カテゴリー「歴史・史蹟」の450件の記事

橿原考古学研究所友の会 会報

橿考研究の会報が送られてきました
併せて遺跡地図も送られてきました
No49と50です。
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今は、古墳が一番メインになっていますが
どの時代にも関心を持っています
この遺跡地図は、時代に縛られることなく遺跡を紹介しています
詳細な地図・・・・現在は住宅が建っている所なども示してくれます
クオリティーが高いです
(研究機関の発行ですから当然といえば当然)
遺跡巡り、史跡めぐりは「想像力」が大きな力となります
そのための詳しい情報が「想像力」を左右します

私にとって一番欲しかった地図です

ですが、今回の配布が最終回のようです
友の会に加入する前の地図もぜひ欲しいです

ぜひ書籍にしていただきたい!
機会を見つけて要望しようと思います。

 

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法隆寺夢殿

斑鳩の地名の発祥地の碑
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夏期大学の講習会場の敷地にありました
せっかくの石碑ですが、普通に法隆寺を訪れた参拝者は見ることはできません

同じく講習会場から望み見た夢殿
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中央が夢殿です、この景色も一般の参拝者には見ることができません
石碑といい、ちょっと残念です

中宮寺から見た夢殿
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絵殿から見た夢殿
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写真を撮ろうとしたら、係の方が声をかけてきました
遮って「ここは普段は公開されていないので、ここからの写真を撮りたいのです」
係の方が納得していました
夢殿は、南西角からとるのが美しいといわれています

ここ数年、正倉院展と合わせて夢殿の救世観音を参拝しています
夏期大学初日の特別公開で拝観をしていましたので
お厨子はどんなだたのかと思い厨子を確認しました
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やっぱり、仏様は拝顔してこそありがたみがあります。

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額安寺と聖徳太子創建の寺 

聖徳太子が造った熊凝精舎(くまごりしょうじゃ) を起源とする
額安寺(かくあんじ)を7月30日に訪れました
(行政区分としては大和郡山市です)
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太子創建伝承を持つ寺の一つですが、
古刹にはかわりありませんが、額田部氏の氏寺として創建された
とみるのが妥当なようです

私が訪れた月曜日(7月30日)は、お休みでした
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額田部郷の場所を確認出来ただけで目的は達成です

聖徳太子創建の7ヶ寺は
法隆寺、広隆寺、法起寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、葛木寺です
法隆寺、四天王寺は、まさしく太子創建です
他の寺院は創建とは言い切れませんが
聖徳太子と深い関りがあることにはかわりません

太子建立の48ヶ寺という括りもあります
天台宗の最澄は聖徳太子の玄孫であるという伝承があります
(ご自身が言ったことではないでしょうが)
親鸞も聖徳太子を尊敬していました
こうした宗派を中心として、太子創建の寺という伝承が造られたのでしょう
法隆寺の寺領(荘園)のある地でも「太子創建の寺」の伝承が造られたのでしょう

結果、太子創建の寺の伝承を持つ寺院は全国に300ほどにもなりました。



 

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聖徳太子の孫の墓(古墳)Ⅰ

聖徳太子の子が山背大兄王(やましろおおえのおう)です
その山背大兄王は、643年に斑鳩宮で
蘇我入鹿に襲撃されます。
いったん逃れますが、再び斑鳩宮に戻って
一族もろともに自害し、聖徳太子の王家はここに滅亡します

山背大兄王の子供=聖徳太子の孫の墓(古墳)が
橿原考古学研究所付属博物館にあります

『竜田御坊山古墳』です 3基が見つかっています
3号墳の棺です
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陶製です。黒漆が塗られています、(珍しい)色からすると須恵質と判断されます
陶棺の中の副葬品です
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左下は隋か初塔の硯などです
右は、琥珀製の枕(わが国初) 上が復元品です。

この陶棺を納めた石槨(石室が古墳時代終末期になるとこの形態になってきます)
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入り口側に漆喰が残っています
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陶棺を納めた後、蓋石をします
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設備、副葬品とも超々高級品です

棺の中には人骨があり、年齢は14から15歳と推定され、
身長は150cmほどです
ところが棺の内寸が146cmしかなく、この被葬者様に用意された棺ではありません
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1号墳では
3人分人骨が発見されていて、異常な状態になっていました
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慌てて埋葬されたことがわかります

Ⅱ続きます

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太子道

聖徳太子が飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)=推古天皇の宮殿と
ご自身の斑鳩宮とを行き来するために作った道を「太子道」と言います
(中世以降は法隆寺街道とも呼ばれました)
当時の道は、基本的に南北、東西でしたが
両所を結ぶため斜めに通されました(それゆえ筋違道とも呼ばれます)
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現在もところどころ残っています
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聖徳太子以降に藤原京が造られたので
飛鳥に近いところでは痕跡がなくなっています

法隆寺夏期大学の最終日(7月29日)に、その一部を自転車で走りました

川西町の観光パンフレット
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マップです
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赤矢印の場所の写真です(行政区分では河合町になります)
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太子道の幅がどのくらいかは私の宿題となっています

こちらは安堵町に残る太子道です
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太子道の説明板があります
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道の近くに伝承を持つ史跡が多くあります
その一つの油掛地蔵の説明板
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「聖徳太子の通学路として知られています」
通学していたの?と突っ込みたくなりました

太子道を歩く推奨コースがあります
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以前から、ゆっくり歩きたいと思っていましたが
今回は、ほんの一部を自転車で走りました
(酷暑では歩くのは無理です)

いつか、ゆっくり太子道を歩きたいと思っています。


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法隆寺 若草伽藍 塔心礎

創建時の法隆寺(斑鳩寺)跡の若草伽藍の巨大な塔心礎
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実は塔の中心にはありません
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なぜこうなっているのか?
塔心礎が明治中期にお金持ちの収集の対象になり、
大阪に運ばれて、庭石として使われていました
(この頃、他寺院の礎石も多く運びだされました)
法隆寺の再建非再建の論争が高まった時に返還されました
その時に位置がずれて置かれたためです

礎石の形が、あまり例のない形です(真上からの写真)
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江戸時代の記録と一致していますので、
庭石として使われた時に改変されたわけではありません

昨年から行われていた発掘調査の結果も夏期大学で報告がありました
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(去年の11月に発掘現場を通他時の写真です)

29日に訪れました
草ぼうぼうで、この後建物が建つのでしょうか
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発掘地は、図で示すと伽藍の南側(緑の楕円部分)です
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場所としては、中門や南大門が想定されましたが
そうした遺構は発見されませんでした
門はどうなっていたのか、新たな不思議が生まれました。

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法隆寺 若草伽藍

聖徳太子が創建した法隆寺は火災で燃えてしまいました
現在の法隆寺は、太子の死後に再建されたものです

太子創建の旧法隆寺(斑鳩寺)は、若草伽藍として地中に眠っています
その若草伽藍の塔心礎が見たいがために、4日間の夏期大学に申し込みました
そして念願の若草伽藍塔心礎とのご対面です

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「やってきましたよ」と、手で触れました
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仏舎利を入れる孔はあいておりませんので
仏舎利は塔の上部に据えられたんでしょう
(現在の塔では仏舎利は塔の根元にあります)
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普段は見れません、塀の外から拝めるよう
位置を確認しました
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外からは、電信柱が目安にしていましたが、もう少し西であることがわかりました

私と同じく、この塔心礎を見たい人が多くいて
去りがたくしていました

ようやく、人が入らない 塔心礎単独のアングルで撮ることができました
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建立の際の式に聖徳太子が列席してこの塔心礎を見ていたのだと想像すると
去りがたかったです。



 

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法隆寺の礼拝石

法隆寺の金堂の前に「礼拝石」があります
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五重塔の前にもあります
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礼拝石の存在そのものは知っていましたが
以前は気にしてなかったのですが、
金堂の内部から礼拝石を見て気になり聞きました

「以前は、仏像を直接拝むことができなく、あの石から拝んでいました」
との説明でした
以前とはいつの時代のこと?とか、真偽ははどうなのか?疑問がわいてきました

南大門の前にもあります
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思い出したのは、明日香の山田寺(跡)です 礼拝石がありました
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山田寺の礼拝石が創建時の物であれば、確認できる最古の礼拝石です
(発掘調査報告書を読んで確認する必要があります)

「礼拝石」について、もっと知りたいと思いました。

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法隆寺 護摩堂

護摩堂は、密教の仏堂です
密教は最澄・空海が平安時代に日本に紹介した教えです
法隆寺に護摩堂があることは、知りませんでした

南大門から中心伽藍に向かう右側にあります
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奥に五重塔堂が見えます
法隆寺を訪れる人が必ず通る参道です
普段は閉じられていることがほとんどでしょうから
通りすぎることがほとんどだと思います


法隆寺とは宗派が違うでしょう。と思うのは私のような一般人であって
寺院側では、宗派を超えて仏教としての協力の形なのでしょう
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西大寺に行って勉強してくるそうです

お坊さんの右にある石碑には「天満宮」とありました
天神さんを勧請した時期があったそうです
聖徳太子のイメージでいっぱいですし、それは誤りではないですが
創建から千数百年、その後の長いの歴史が垣間見えます

夏期大学参加者(希望者)堂内に入らさせていただきました
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私も護摩木を焚いてもらいました
(’24/7/28 夏期大学) 

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奈良から帰宅

今日は、天理へ移動しました

天理駅前のレンタサイクル屋さん
料金は500円、午後7時までOKとのこと
きょう東京へ帰るので、残念ですが、そこまで借りてはいられません

まず向かったのは、奈良歴史芸術文化村 4度目です
目的は、杣之内古墳群の冊子をいただくこと
でしたが、残部無し、教育委員会にあるかもしれませんとのこと
前回来た時と同じパターンでした
続いて、天理参考館 布留遺跡の企画展を見学して
岡田為恭の墓、西山古墳経由で
前回来た時に時間切れで断念した 塚穴山古墳

そして教育委員へ、
冊子の在庫はなくなっていました
残念!

天理図書館でクールダウンするなどしながら
無事に奈良の旅の全日程を終えました。

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