カテゴリー「歴史・史蹟」の289件の記事

鳥羽伏見

先月の京都旅行では、鳥羽伏見に1日を割きました。

今日は、1日『鳥羽伏見の戦い』野口武彦著を一気に読みました。2度目の読み直しです。今回は、戦いの舞台となった地理が頭にインップットされています。理解が格段に違います。

鳥羽は平安時代から鎌倉時代にかけての“院政”の舞台でもあります。
近衛天皇陵

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白河天皇陵

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鳥羽離宮の遺構から出土した庭石

170916b2「院政」に関する本も読みましたし、院政にたいしていままでぼんやりしていたものがイメージとしてつかめるようになってきました。

時代は下って幕末の鳥羽伏見の戦いの勃発地

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官軍の陣営となった城南宮にある案内板

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京都市考古資料館で買い求めた冊子

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鳥羽伏見の戦いに関しても触れています。鳥羽に行ってからこの冊子を手に入れたので、もう一度鳥羽には行きたいと思っています。

鳥羽は武士の世の中が始まる院政の時代と、武士の世の中が終わる幕末の戦争の舞台です。歴史の因果を感じます。

このまま、伏見まで歩いてゆきました。伏見は2度目でした。
新政府軍の本営となった御香宮

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バスガイドさんの研修が行われていました
伏見は関ヶ原の前哨戦の舞台であり、幕末の戦いの舞台でした。いわば江戸時代の始まりと終わりの舞台です。

まだまだ見所が残っています。また行きたいと思っています。

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大石内蔵助 山科閑居

歌舞伎の“仮名手本忠臣蔵”で私が一番面白いと感じる場面は、大石内蔵助の山科閑居の場です。御存知、討ち入りの計画を練る場面です。

山科の閑居を訪れた(8月29日)のですが、その前日に山科とは山一つ隔てた、泉涌寺の近くの来迎院訪れました。

最初は、大石内蔵助にかこつけて売り出したのかと思ったのですが、この寺が『寺請証文』(今でいうところの住民票)を出しているというので、これほど確かなことはありません。
内蔵助が建てた茶室があります。(かなり整備されている感じです)

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遺品もあるそうですが、見れませんでした。

翌日に山科の居宅址を尋ねました。

先ず、大石神社 ここは昭和になってから建てられました。遺品を展示した小さな資料室(無料)がありますが、「どこまで信用して良いものやら?」と言った気持ちで見ました。

すぐ近くに内蔵助が隠棲した場所に立つ岩屋寺があります。

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大石神社と違って、寺の歴史は古いです。内蔵助の遺品、四十七士の像や位牌があります。大きくはないのですが丁寧に解説してもらいました。しかし、この寺も江戸時代荒廃して、討ち入りから150年近くたって再興されています。遺品は親類縁者によって保管されていたそうですが、どのように受け止めればよいのか?
パンフレットを350円で買いました。

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遺髪塚

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天明七年の名所図会にのっており「近年碑を建てた」との記述があるそうです。どうやら確かな記録で遡れるのは討ち入り後80年ほどしてからのようです。そして伝えでは寺坂吉衛門がこの地に持ってきたそうです。吉衛門は、吉良邸で一行と別れていますので、その時点で「遺髪」を渡されたというのもどうなんでしょう?

居宅址は草が生い茂っていました

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確かなことは、このあたりが内蔵助の隠棲地ということのようです。

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山科の史跡巡り

今日も暑い中、山科の史跡巡りでした。
坂上田村麻呂の墓からスタート


ところがその前に寄った区役所で、もらった資料


「西野山古墓」が田村麻呂の墓として有力だそうです。

続いて大石内蔵助に関わる史跡(岩屋寺、大石神社)を訪ねました。
遺品等もみましたが、

確かなことは、この近辺に内蔵助が居を構えていたということのみでしょうか⁉︎
午後は勧修寺と醍醐寺をまわりました。



醍醐寺では時間切れで上醍醐を見ることが出来ませんでした。またの機会を作らねば

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京都旅行 2日目です

今日は、ホテルから泉涌寺まであるいてゆきました。
塔頭の戒光寺に寄って、泉涌寺の入り口で、「9時までお待ちください。」と言われました。開門を待つことなど初めてです。
しばらくは、境内には私ひとりでした。
宝物館がおやすみで、かわりに後座所が無料でした。
月輪陵



仏殿・舎利殿

楊貴妃観音(御朱印)

次に来迎寺の大石内蔵助の立てた茶室

次に今熊野観音
慈円のお墓があるというのに境内図に載っていなくて探し回りました。「立入禁止宮内庁」の看板で断念しました。
悲田院に寄って京都駅徒歩。さすがに疲れて、予定変更で「鉄道博物館」で今日は終了です。






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皇居(江戸城)平川門と不浄門の新資料

 江戸東京博物館で開かれている企画展『徳川将軍家へようこそ』で、びっくりする資料に遭遇しました。“江戸城秘図”です。「平川門」の部分に目が釘付けになりました。

この地図にふれる前にこのブログで取り上げてきたことをまとめてみます。

城内に向かって平川門(渡櫓)の右隣にもう一つ門(帯曲輪門)があります。このような形態の門は、江戸城では、ここをおいて他にありません。この門は、死体や糞尿、罪人を城外にだした不浄門と言われています。舟で運び出されたとされています。

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ところが、ここからは(通路のようになっている)帯曲輪を通って竹橋門に出ます。不浄門から舟で運び出すことは不可能です。

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江戸時代は260年以上続きましたので、江戸城も改変が行われています。

享栄年間の江戸城図には船着き場のような記載があります

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詳細はわかりませんが、不浄門の機能を果たす有力な資料です。

初期にはそもそも帯曲輪はありませんでした。
(江戸城始図)

170823a11_2(寛永江戸図)

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ところがびっくり、
企画展『徳川将軍家へようこそ』で展示された“江戸城秘図”では、帯曲輪は竹橋門までつながっていません。

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不浄門として合理的な構造になっています。実に明確な図です。今まで目にしたことがない図ですし、出所も徳川記念財団ですから確かです。私が驚いた理由です。

ただ、この展示では、図を19世紀としてますし、更なる情報が欲しいところではあります。

現状の平川門、不浄門からみて、不浄門について疑問を持ったことがありましたが、帯曲輪門を不浄門とすることは合理的と思います。

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福井の旅 2017年7月 (3)

3日目(7月8日)
一乗谷→千古の家(四百年前の古民家)

織田信長に攻め滅ばされた朝倉氏の城下です。(模型)

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この谷に1万人以上がいました。

5代続いた朝倉氏の最後・義景の館跡

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アプリで写真を撮るとキャラクターが画像の中に入ってきます

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厳しい暑さでした

現在も発掘が続いています

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古墳群の案内看板に足を止めました。
しかし、古墳公園の計画があるにはあるものの長期間ほとんど進んでいなくて、エクスキューズとして?古墳をかたどったモニュメントがあるのみでした。

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千古の家

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今回の旅行まで、この家の存在を知りませんでした。
中世末期に建てられた家です

午後はゆっくりとKさんの自宅でくつろぎました。城下の武家町にある風情のあるお家です。この後、小松空港から帰京しましたが、この日の朝、一乗谷に行く前に福井駅まえの恐竜のモニュメントに寄りました。

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一人旅でもなく、ツアーでもなく、仲間との久しぶりの旅行でした。そして思い出をたどる旅でもありました。リタイアして少し気持ちの余裕もできてきたように感じられる旅でした。これからも機会を見つけて行きたいと思っています。

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福井の旅 2017年7月 (2)

2日目(7月7日)
吉崎御坊址→県立図書館(白川静資料室)→恐竜博物館→平泉寺→橋本左内墓→足羽山→橋本左内生誕地→柴田神社(北の庄城址)

吉崎御坊址
浄土真宗の蓮如上人が北陸の拠点としたところです

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しっかり、東と西の本願寺がここにもあります。写真は東です。鐘楼のように見えるのは、鼓楼です。毎年蓮如上人の像を京都から人力で運んできて、到着した時に知らせるのだそうです。

県立図書館(白川静資料室)

170707a3「漢字」で遊べる仕掛けが揃っていて楽しいです

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恐竜博物館

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館内で、どこからともなく声が聞こえてきていました。卵形の形状で、特定の場所で声・音を出すと反響するようになっています。

平泉寺
庭園跡

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ここでハプニング 
巨大な陶器製の照明?が遠路(愛知ナンバーの車)運ばれてきたのですがおろす人手が足りません。集められた人が「本当に人出でおろすの?」
ここでMさんが加勢して、無事おろせました。 その後、どうなったか興味あります。

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橋本左内の墓

幕末の英傑、江戸・伝馬町で斬首・・・・

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足羽山
頂上は古墳です。ただ、原形をとどめてはいません。

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そしてその上に継体天皇の像 個性あふれた像です
足羽山から白山が見えました。

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幾重の山並みの奥に現した姿は、信仰の対象となった所以がわかるような気がします。

Y子さんと合流して夕食もちろんお酒も入ってその後、

橋本左内生誕地

170707a94産湯の井戸です

北の庄城址(柴田神社)

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織田信長の妹お市の方と3姉妹の像です。北の庄城は秀吉に攻められて柴田勝家がお市の方と自刃した城です。その本丸跡らしいのですが、徳川の時代になって家康の次男が越前に入府して新たな城(福井城)を北の庄城を含んで作りましたので、詳しくはわかっていません。

福井市内にある西光寺にある柴田勝家のお墓にも寄っていますが、いつごろ建てられた墓なのか?わかりません。

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鎌倉・永福寺復元終了

鎌倉の永福寺址の復元(建造物は復元されていません)が終了したとのニュースをテレビで知りました。

私が初めて永福寺跡を訪れたのは、およそ45年ほど前になるでしょうか。学生時代でした。畑に顔を出した礎石が数個。池の汀の石が田んぼの中に少しばかり列をなし、民家の庭先に畠山重忠は立てた庭石がある。という光景は衝撃でした、学園祭で簡単な復元模型を作った事を今でも覚えています。ちゃちな模型でしたが、おそらくは復元模型としては初めてはなかったかと密かに思っています。

10年前の復元整備が始まったころの写真です

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復元工事が終わって、在りし日を偲びやすくなった半面、時間を超えた寂寥感を失ったことが残念にも感じます。

鎌倉の世界遺産登録運動が端緒となった復元事業ですが、世界遺産登録は困難な道となっているようです。

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埼玉県立「歴史と民俗の博物館」と氷川神社(さいたま市)

さいたま市の「歴史と民俗の博物館」を訪れました。

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大型銅鐸が埼玉県で出土したというのは聞いたことがないので見入ったら、三重県からの借り物のようです。

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庭には、芝・増上寺にあった徳川9代将軍・家重の石燈籠がありました。

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増上寺にしろ寛永寺にしろ、将軍ゆかりの石灯籠が散らばっていることは知っていますので「ここにもあったか」程度の感想ではありました。

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特別展が「縄文」なので『外した』と正直思いました。『縄文』の展示は「退屈」というのが私の先入観念です。
ところが、「盛土遺構」という展示がありました。住居などが何代にもわたって使われてその度に盛り土をして使ってきたという遺構です。
今まで、さして気にしていなかったのですが、隣接の氷川神社がそうであると知って気になりました。

氷川神社 延喜式内社で、氷川神社の基の神社です。

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縄文遺跡の上に立っています。本殿左手奥に「神池」があります。

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この湧水を守る神として、『2000年以上の歴史を持つ』というのもあながち否定できないと思われます。

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奈良新聞WEB

私が、ほぼ毎日チェックしているサイトに「奈良新聞WEB」があります。
他の地方新聞も良くチェックするのですが、「奈良新聞」は『考古学』の欄が特別にあります。

今回、高取町で「横口式石槨の古墳が発掘され、『渡来系氏族・東漢(やまとのあや)氏の首長か、首長に次ぐクラスの墓と考えられるという。』すでに埋め戻され現地説明会はない。」という記事が載っていました。
http://www.nara-np.co.jp/20170414085847.html

東漢氏と言えば、崇峻天皇暗殺事件を思い起こさせます。この古墳は7世紀中頃と見られていますので、この事件以後もそれなりの力を持っていたという事なのでしょう。

記事の写真を見ると、古墳は結構破壊されているようです。そのあたりについては触れられていません。
ともあれ、こうした記事を見ると、埋戻し後であろうと実際に見たくなります。

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