カテゴリー「陵墓」の44件の記事

盧山寺とお公家さんの集団墓地 奈良京都旅行201410/11

盧山寺は紫式部の邸跡です
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道長邸跡の説明板よりはるかに立派です
道長の邸跡からは徒歩で5分程の近距離です
とはいえ門がどこにあったかで違いますし
徒歩でふらっと歩く身分ではなかったでしょう
邸の広さは月とスッポンです
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入口には大河ドラマのポスター
嫁さんは参観
私は以前に来ていますのでスルーしてお隣の墓地へ

慶光天皇陵
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正直言って、ここもどうでもよかったのです
隣接してある墓地 お公家さんの集団墓地です
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武者小路家
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正二位とかが並んでいます
名前は「藤原朝臣」
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江戸初期の天皇の皇女
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こうした墓も数基あります

墓碑にどんなに高位の位階を刻んでも・・・・・
無常です。



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『神武天皇の歴史学』読了

外池昇氏の著作です
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伝説上の人物の神武天皇の墓がなぜあるのか?
それは、幕末に孝明天皇が伝承地3ヶ所から選んで決めたからです。

そこは知っていたのですが、なにをもとに孝明天皇が決めたのかがわかりませんでした
本書はその経緯、歴史的背景について詳しく書かれています
幕末に作られた神武天皇陵に関する決定版といってよいと思います


天皇や皇族がお参りする墓が「さしたる根拠もない墓である」こと
伝説上の人物の墓を作るというのは、そういうことなのですが
大方の人は、そうしたことは知りません

この本は、幕末に作られた神武天皇陵について述べていますが
藤原京を作った時にも作られています

神武陵については、あらためて記事にしたいと思います。





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「最後の天皇陵古墳」

昨日は、有楽町の朝日ホールに講演会を聞きに行ってきました
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文武天皇の陵である
中尾山古墳がメインテーマでした
宮内庁が治定している陵はまったく別の古墳です
宮内庁の陵墓調査官を定年退官して
関西大学の客員教授になっている徳田さんが、
質問を受けると「お役人だった立場で申し上げます」と答え
「仕方ないよね」といった笑いが何回も起こりました
もちろん宮内庁の治定が誤りであることが当然の前提です。

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副題が「火葬と改葬」でした
推古天皇、舒明天皇、斉明天皇が所葬地から改葬されています
終末期の天皇陵古墳でなぜこのようなことが起きたのか?
その背景を知りたいと思っていましたので
タイムリーな講演会でした

この50年間ほどの間に発掘調査などによって
古墳に対する学問水準が飛躍的に高まりました
そうしたこともあらためて感じた講演会でした。
良かった。


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明治になってから作った前方後円墳

橿原考古学研究所の友の会の会報が届きました
3月の例会のレポートが載っていましたが

兎道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)の墓
の近くまで来たのですが、寄らなかったとのことです

兎道稚郎子命は応神天皇の子供で
兎道(うじ)山上に葬られたと、日本書紀に書いてあります
実在したかどうかもわかりませんが
古墳時代です

この墓を明治になってから、単に丸っぽい丘を
前方後円墳に作り上げたそうです
ご丁寧にも周濠まで作ったそうです

私の手元に宮内庁が出した陵墓地形図があり見てみました
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以前からこの古墳図は見ていて
周濠部分を作り変えたのだろうと想像していたのですが
一から作ったとは!

明治になって、陵墓を作り上げた(でっち上げた)例はいっぱいありますが
まさかここまでしているとは思いませんでした

考古学趣味の例会ですから
明治になって作り上げたものをスルーしたのは当然です
が、私は逆にどんなものを作ったか、
馬鹿馬鹿しいと思いながら見てみたいと思いました


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箸墓と纏向遺跡

20日からの奈良・京都旅行を振りかえながら順次紹介します
今回の旅行で嫁さんが行きたいとあげたところは、すべて私が行っている所です
箸墓と纏向遺跡もその中の一つです

箸墓
何回も来ていますが
宮内庁が建てた鳥居の所はばかばかしいので行ってはいなかったのですが
今回初めて行ってみました
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嫁さんが驚いたように「卑弥呼の墓と書いていない!」と声を上げました
その驚きに、私は驚きました
 『倭迹迹日百襲姫命』と書いてあります
宮内庁には卑弥呼の3文字はありません
ただ、卑弥呼の墓とするのは説の一つです

葺石が古墳にそのまま残っています
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左手奥に三輪山を望む定番スポットです
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池に水がほとんど残っていません


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前方部から後円部を望みます
池に落ち込んだ葺石がよく見えます

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纏向遺跡
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柱の位置がわかるようになっています
VRで見るとこんな感じ
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今や遺跡にVRは欠かせないツールです

周辺の纏向石塚古墳、ホケノヤマ古墳なども巡りました

その前に桜井市埋蔵文化財センターに寄ったのですが、
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桜井市文化財協会がなくなるようです
東京から見ていて「何が起こったのか?」
いぶかしく感じていました
突然決まったようで、これからどうなるのかまだわからないようです
(訪問日 2月23日)




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牽牛子塚古墳ペーパークラフト

明日香村にある牽牛子塚古墳(斉明天皇陵)が6日に復元公開されました。
早く現地に行きたい気持ちはあるのですが、まだいけそうもありません。
はやる気持ちをペーパークラフトを作ることで、現地へ行く疑似体験をしてみました

これが終末期古墳の復元された天皇陵の姿です
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復元された形ですので開口部(黒い部分)と階段も再現されています
開口部の奥には石槨があります

牽牛子は朝顔のことです。地元のお子さんたちが育てた朝顔が公園の中にあるようです
ペーパークラフトでも朝顔が添えられています 見学者もいます 芸が細かい(笑)
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復元された姿ですので開講部がありますが、
本来の開口部のない形は後ろから見ることになります
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三段になっていて、それぞれを離すことができ
一段目には石槨(間人皇女と斉明天皇の2室あります)現れます
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二段目は石槨の天井が描かれています

このペーパークラフトは、奈良文化財研究所飛鳥資料館のホームページからダウンロードできます。
1時間ほどで作れます。

それはそれとして、早く見学に行きたいです

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牽牛塚古墳 復元オープン

斉明天皇の陵の牽牛塚古墳の復元工事が終わり3月6日より一般公開されます。
前方後円墳、円墳、方墳などの復元例は数多くありますが、八角形の古墳の復元例としては初めてです。
それもそのはず、八角形の古墳は飛鳥時代後期の天皇陵古墳の墳形だからです。

牽牛塚古墳は斉明天皇の陵です。宮内庁が定める斉明天皇の陵(車木ケンノイ古墳)は別にあります。間違って指定して、一度指定したら変更しません。
その頑なさが、天皇陵古墳の復元という形になりました。

墳丘の中ほどで石槨も見学できるようになっています。
大田皇女(大津皇子の母)の墓の越塚御門古墳も見学できます。
私が行ったときは、発見後埋め戻されていましたので見学はできませんでした。
(この辺ではないかと、おそらく古墳の上あたりをうろうろしていました)

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牽牛塚古墳は、娘の間人皇女との合葬墳です。孫の大田皇女が隣ですし、物語の多い古墳です。
早く見に行きたいです。

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安徳天皇天皇陵

昨年末に宮内庁の大津皇子に関する図書を閲覧したのですが、
閲覧前に図書を検索しました。
前から知ってはいましたが、
宮内庁の文書公開でも誰でも閲覧できる図書と公開されない図書とがはっきりしています。
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2749の図書は利用制限で全部利用は公開ですが、2750の「要審査」が事実上非公開となっていると思われます。
天皇陵がどのように決められたか。その経緯は公表されていません。

今井尭著『天皇陵の解明』を読んだ中で、
外池昇氏が神田の古本屋さんで陵墓を決める経過を記した資料を偶然発見した。とありました。
そこで、本棚を探したところ外池昇著『天皇陵の誕生』が出てきました。
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発行年月日からすると10年ほど前に読んでいたのですが、すっかり忘れていました。

その中で「安徳天皇陵」の決定の経緯が紹介されています。
壇ノ浦で安徳天皇は海中に没したことは、よく知られています。
しかし、世の常として、遺体が見つからないと色々と伝説が生まれます。
その結果、安徳天皇陵は全国に15カ所あるそうです。
安徳天皇陵誘致運動が展開され、
伊藤博文の「歴代天皇陵が『不明』というのは外交上よろしくない」との判断のもと
明治22年(1889年)7月に明治天皇が「真の安徳天皇陵が発見されるまで」として
「女人が男子にまさる風習がある」ことで
壇ノ浦に近い現在地に決めました。
この頃1ヶ月半ほどの間に13の天皇陵がバタバタ決められました。
安徳天皇陵の指定から漏れた場所は「陵墓参考地」などになりました。

宮内庁は、天皇陵を「埋火葬された場所で供養墓である」ということは認めていません。

安徳天皇陵の所在は、日本の歴史にとってはほとんど意味はありませんが、
天皇陵とされた古墳は、その持つ意味合いが全く違います。

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『天皇陵の解明』今井尭著

天皇陵古墳の宮内庁による治定(指定)がいい加減であることは、多くの本で知っていました。また、崇峻天皇陵などを実際に見て「でっち上げの御陵」であることを実見しました。他の例でも実感しています。

今日、『天皇陵の解明』を読了しました。20220202a21
「宮内庁との公開への交渉」「法律面での問題点」「学問上の問題点」「個別例での問題点の指摘」等、天皇陵古墳に関して、基本資料ともなるべき労作であることを実感しました。
2009年10月の刊行ですが、内容は古さを感じさせません。巻末に至って、著者はこの年の4月に亡くなっており、亡くなられてからの発刊であることを知りました。著者の真摯な姿勢が伝わってきました。今更ながらですが、ご冥福をお祈りします。

本書からたくさんの「なるほど」をもらいました。刊行後13年経ていますので、入手が少し困難かもしれませんが、古墳、古代史、日本史に関心を持っている方に強くお勧します。
 

 

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鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)4

宮内庁が作って決めた二上山頂上付近の大津皇子の墓と、奈良県指定史跡の鳥谷口古墳について述べてきました。没後1300年以上たって全く根拠もなく作った宮内庁の大津皇子の墓は単なるモニュメントです。モニュメントと鳥谷口古墳は本来比較の対象とさえならないと思います。
仮に百歩譲って、宮内庁の指定墓が、大津皇子を『供養するための場所=墓』とするなら明治になって作った墓であると明記すべきです。しかし宮内庁は、あくまで大津皇子の墓であるとする姿勢は変わりないでしょう。

それは、日経電子版に掲載された「宮内庁調査官が明かす「896」の聖域 天皇陵の真実」の記事からわかります。その一部を引用します。

質問―宮内庁が指定している陵墓の被葬者には、考古学などの研究成果をもとに「間違っているのでは」「指定を見直さないのか」などの声が多い。  調査官の返答「現在の指定を覆すに足るだけの確固たる資料は無いと考えています。確証となり得るのは、内容がきちんと合致する文献か、ピンポイントで天皇陵を示している古絵図。考古資料では墓誌です。100%確実な資料が現れた段階で検討します」

『墓誌・・・被葬者の名前が記されたもの』が出れば、指定を見直す検討を始めるということです。日本の古墳から墓誌が出る例は極めて少ないです。鳥谷口古墳からも墓誌は出ていません。宮内庁が鳥谷口古墳を大津皇子の墓と認める可能性はないということです。そもそも現在宮内庁の指定している陵墓から墓誌が出ているのでしょうか?とツッコミを入れたくなります。


質問―宮内庁には「もし指定が誤っていても、祭祀を執り行っているところに御霊が移ってくる」との考え方があると聞く。本当か。 調査官の返答「そんな考え方はしていません。研究者が著した本にそう書いてあるため調べたことがありますが、本当にそんな発言があったのか、確認できませんでした」

つまり「供養するために設けた場所」とは考えず、あくまで墓である、と。

天皇陵について述べたものですが、皇族の墓についても適用されています。幕末から明治にかけて指定した段階から1mmも動いていません。真実から目を背け、学問の進歩とは無縁の硬直した姿勢が問われています。これが被葬者に対する御魂を鎮めることになっているのでしょうか。
鳥谷口古墳の現地に建つ説明板です。20211224a1
近くにある宮内庁の二上山墓に遠慮してか、「大津皇子のお墓との説もある」という控えめな説明さえもありません。「特異な石槨構造」と記して、わかる人にはわかってほしい。といったところでしょうか。
長くなってしまったので、大津皇子のお墓のことは、ここで終えたいと思います。「大津皇子の墓」としてカテゴリーを設けてありますのですべての記事の参照にお使い下さい。

宮内庁の指定の二上山墓と、鳥谷口古墳(真の大津皇子の墓)の両方にぜひ行って欲しいです。おのずと答えが出ると思います。

日経記事の全文はこちら(2010年11月27日付け) 宮内庁調査官が明かす「896の聖域」 天皇陵の真実|NIKKEI STYLE

 

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