カテゴリー「大津皇子のお墓」の13件の記事

夏見廃寺(昌福寺)三重県名張市 奈良旅行202306

足を延ばしてちょっとだけ県境を越えました

初代斎王の大来皇女が建立した昌福寺の跡と推定されています
大来皇女は悲劇の大津皇子の姉です
この地を訪れた理由がここにあります
展示館があります
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金堂内部の復元
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仏像はなく、塼仏(せんぶつ)がその代わりとなっています
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京都大学総合博物館に出土品が展示されています
(展示館は撮影禁止となっています)

寺跡
展示館の方に案内してもらいました
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金堂の階段
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河原石で作られています

塔跡
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本来からある礎石は6個です
心礎
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心柱の礎石の心礎は、本来のものです
心礎さえ本来のものであれば良しです

夏見廃寺の帰りに
脇本遺跡に寄りました
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脇本遺跡は雄略天皇の宮跡ですが
天武朝の建物跡も発見されました
この建物が斎王の大来皇女に関する建物です
現在は埋め戻されています
この地から畝傍山が見えます
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大来皇女が見た景色がそこにあります



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大津皇子の移葬はいつ?

飛鳥時代の悲劇
持統天皇(当時皇后)が息子の草壁皇子のライバルになる大津皇子を
謀反の罪で死を命じた悲劇は今でも多くの人の悲しみを誘います。

このブログでも「大津皇子の墓」としてカテゴリー(画面左から入ります)で取り上げてきました
宮内庁の定めている二上山墓は明治になって作った墓であり
鳥谷口古墳が真のお墓であることなどです

大津皇子は686年10月に死を命じられました
初葬地ははっきりしていませんが、その後に移葬されました
いつ移葬されたのか?

移葬の契機は、大津皇子の死後2年半後に草壁皇子が亡くなったことだとは
誰もが想像することです
私は、「草壁皇子の死は、大津皇子の怨霊のせいだ」と草壁皇子の死後に移葬されたのではないか
と漠然と考えていました

そしてその答えとなる論文に出会いました
菊池義裕氏の『二上山と大津皇子の移葬」』と題する論文です
結論は、
草壁の病気平癒にかかわる大赦の一環として689年3月頃に移葬されたことを推測される
としてます
論拠については、ここでは省きますが精緻な論考で説得力があります
草壁は、翌月にはなくなります
鳥谷口古墳が間に合わせの棺材で作られたこととも符合します

移葬に関する諸説は、菊池氏の論文をもってほぼ終着となるように思います。

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鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)4

宮内庁が作って決めた二上山頂上付近の大津皇子の墓と、奈良県指定史跡の鳥谷口古墳について述べてきました。没後1300年以上たって全く根拠もなく作った宮内庁の大津皇子の墓は単なるモニュメントです。モニュメントと鳥谷口古墳は本来比較の対象とさえならないと思います。
仮に百歩譲って、宮内庁の指定墓が、大津皇子を『供養するための場所=墓』とするなら明治になって作った墓であると明記すべきです。しかし宮内庁は、あくまで大津皇子の墓であるとする姿勢は変わりないでしょう。

それは、日経電子版に掲載された「宮内庁調査官が明かす「896」の聖域 天皇陵の真実」の記事からわかります。その一部を引用します。

質問―宮内庁が指定している陵墓の被葬者には、考古学などの研究成果をもとに「間違っているのでは」「指定を見直さないのか」などの声が多い。  調査官の返答「現在の指定を覆すに足るだけの確固たる資料は無いと考えています。確証となり得るのは、内容がきちんと合致する文献か、ピンポイントで天皇陵を示している古絵図。考古資料では墓誌です。100%確実な資料が現れた段階で検討します」

『墓誌・・・被葬者の名前が記されたもの』が出れば、指定を見直す検討を始めるということです。日本の古墳から墓誌が出る例は極めて少ないです。鳥谷口古墳からも墓誌は出ていません。宮内庁が鳥谷口古墳を大津皇子の墓と認める可能性はないということです。そもそも現在宮内庁の指定している陵墓から墓誌が出ているのでしょうか?とツッコミを入れたくなります。


質問―宮内庁には「もし指定が誤っていても、祭祀を執り行っているところに御霊が移ってくる」との考え方があると聞く。本当か。 調査官の返答「そんな考え方はしていません。研究者が著した本にそう書いてあるため調べたことがありますが、本当にそんな発言があったのか、確認できませんでした」

つまり「供養するために設けた場所」とは考えず、あくまで墓である、と。

天皇陵について述べたものですが、皇族の墓についても適用されています。幕末から明治にかけて指定した段階から1mmも動いていません。真実から目を背け、学問の進歩とは無縁の硬直した姿勢が問われています。これが被葬者に対する御魂を鎮めることになっているのでしょうか。
鳥谷口古墳の現地に建つ説明板です。20211224a1
近くにある宮内庁の二上山墓に遠慮してか、「大津皇子のお墓との説もある」という控えめな説明さえもありません。「特異な石槨構造」と記して、わかる人にはわかってほしい。といったところでしょうか。
長くなってしまったので、大津皇子のお墓のことは、ここで終えたいと思います。「大津皇子の墓」としてカテゴリーを設けてありますのですべての記事の参照にお使い下さい。

宮内庁の指定の二上山墓と、鳥谷口古墳(真の大津皇子の墓)の両方にぜひ行って欲しいです。おのずと答えが出ると思います。

日経記事の全文はこちら(2010年11月27日付け) 宮内庁調査官が明かす「896の聖域」 天皇陵の真実|NIKKEI STYLE

 

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鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)3

鳥谷口古墳を初めてみると、およそ古墳らしくないその姿に最初は違和感を感じます。20211126b
保護のため石槨が中にあります。多くの古墳のイメージとしては、「羨道があって、その奥に横穴石室があり、石室の中に石棺がある」ではないでしょうか。
終末期古墳(大津皇子と時代が合う)の鳥谷口古墳は『横口式石槨』というタイプです。石室と石棺を合体させたと言えばイメージできるかと思います。横穴石室に比べると小型です。20211126b12
石槨の右部に四角い穴から、被葬者を運び込んでいます。小さい穴ですので、遺体を運び込むことはできず、火葬遺骨か改葬された遺骨を葬ったものと思われます。(大津皇子の”移葬”と合致する)
墳丘は、一辺7.6mの方墳です。墳丘には人の頭よりも大きめの石が貼付けられています。20211126b21
家形石棺の蓋を北側面(写真左側面)に使う、しかも二つに割れている。など特異な作り(おっつけ仕事)になっています。20211126b320211126b33_20211223233801  
(覆い屋の開口部は南ですので、ここから見学しますから現状では確認できません)
石槨内からは何も発見されませんでしたが、四角い穴をふさぐ閉塞石が発見され、7世紀の土器・須恵器が発見され石槨の南側に前室があったと推定されています。

土取り作業の途中で偶然発見された状況から、現状はあまり見かけない変った古墳に見えますが、復元図で往時を偲べます。20211126b4

 

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鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)2

二上山頂上付近の宮内庁が明治になって作った「自称 大津皇子の墓」は全く墓ではないことを述べてきました。ここからは真の大津皇子の墓である鳥谷口古墳について触れてゆきます。

本文82ページ、図版36ページの調査報告書が、考古学的考察のみならず伝承・民俗・文献など多方面からの考察を踏まえて『鳥谷口古墳は大津皇子の墓の可能性が極めて大きい』としていることの意味をきちっと受け止めたいです。学術報告書ですから、遺骨が発見されなかった。そして墓誌など氏名に結び付く遺物が発見されていなから断定していないだけです。次なる新発見がない限り、鳥谷口古墳を真の大津皇子の墓とすべきです。そして次なる発見の可能性は極めて少ないものと思われます。この古墳を「大津皇子の墓という説もある」とか「有力な説である」といった通り一片の説明には、同意できません。宮内庁治定の墓は、フィクションですので論外です。

鳥谷口古墳は、1983年5月に、土取り作業中に偶然発見されました。堤改修に必要な土を採取している際に、パワーシャベルの運転手が石が多くなってきて、「古墳ではないか?」と気づき、県庁に報告しました。運転手さんも偉いです。ここから現地調査が始まりました。
調査開始前の状況です。20211222a1
右上に開口部が見えます。ショベルカーの刃先の跡が残っています。20211222a2
開口部の閉塞石が転がっています。
古墳が埋まったのにかかったのは600年ぐらいと予想されてます。大津皇子の墓の伝承が地元に伝わっていない理由なのだろうと想像します。

調査が進み「現地保存ではなく、移築もやむなし」との方針が変更され、現地保存されました。現地の地理的環境を考えると移築ではその価値が大きく損なわれました。現地保存に尽力された関係者に敬意を表します。
(続きます)

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宮内庁が決めた大津皇子の墓の盗掘事件

宮内庁が、明治9年に二上山頂上付近に大津皇子の墓を作りました。墓がまったく捏造と言ってよい存在であることは、すでに述べたところですが、なんと、この墓を盗掘するという事件がありました。
明治18年5月に盗掘された痕跡が発見され、地元から警察署へ、さらに翌6月に大阪府知事から宮内省御陵墓課長あて検証書類を添付して報告がなされました。
それによると「墓の西側(正面)に巾90cm、深さ1.2mほどの盗掘口が発見された。掘り進んだ深さ90cmほどは山石が積まれていて、その先は土となっていた。あたりには掘り出された石や土が散乱していた。棺その他のものは発見されていない。宝物目当てに掘ったが、あきらめたと思われる。状況からして単独ではなく3,4人による犯行と思われる。(犯人はわかっていません)」
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文面からは、棺が出ていないことに安どしたことが行間から感じられました。このお墓を作るとき(明治9年)に宮内省が棺や宝物を埋めたとは考えずらいので、そもそも犯行の狙いが的外れです。ただ、当時はお宝が眠っていると思われていたのでしょうね。
大津皇子の墓なら、終末期古墳のはずですが、まったく違う構造であることがはらずも露呈されました。

墓が作られてから10年経たないうちに盗掘される。人間の浅ましさの一端を見せつけられた思いがします。

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宮内省が大津皇子の墓を二上山頂上付近にした根拠は?

宮内庁(当時は宮内省)が大津皇子の墓を二上山頂上付に治定した根拠は宮内庁が事情を説明しない限り、わからないとしか言いようがないです。すでにふれたように古墳や遺物があったとの情報はありません。私は、万葉集にある姉の大伯皇女の移葬の際の歌の「明日よりは 二上山を 弟と我が見む」かなと思っていましたが、鳥谷口古墳調査報告書(以下調査報告書と記します)によれば、『大和志』を参考にした可能性を指摘してます。私も『大和志』を見にゆきました。

『大和志』は、享保19(1734)年になった奈良県の地誌です。大津皇子のお墓に関する記述ではもっとも古いと思われます。それでも大津皇子の死から1050年近くたっていますので、信頼度・正確性の限界を認識しておく必要があります。

そもそも二上山の紹介で、大津皇子の姉の大来皇女(大伯皇女)の歌を紹介しています。20211210a4
大津皇子の墓は、「二上山二上神社東に在り」と記しています。20211210a2
「東」という漠然とした方向の表記です。

そして二上山城もあったと触れています。20211210a3
であるなら、大津皇子の墓は二上山城の中にあるとしてもよさそうです。
ですが、そもそも確たる根拠のない記述に突っ込みを入れてもしょうがないですね。
宮内省が明治9年の治定の際に参考にしたという確証は得られていませんが、他に参考にしたものが見つからないのも事実です。

そもそも二上山は、当時神聖視されていました。中臣寿詞(なかとみのよごと)の中に「天の二上」という表現が見えています。そこにお墓をそれも反逆者のお墓を設けることはあり得ないです。畝傍山、耳成山、天香久山、三輪山の頂上にはお墓がありません。

さらに、二上山頂上の墓は、風水と合致しません。私は風水を信じませんが、当時風水によって選地されていた状況を無視はできません。鳥谷口古墳の立地こそ風水にかなっています。来村多加史氏の「風水と天皇陵」20211210a7 コラムで鳥谷口古墳について「ダイナミックな選地は感動的である。」と述べてます。ご一読をお勧めします。

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大津皇子のお墓がある二上山城跡

大津皇子の墓に関しては、古墳と寺しか頭になかったのですが、思いがけず『お城』の存在が浮かび上がってきたので調べました。

この地に最初に城を設けたのは楠正成(くすのきまさしげ)=1330年前後=鎌倉末期と伝えられているが、確証はない。とのことです。
記録で確認できるるのが1504年と言いますから、大津皇子没後800年以上過ぎてのことになります。さらに下って1541年に木沢長政が築城したのが現在の二上山城だそうです。

奈良県遺跡地図では範囲しかわかりませんので、城郭大系により詳しい廓の図を参照します20211201a12
さらに大津皇子の墓の位置が「二の丸」にあったとことがわかる拡大図です20211201a11
大系では、墓のある場所は、「櫓台か土塁であったと思われる」としています。普通に考えると城の時代は「ならした平坦地」であったと思うのですが、櫓台或いは土塁とした根拠はわかりません。墓域周辺は石垣で補修され、公園化しているので往時の面影はない。ともしています。
(史跡破壊だろう!と、ツッコミを入れたくなります)


ここを宮内庁は、1876年(明治9年)に大津皇子の墓としました。大津皇子没後1200年近く過ぎています。
墓は柵で囲まれていますが、宮内庁からその地形図が公になっています20211201a13
3mほどの高さの土饅頭状態に盛り土されています。墓の正面からはわかりにくいですが脇からは3mほどの盛り土が確認できます。
20211201a14 「1200年ほどたってから、城跡の一角に3mの高さの盛り土をして、看板と鳥居を立てて囲って墓とした」これが宮内庁治定の二上山墓の実態です。
こうした経過が現地案内板で明らかにされることはありません。

(つづきます)

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二上山墓(宮内庁治定の大津皇子の墓)

2018年に仲間と二上山雄岳の頂上付近にあるこのお墓を訪れています。
大津皇子の悲劇を知っていましたので、行きたかったお墓でした。
でも、「ようやく、ここまで来た」という感動はなかったように記憶しています。
中央に鳥居、右手に注意書きのある看板『天武天皇皇子大津皇子 二上山墓』20211210a6
どこの陵墓にもある共通規格です。「魂を鎮める」という雰囲気に浸るという気持ちになれなかったのは、「陵墓はどこも同じ」ということが気持ちに影響したのだと思います。

ちなみに、天皇、皇后のお墓は「陵」その他の皇族は「墓」と宮内庁では区別してます。また、陵墓に指定することを治定(じじょう)と言います。二上山は、現在は「にじょうさん」と呼びますが、大津皇子の時代には「ふたがみやま」と呼んでます。

今回の旅行で調べていったら、奈良県遺跡地図で、「二上山の頂上はお城(赤枠内がその範囲)」であることがわかって、びっくりしました。20211117a6
宮内庁が治定した二上山墓(黄丸)は、城跡の中にあります。地図の鳥谷口古墳(緑丸)は、真の大津皇子のお墓です。私は、鳥谷口古墳を「大津皇子の墓とする説もある」とは書きません。その理由は稿を進めていって述べたいと思います。

2018年に二上山に行ったときは、お城であったとは、まったく知りませんでした。

(つづきます)

 

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大津皇子のお墓(カテゴリーを追加しました)

大津皇子に関して、若干の資料・論文に目を通して、私なりの感想を持ちました。まだ、あたりたいと思っていながらあたりきれていない資料などがあります。これから記事が何回かに分かれますので、新しく「大津皇子のお墓」のカテゴリーをこのブログに設けました。関連の記事をまとめて見やすいようにしました。これからの記事もこのカテゴリーに追加してゆきます。

大津皇子(おおつのみこ)は、飛鳥時代686年に謀反の疑いをかけられて24歳の若さで自害させられました。父の天武天皇が亡くなってから一ヶ月も立っていませんでした。
草壁皇子の母の持統天皇(この時点では天武天皇の皇后)が、我が子の皇太子である草壁皇子の存在を将来脅かす恐れのある大津皇子を排除したものです。妃の山辺皇女は、後を追て自殺しました。
大津皇子は妃の山辺皇女と共にどこかに簡略に葬られたのでしょう。そして初葬地の墓から二上山に移されました。その時、斎王として伊勢斎宮にいた、大伯皇女(おおくのひめみこ)が、大和に戻って歌った歌が伝えられています。

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我が見む

大津皇子の母・大田皇女は、持統天皇の姉で、天武天皇の妃です。大津皇子が幼少の時に亡くなりました。大田皇女がはやくに亡くなっていなかったなら、大津皇子の運命も変わっていたでしょう。

大津皇子の御霊を鎮める場所はどこなのか、考えてみます。

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