カテゴリー「陵墓」の39件の記事

牽牛子塚古墳ペーパークラフト

明日香村にある牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)が6日に復元公開されました。
早く現地に行きたい気持ちはあるのですが、まだいけそうもありません。
はやる気持ちをペーパークラフトを作ることで、現地へ行く疑似体験をしてみました

これが終末期古墳の復元された天皇陵の姿です
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復元された形ですので開口部(黒い部分)と階段も再現されています
開口部の奥には石槨があります

牽牛子は朝顔のことです。地元のお子さんたちが育てた朝顔が公園の中にあるようです
ペーパークラフトでも朝顔が添えられています 見学者もいます 芸が細かい(笑)
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復元された姿ですので開講部がありますが、
本来の開口部のない形は後ろから見ることになります
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三段になっていて、それぞれを離すことができ
一段目には石槨(間人皇女と斉明天皇の2室あります)現れます
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二段目は石槨の天井が描かれています

このペーパークラフトは、奈良文化財研究所飛鳥資料館のホームページからダウンロードできます。
1時間ほどで作れます。

それはそれとして、早く見学に行きたいです

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牽牛塚古墳 復元オープン

斉明天皇の陵の牽牛塚古墳の復元工事が終わり3月6日より一般公開されます。
前方後円墳、円墳、方墳などの復元例は数多くありますが、八角形の古墳の復元例としては初めてです。
それもそのはず、八角形の古墳は飛鳥時代後期の天皇陵古墳の墳形だからです。

牽牛塚古墳は斉明天皇の陵です。宮内庁が定める斉明天皇の陵(車木ケンノイ古墳)は別にあります。間違って指定して、一度指定したら変更しません。
その頑なさが、天皇陵古墳の復元という形になりました。

墳丘の中ほどで石槨も見学できるようになっています。
大田皇女(大津皇子の母)の墓の越塚御門古墳も見学できます。
私が行ったときは、発見後埋め戻されていましたので見学はできませんでした。
(この辺ではないかと、おそらく古墳の上あたりをうろうろしていました)

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牽牛塚古墳は、娘の間人皇女との合葬墳です。孫の大田皇女が隣ですし、物語の多い古墳です。
早く見に行きたいです。

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安徳天皇天皇陵

昨年末に宮内庁の大津皇子に関する図書を閲覧したのですが、
閲覧前に図書を検索しました。
前から知ってはいましたが、
宮内庁の文書公開でも誰でも閲覧できる図書と公開されない図書とがはっきりしています。
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2749の図書は利用制限で全部利用は公開ですが、2750の「要審査」が事実上非公開となっていると思われます。
天皇陵がどのように決められたか。その経緯は公表されていません。

今井尭著『天皇陵の解明』を読んだ中で、
外池昇氏が神田の古本屋さんで陵墓を決める経過を記した資料を偶然発見した。とありました。
そこで、本棚を探したところ外池昇著『天皇陵の誕生』が出てきました。
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発行年月日からすると10年ほど前に読んでいたのですが、すっかり忘れていました。

その中で「安徳天皇陵」の決定の経緯が紹介されています。
壇ノ浦で安徳天皇は海中に没したことは、よく知られています。
しかし、世の常として、遺体が見つからないと色々と伝説が生まれます。
その結果、安徳天皇陵は全国に15カ所あるそうです。
安徳天皇陵誘致運動が展開され、
伊藤博文の「歴代天皇陵が『不明』というのは外交上よろしくない」との判断のもと
明治22年(1889年)7月に明治天皇が「真の安徳天皇陵が発見されるまで」として
「女人が男子にまさる風習がある」ことで
壇ノ浦に近い現在地に決めました。
この頃1ヶ月半ほどの間に13の天皇陵がバタバタ決められました。
安徳天皇陵の指定から漏れた場所は「陵墓参考地」などになりました。

宮内庁は、天皇陵を「埋火葬された場所で供養墓である」ということは認めていません。

安徳天皇陵の所在は、日本の歴史にとってはほとんど意味はありませんが、
天皇陵とされた古墳は、その持つ意味合いが全く違います。

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『天皇陵の解明』今井尭著

天皇陵古墳の宮内庁による治定(指定)がいい加減であることは、多くの本で知っていました。また、崇峻天皇陵などを実際に見て「でっち上げの御陵」であることを実見しました。他の例でも実感しています。

今日、『天皇陵の解明』を読了しました。20220202a21
「宮内庁との公開への交渉」「法律面での問題点」「学問上の問題点」「個別例での問題点の指摘」等、天皇陵古墳に関して、基本資料ともなるべき労作であることを実感しました。
2009年10月の刊行ですが、内容は古さを感じさせません。巻末に至って、著者はこの年の4月に亡くなっており、亡くなられてからの発刊であることを知りました。著者の真摯な姿勢が伝わってきました。今更ながらですが、ご冥福をお祈りします。

本書からたくさんの「なるほど」をもらいました。刊行後13年経ていますので、入手が少し困難かもしれませんが、古墳、古代史、日本史に関心を持っている方に強くお勧します。
 

 

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鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)4

宮内庁が作って決めた二上山頂上付近の大津皇子の墓と、奈良県指定史跡の鳥谷口古墳について述べてきました。没後1300年以上たって全く根拠もなく作った宮内庁の大津皇子の墓は単なるモニュメントです。モニュメントと鳥谷口古墳は本来比較の対象とさえならないと思います。
仮に百歩譲って、宮内庁の指定墓が、大津皇子を『供養するための場所=墓』とするなら明治になって作った墓であると明記すべきです。しかし宮内庁は、あくまで大津皇子の墓であるとする姿勢は変わりないでしょう。

それは、日経電子版に掲載された「宮内庁調査官が明かす「896」の聖域 天皇陵の真実」の記事からわかります。その一部を引用します。

質問―宮内庁が指定している陵墓の被葬者には、考古学などの研究成果をもとに「間違っているのでは」「指定を見直さないのか」などの声が多い。  調査官の返答「現在の指定を覆すに足るだけの確固たる資料は無いと考えています。確証となり得るのは、内容がきちんと合致する文献か、ピンポイントで天皇陵を示している古絵図。考古資料では墓誌です。100%確実な資料が現れた段階で検討します」

『墓誌・・・被葬者の名前が記されたもの』が出れば、指定を見直す検討を始めるということです。日本の古墳から墓誌が出る例は極めて少ないです。鳥谷口古墳からも墓誌は出ていません。宮内庁が鳥谷口古墳を大津皇子の墓と認める可能性はないということです。そもそも現在宮内庁の指定している陵墓から墓誌が出ているのでしょうか?とツッコミを入れたくなります。


質問―宮内庁には「もし指定が誤っていても、祭祀を執り行っているところに御霊が移ってくる」との考え方があると聞く。本当か。 調査官の返答「そんな考え方はしていません。研究者が著した本にそう書いてあるため調べたことがありますが、本当にそんな発言があったのか、確認できませんでした」

つまり「供養するために設けた場所」とは考えず、あくまで墓である、と。

天皇陵について述べたものですが、皇族の墓についても適用されています。幕末から明治にかけて指定した段階から1mmも動いていません。真実から目を背け、学問の進歩とは無縁の硬直した姿勢が問われています。これが被葬者に対する御魂を鎮めることになっているのでしょうか。
鳥谷口古墳の現地に建つ説明板です。20211224a1
近くにある宮内庁の二上山墓に遠慮してか、「大津皇子のお墓との説もある」という控えめな説明さえもありません。「特異な石槨構造」と記して、わかる人にはわかってほしい。といったところでしょうか。
長くなってしまったので、大津皇子のお墓のことは、ここで終えたいと思います。「大津皇子の墓」としてカテゴリーを設けてありますのですべての記事の参照にお使い下さい。

宮内庁の指定の二上山墓と、鳥谷口古墳(真の大津皇子の墓)の両方にぜひ行って欲しいです。おのずと答えが出ると思います。

日経記事の全文はこちら(2010年11月27日付け) 宮内庁調査官が明かす「896の聖域」 天皇陵の真実|NIKKEI STYLE

 

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鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)3

鳥谷口古墳を初めてみると、およそ古墳らしくないその姿に最初は違和感を感じます。20211126b
保護のため石槨が中にあります。多くの古墳のイメージとしては、「羨道があって、その奥に横穴石室があり、石室の中に石棺がある」ではないでしょうか。
終末期古墳(大津皇子と時代が合う)の鳥谷口古墳は『横口式石槨』というタイプです。石室と石棺を合体させたと言えばイメージできるかと思います。横穴石室に比べると小型です。20211126b12
石槨の右部に四角い穴から、被葬者を運び込んでいます。小さい穴ですので、遺体を運び込むことはできず、火葬遺骨か改葬された遺骨を葬ったものと思われます。(大津皇子の”移葬”と合致する)
墳丘は、一辺7.6mの方墳です。墳丘には人の頭よりも大きめの石が貼付けられています。20211126b21
家形石棺の蓋を北側面(写真左側面)に使う、しかも二つに割れている。など特異な作り(おっつけ仕事)になっています。20211126b320211126b33_20211223233801  
(覆い屋の開口部は南ですので、ここから見学しますから現状では確認できません)
石槨内からは何も発見されませんでしたが、四角い穴をふさぐ閉塞石が発見され、7世紀の土器・須恵器が発見され石槨の南側に前室があったと推定されています。

土取り作業の途中で偶然発見された状況から、現状はあまり見かけない変った古墳に見えますが、復元図で往時を偲べます。20211126b4

 

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鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)2

二上山頂上付近の宮内庁が明治になって作った「自称 大津皇子の墓」は全く墓ではないことを述べてきました。ここからは真の大津皇子の墓である鳥谷口古墳について触れてゆきます。

本文82ページ、図版36ページの調査報告書が、考古学的考察のみならず伝承・民俗・文献など多方面からの考察を踏まえて『鳥谷口古墳は大津皇子の墓の可能性が極めて大きい』としていることの意味をきちっと受け止めたいです。学術報告書ですから、遺骨が発見されなかった。そして墓誌など氏名に結び付く遺物が発見されていなから断定していないだけです。次なる新発見がない限り、鳥谷口古墳を真の大津皇子の墓とすべきです。そして次なる発見の可能性は極めて少ないものと思われます。この古墳を「大津皇子の墓という説もある」とか「有力な説である」といった通り一片の説明には、同意できません。宮内庁治定の墓は、フィクションですので論外です。

鳥谷口古墳は、1983年5月に、土取り作業中に偶然発見されました。堤改修に必要な土を採取している際に、パワーシャベルの運転手が石が多くなってきて、「古墳ではないか?」と気づき、県庁に報告しました。運転手さんも偉いです。ここから現地調査が始まりました。
調査開始前の状況です。20211222a1
右上に開口部が見えます。ショベルカーの刃先の跡が残っています。20211222a2
開口部の閉塞石が転がっています。
古墳が埋まったのにかかったのは600年ぐらいと予想されてます。大津皇子の墓の伝承が地元に伝わっていない理由なのだろうと想像します。

調査が進み「現地保存ではなく、移築もやむなし」との方針が変更され、現地保存されました。現地の地理的環境を考えると移築ではその価値が大きく損なわれました。現地保存に尽力された関係者に敬意を表します。
(続きます)

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宮内庁が決めた大津皇子の墓の盗掘事件

宮内庁が、明治9年に二上山頂上付近に大津皇子の墓を作りました。墓がまったく捏造と言ってよい存在であることは、すでに述べたところですが、なんと、この墓を盗掘するという事件がありました。
明治18年5月に盗掘された痕跡が発見され、地元から警察署へ、さらに翌6月に大阪府知事から宮内省御陵墓課長あて検証書類を添付して報告がなされました。
それによると「墓の西側(正面)に巾90cm、深さ1.2mほどの盗掘口が発見された。掘り進んだ深さ90cmほどは山石が積まれていて、その先は土となっていた。あたりには掘り出された石や土が散乱していた。棺その他のものは発見されていない。宝物目当てに掘ったが、あきらめたと思われる。状況からして単独ではなく3,4人による犯行と思われる。(犯人はわかっていません)」
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文面からは、棺が出ていないことに安どしたことが行間から感じられました。このお墓を作るとき(明治9年)に宮内省が棺や宝物を埋めたとは考えずらいので、そもそも犯行の狙いが的外れです。ただ、当時はお宝が眠っていると思われていたのでしょうね。
大津皇子の墓なら、終末期古墳のはずですが、まったく違う構造であることがはらずも露呈されました。

墓が作られてから10年経たないうちに盗掘される。人間の浅ましさの一端を見せつけられた思いがします。

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宮内省が大津皇子の墓を二上山頂上付近にした根拠は?

宮内庁(当時は宮内省)が大津皇子の墓を二上山頂上付に治定した根拠は宮内庁が事情を説明しない限り、わからないとしか言いようがないです。すでにふれたように古墳や遺物があったとの情報はありません。私は、万葉集にある姉の大伯皇女の移葬の際の歌の「明日よりは 二上山を 弟と我が見む」かなと思っていましたが、鳥谷口古墳調査報告書(以下調査報告書と記します)によれば、『大和志』を参考にした可能性を指摘してます。私も『大和志』を見にゆきました。

『大和志』は、享保19(1734)年になった奈良県の地誌です。大津皇子のお墓に関する記述ではもっとも古いと思われます。それでも大津皇子の死から1050年近くたっていますので、信頼度・正確性の限界を認識しておく必要があります。

そもそも二上山の紹介で、大津皇子の姉の大来皇女(大伯皇女)の歌を紹介しています。20211210a4
大津皇子の墓は、「二上山二上神社東に在り」と記しています。20211210a2
「東」という漠然とした方向の表記です。

そして二上山城もあったと触れています。20211210a3
であるなら、大津皇子の墓は二上山城の中にあるとしてもよさそうです。
ですが、そもそも確たる根拠のない記述に突っ込みを入れてもしょうがないですね。
宮内省が明治9年の治定の際に参考にしたという確証は得られていませんが、他に参考にしたものが見つからないのも事実です。

そもそも二上山は、当時神聖視されていました。中臣寿詞(なかとみのよごと)の中に「天の二上」という表現が見えています。そこにお墓をそれも反逆者のお墓を設けることはあり得ないです。畝傍山、耳成山、天香久山、三輪山の頂上にはお墓がありません。

さらに、二上山頂上の墓は、風水と合致しません。私は風水を信じませんが、当時風水によって選地されていた状況を無視はできません。鳥谷口古墳の立地こそ風水にかなっています。来村多加史氏の「風水と天皇陵」20211210a7 コラムで鳥谷口古墳について「ダイナミックな選地は感動的である。」と述べてます。ご一読をお勧めします。

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大津皇子のお墓がある二上山城跡

大津皇子の墓に関しては、古墳と寺しか頭になかったのですが、思いがけず『お城』の存在が浮かび上がってきたので調べました。

この地に最初に城を設けたのは楠正成(くすのきまさしげ)=1330年前後=鎌倉末期と伝えられているが、確証はない。とのことです。
記録で確認できるるのが1504年と言いますから、大津皇子没後800年以上過ぎてのことになります。さらに下って1541年に木沢長政が築城したのが現在の二上山城だそうです。

奈良県遺跡地図では範囲しかわかりませんので、城郭大系により詳しい廓の図を参照します20211201a12
さらに大津皇子の墓の位置が「二の丸」にあったとことがわかる拡大図です20211201a11
大系では、墓のある場所は、「櫓台か土塁であったと思われる」としています。普通に考えると城の時代は「ならした平坦地」であったと思うのですが、櫓台或いは土塁とした根拠はわかりません。墓域周辺は石垣で補修され、公園化しているので往時の面影はない。ともしています。
(史跡破壊だろう!と、ツッコミを入れたくなります)


ここを宮内庁は、1876年(明治9年)に大津皇子の墓としました。大津皇子没後1200年近く過ぎています。
墓は柵で囲まれていますが、宮内庁からその地形図が公になっています20211201a13
3mほどの高さの土饅頭状態に盛り土されています。墓の正面からはわかりにくいですが脇からは3mほどの盛り土が確認できます。
20211201a14 「1200年ほどたってから、城跡の一角に3mの高さの盛り土をして、看板と鳥居を立てて囲って墓とした」これが宮内庁治定の二上山墓の実態です。
こうした経過が現地案内板で明らかにされることはありません。

(つづきます)

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