カテゴリー「歴史・史蹟」の311件の記事

武蔵国府(国司館)跡

マンホールカードをもらうちょうどよい機会に府中市の史跡を訪ねました。武蔵国衙(役所)跡は、ほぼ現大國魂神社の境内になります。そして今回ほんのちょっぴり足を延ばして国司(長官)館を訪ねました。201217b1
場所は府中本町駅前です。建物跡が柱で示されています。201217b5 現地の管理事務所でタブレットを借りてVRで当時の様子を知ることができます。201217b4 復元模型も展示されています。201217b3
奈良時代の遺構ですが、高台の突端に位置し富士山も見渡せる好立地です。
時代がずーっと下って徳川家康が武蔵に国替えになった際、武蔵の長になるのでここに来たそうです。さらに死後遺体が久能山から日光に移される際にここに棺が置かれたそうです。それは遺跡の一角の井戸(奈良時代)201217b6_20201219230701 の中から三つ葉葵があらわされた瓦が出土したことから証明されたました。ただ、その時代の遺構は発掘調査では出てこなかったようです。

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宇喜多秀家を板橋に結び付けたもの 八丈島旅行番外編

宇喜多秀家の供養塔を板橋に見に行って、歴史のパズルが解けるような楽しい気持ちになりました。
最初「板橋」と聞いて『なぜ?』となりました。「加賀百万石の前田家の屋敷がある」から。と聞いて納得しました。
秀家の奥さんの豪姫は、秀吉の養女という形ですが、前田家始祖の利家の娘です。八丈島の宇喜多一族を江戸時代通じて援助の手を差し伸べたのは秀家の子孫は利家の血筋を引いているからです。
前田家の(下)屋敷がなぜ板橋にあるかと言えば、前田家の参勤交代の街道が中山道で、その第一の宿場が板橋だからです。
下屋敷は22万坪近くありました。201207b4 ここを管理していたのは50家ほどだそうです。
加賀公園に屋敷跡の碑が建っています。201207b5 201207b6
この公園は、屋敷図に描かれている「高山」になるようです。201207b1 町名に『加賀』をとどめています。
屋敷内にあった社と(赤)門が近くのお寺に移築されています。201207b3
201207b2 下屋敷の面影を伝える数少ない遺構です。最後の会津藩主松平容保も下屋敷を訪れて感嘆しているそうです。板橋に移住した宇喜多秀家の末裔のうち数家は板橋に落ち着かず八丈島に帰りました。秀家自身は板橋とは勿論何の関係もありませんが、歴史の流れから見ると秀家の供養塔が板橋に建てられたのは何の不思議もありません。歴史の大きなうねりと、人それぞれの人生を改めて考えさせられました。

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板橋の宇喜多秀家の墓(供養塔) 八丈島旅行番外編

八丈島へ行く前に、宇喜多秀家の供養塔が板橋お寺にあることを知りました。明治維新後に末裔一族が移住し供養塔を立てたのです。
「なぜ板橋に?」は、ひとまず置いて、板橋に7日に行ってきました。
立派な供養塔です。201207a1 八丈島の歴史民俗資料館で「板橋の供養塔に遺髪が移されたようですね?」と、質問したら「遺骨を移したようです。」との回答でした。ということになれば、こちらが「お墓」と言っても良いのかもしれません。
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『秀家卿』と刻まれた文字に無念をいささかなりとも果たした感じが伝わってきます。
歩いて10分とかからないところに新選組の近藤勇の供養塔、墓があります。201207a6 時代背景の対照というのでしょうか。明治維新で転げ落ちた近藤勇と、逆に復権した宇喜多秀家です。近藤の首は処刑後京都で晒されたあと、処刑地近くのこの地に埋葬されたとのことです。立派な供養碑の傍らに元々のお墓があります。201207a5
名前を刻むことを許されなかった自然石です。秀家の元々の墓石にも名前は刻まれませんでした。

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流人と情念 八丈島旅行

流人の中には、当然政治犯など粗暴犯とは違う人がいます。江戸時代を通して島抜けを図ったのが15件で成功は1件のみです。
流人はそれぞれ自活生活を求められました。
監視する島役所跡は草地となっていました201129a2
無実を訴え続けて流罪から7年後に断食死した慈運法印の碑201129a1
情念を感じます。しかし近くのガソリンスタンドで聞いてもわからず、
観光案内書でも首を傾げられて、ようやくたどり着けました。
島酒の碑
201129a3 八丈島で焼酎を作るようになったのは薩摩出身の流罪人(密貿易)が伝えたことに始まります。江戸時代末期碑そのものは昭和になってつくられました。この碑がある神社は小高い丘で噴火口跡です。
このパンフは便利です。観光案内書で質問した時にもらいました。
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宇喜多秀家と豪姫(前田利家の娘)夫婦の像 201129c1 岡山築城400年を記念して平成9年に建てられました。豪姫は流されてきていませんが、2人を逢わせましょう。とのことです。

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宇喜多秀家屋敷跡 八丈島旅行

屋敷跡の情報があまりなかったので、お墓に先に行ったのですが、
屋敷跡は駐車場(私有地)もあり、お墓の近く(徒歩1~2分)ですのでこちらに先に行くことをお勧めします。
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『宇喜多秀家住所跡』『御菩提の 多子や植介ん 此寺に みのり乃秋曽 久しかる遍き』の秀家の和歌が刻まれています。
ここにも供養の岡山城の礎石が飾ってあります。
201128a2 後ろの蘇鉄は秀家お手植えだそうですが、大きさから推察すると何代目かなのでしょう。
屋敷跡の後背地に比べると敷地は3メートルほど高いので、悪い立地ではありません。
201128a3 敷地から見える八丈富士が少しは慰めになったのか?しかし50年の流罪生活はあまりにも長すぎます。
村田家住居跡
201128a5 秀家に随行してきた医師の村田道珍斎の住居跡ですが、掲示板はありません。
秀家一行が上陸した地点にも向かいましたが、港湾工事のため近くまで行ってあきらめました。
終焉の地は、2説あるそうです。一ヶ所はお墓の道路を挟んだ向かい側です。

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宇喜多秀家のお墓 八丈島旅行

八丈島への旅行の最大目的は、宇喜多秀家の足跡をたどることでした。
関ヶ原合戦で西軍の主力として戦い、関ヶ原の武将で最も長生きをし、徳川家光よりも長生きをしました。
岡山57万石の大名から、敗軍の将そして流人として生涯を終える。誠実な生きざまと不撓不屈の信念に惹かれます。
墓所は秀家の墓を中心に家族と子孫のお墓が囲んでいます。201127a1_20201204000701
子孫がおられますので花が供えられています。中央の五輪塔の墓は天保12年にたてられたものです。その左にある塔婆型のお墓が元来のお墓です。
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『南無阿弥陀仏』と刻んであるそうですが、読み取れません。201127a3_20201204000701
この時点では戒名が許されなかったのかもしれません。
供養のためでしょう!近年、岡山城の礎石が備えられています。
201127a-2 「浮田」姓のお墓があります。『中納言秀家』をしのぶ墓碑銘が建てられていました。201127a5_20201204000701 無念さが伝わってきます。
宇喜多ではなく、浮田と名のったのは徳川幕府のに遠慮したからという話も聞きますが、これはちょっと事実とは違うと思います。命日になると岡山からお墓参りの人々がやってくるそうです。

 

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掛川城

掛川の史跡を巡りました

大手門番所

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江戸城でも残っていますが。地方大名で残っているのは珍しいでしょう

大猷院霊屋

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家光の霊廟がなぜ掛川にあるのか?

不思議でしたが、時の藩主に嗣子がなく、この建物を建ててお家断絶を防ごうとした、

いわば「よいしょ」したようです。ただ、その努力も報われずお家断絶となりました。

その後に掛川に入った城主は、物が物だけに潰すなどと大それたことはできなかった。

この地は山内家が現在の場所に城を建てる前の今川時代の旧城址です。空堀が名残をとどめています。

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城御殿

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現存する数少ない遺構です。

身分が厳格な江戸時代の雰囲気をよく伝えたいます

天守閣

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全て木造で再建されました。

 

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吉田松陰終焉の地

伝馬町の牢跡に行ってきました。
私としては、久しぶりで孫にとっては当然初めてです。
「吉田松陰終焉の地」の碑は、辞世の碑などとともに跡地の角に立っています。
この角の場所こそ、まさしく打ち首になったその場所です。
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江戸時代とか牢屋とか、孫には説明しましたが、どこまで理解できたのか?
いずれわかる時が来るでしょう。
孫には合掌するよう促しました。

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江戸城石垣の採石場(熱海市下多賀)

江戸城の石垣は伊豆半島から運ばれました。その採石場の一つ熱海市下多賀を訪れました。(5月30日)
ここは、いわば江戸城の故郷になります。
数百メートル車で登って行きました。

今、目の前にある岩は、江戸城に運ばれることのなかった「残念石」になります。


『羽柴右近』(森忠政=森蘭丸の弟)の銘があります。



ノミで表面加工した「すだれ仕上げ」
今までお城へ運んで積み上げる前に工事現場での作業と思っていました。採石場での作業と知ったのは収穫です。


この石は、ここで欠けてしまったので、お江戸に行くことはなかったのでしょう。

有馬家の採石場であることを示す岩

「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年七月廿一日」と刻まれています。

「慶長十九年」の刻印石 徒歩でかなり上がって行ったところにあります。

(写真)青字で補った左側に刻まれています。
刻印石がゴロゴロしています。

江戸までは船で運ばれました。

嵐で一度に200艘が沈んだ記録があるそうです。落胆ぶりがわかります。

ここへ来て、江戸城の石垣の石を切り出し、運ぶことが危険で過酷な労働である事を強く感じました。

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石垣山一夜城(小田原)

秀吉が天下統一の仕上げとなった小田原攻めで築いた石垣山一夜城を訪れました。
名前は「一夜城」と伝えられますが、4万人をついやして築いた城です。




井戸曲輪です。淀殿が化粧で使った井戸との伝承ですが、千利休が点てた茶の水もこの井戸でしょう。



今も水が湧いています。

家康が関東に国替えを命じられ、伊達政宗が死装束で参陣したのもこの地です。


秀吉にとって眼下に北条方の小田原城を見、海上を含めて包囲した。

まさに高みの見物を決め込んだ得意の顔が想像されます。かたや「小田原評定」でした。
写真の星印が小田原城天守閣です。

小田原城の向こう側は『北米プレート』家康などが陣を張りました。
ここの城は『フィリピンプレート』・・・・地球規模です。

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