宮内庁が作って決めた二上山頂上付近の大津皇子の墓と、奈良県指定史跡の鳥谷口古墳について述べてきました。没後1300年以上たって全く根拠もなく作った宮内庁の大津皇子の墓は単なるモニュメントです。モニュメントと鳥谷口古墳は本来比較の対象とさえならないと思います。
仮に百歩譲って、宮内庁の指定墓が、大津皇子を『供養するための場所=墓』とするなら明治になって作った墓であると明記すべきです。しかし宮内庁は、あくまで大津皇子の墓であるとする姿勢は変わりないでしょう。
それは、日経電子版に掲載された「宮内庁調査官が明かす「896」の聖域 天皇陵の真実」の記事からわかります。その一部を引用します。
質問―宮内庁が指定している陵墓の被葬者には、考古学などの研究成果をもとに「間違っているのでは」「指定を見直さないのか」などの声が多い。 調査官の返答「現在の指定を覆すに足るだけの確固たる資料は無いと考えています。確証となり得るのは、内容がきちんと合致する文献か、ピンポイントで天皇陵を示している古絵図。考古資料では墓誌です。100%確実な資料が現れた段階で検討します」
『墓誌・・・被葬者の名前が記されたもの』が出れば、指定を見直す検討を始めるということです。日本の古墳から墓誌が出る例は極めて少ないです。鳥谷口古墳からも墓誌は出ていません。宮内庁が鳥谷口古墳を大津皇子の墓と認める可能性はないということです。そもそも現在宮内庁の指定している陵墓から墓誌が出ているのでしょうか?とツッコミを入れたくなります。
質問―宮内庁には「もし指定が誤っていても、祭祀を執り行っているところに御霊が移ってくる」との考え方があると聞く。本当か。 調査官の返答「そんな考え方はしていません。研究者が著した本にそう書いてあるため調べたことがありますが、本当にそんな発言があったのか、確認できませんでした」
つまり「供養するために設けた場所」とは考えず、あくまで墓である、と。
天皇陵について述べたものですが、皇族の墓についても適用されています。幕末から明治にかけて指定した段階から1mmも動いていません。真実から目を背け、学問の進歩とは無縁の硬直した姿勢が問われています。これが被葬者に対する御魂を鎮めることになっているのでしょうか。
鳥谷口古墳の現地に建つ説明板です。
近くにある宮内庁の二上山墓に遠慮してか、「大津皇子のお墓との説もある」という控えめな説明さえもありません。「特異な石槨構造」と記して、わかる人にはわかってほしい。といったところでしょうか。
長くなってしまったので、大津皇子のお墓のことは、ここで終えたいと思います。「大津皇子の墓」としてカテゴリーを設けてありますのですべての記事の参照にお使い下さい。
宮内庁の指定の二上山墓と、鳥谷口古墳(真の大津皇子の墓)の両方にぜひ行って欲しいです。おのずと答えが出ると思います。
日経記事の全文はこちら(2010年11月27日付け) 宮内庁調査官が明かす「896の聖域」 天皇陵の真実|NIKKEI STYLE
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