた情報を、書き留めた物らしい事が判ります。書名通り過去の刃傷事件も列記されていますが、ほとんどは簡略なもので、直近の田沼の事件に関する記録が大部分を占めています。
この書物には、佐野政言の江戸城からの退出場面が、記録されていました。『善左衛門を揚り座敷へつかハす(遣わす)とて御城より駕籠に乗せて“大手御門を出る時”下馬に居たる諸役人の供の者とも(者共)一同に武士はないかと思へハあるそ山城守をきつたとハてかした/\(武士は無いかと思えば、有るぞ。山城守を切ったとは、でかした/\。)と高聲に』云々、と記されており、南畝の記録同様、ここでも、この事件の犯人の退出に、平川門ではなく、大手門が使われていた事が明記されています。同書では、田沼意知がどの門から退出したのか不明ですが、加害者が大手門から出ている以上、南畝の記録通り、被害者も大手門から出たと考えるべきでしょう。『寛永以来刃傷記』は事件後間も無い時点での記録であり、『一話一言』の記述は、南畝の間違いではなかった、と判断してよいものと思います。
『寛永以来刃傷記』には、「細川宗孝公遭難事件」に関してもかなり詳しく書かれています。被害者の細川宗孝の退出について、『(細川)越中守乗物蘇鉄之間迄入中ノ口ヨリ平川口御門通リ退出』、加害者の板倉修理の退出については、『水野監物ニ御預ケ是又蘇鉄之間エ乗物入中ノ口ヨリ平川口ヨリ小川町水野監物屋敷エ引取』とあって、熊本藩の覚書の内容が正確である事も、これらの記録から改めて確認できました。
江戸城の制度については、まだまだ調べ切れていない事が、沢山有るように感じています。「江戸の常識」とされているものには、維新後に歴史学者等によって作り出された部分も、かなり有るのではないでしょうか。
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