カテゴリー「書籍・雑誌」の35件の記事

「女帝・皇后と平城京の時代」読了

書名に平城京とついていますが、平城京の記述は1/4です。飛鳥の宮から藤原京への移り変わりの政治的背景が詳しく解説されています。
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飛鳥から藤原京への変遷とその影響が及んだ平城京とを比較すると各寺院の所在地などがクリアに見えてきます。そして藤原氏の影響が条坊制に反映されていることがよく理解できます。
また、藤原京が地理的条件(宮が低い地区にある)によって廃都されたことを否定し「遷都は政治的意図でなされる」との主張は、目からうろこが落ちた思いです。

この時代に興味をお持ちの方には、ぜひお薦めしたい本です。

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「古代氏族の系図を読み解く」読了

11月17日の講演会会場で
歴史書籍が2割引きで販売されていました
良い機会だと5冊購入しました
その中の1冊を読了しました
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古代氏族の系図を一本の筋で見て
どこが本当か、どこが作りごとか?
なんとなく漠然と見ていたのですが

氏族間の力関係と
(本家・分家・そのまた分家間の勢力伸長)
中央政権との時代背景で作られたかによって
系図は作られ、系図は時代とともに変化した

・・・・「系図は常に変化してきた」

この本には取り上げられていませんが
蘇我氏が入鹿の殺害で消滅したのが本宗家であって
蘇我石川麻呂の系統は続きました
そうした知識が下敷きとなっていましたので
この本の記述には驚きましたが
違和感はありませんでした

また一つ理解が深まりました。


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『神武天皇の歴史学』読了

外池昇氏の著作です
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伝説上の人物の神武天皇の墓がなぜあるのか?
それは、幕末に孝明天皇が伝承地3ヶ所から選んで決めたからです。

そこは知っていたのですが、なにをもとに孝明天皇が決めたのかがわかりませんでした
本書はその経緯、歴史的背景について詳しく書かれています
幕末に作られた神武天皇陵に関する決定版といってよいと思います


天皇や皇族がお参りする墓が「さしたる根拠もない墓である」こと
伝説上の人物の墓を作るというのは、そういうことなのですが
大方の人は、そうしたことは知りません

この本は、幕末に作られた神武天皇陵について述べていますが
藤原京を作った時にも作られています

神武陵については、あらためて記事にしたいと思います。





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「奈良朝の政変と道鏡」読了

昨年11月の奈良旅行の前後から奈良時代の本をかなりのペースで継続的に読んでいます。
そして、今年の1月の大阪への旅行でも道鏡の関連史蹟を巡りました。

宇佐八幡宮から、始まって下野薬師寺、弓削寺跡など、弓削道鏡の史跡を巡ってきました。
「藤原仲麻呂と道鏡」「天皇側近たちの奈良時代」「藤原仲麻呂」「聖武天皇と仏都平城京」など、
関連の本を読み進めてきました。
そして、弓削道鏡について、おそらくもっとも紙幅を割いている瀧浪貞子著「奈良朝の政変と道鏡」を読み終えました。
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11年前に出版されましたが、道鏡に関する研究をリードしている本です。
「道鏡を天皇に就けよ」とした、いわゆる宇佐八幡宮神託事件について
宇佐八幡宮の中の派閥争いの中から八幡宮側からの発端となったとして
道鏡が天皇の位を狙ったというのは、後世の平安貴族のレッテル貼りだとしています
精緻な論考で説得力があります。一押しです。

読みながら、続日本紀の原文と現代文訳に当たりました。
楽しかったです。

この著作について、一点だけ異を唱えたいところがあります
下野市にある道鏡の墓を写真付きで紹介しています
しかしこの墓(古墳)は時代が違っていて道鏡の墓ではありません
道鏡の死の報告を受けたとき、朝廷は庶民としての扱いで葬るようにと指示しています。
当時の庶民の墓が、わからないのと同様道鏡の墓もどこかわかりません
近くに称徳天皇の塚があることも紹介しています
筆者は、どちらも根拠がないことを知っています
道鏡は言われるような『怪僧ではない』とすることからくる
贔屓の引き倒しの側面を感じました。

ですが、本書の学術的な価値を損なうものではないことは強調しておきたいです。

いくつかの道鏡関連史蹟めぐりがまだ残っています。

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『天皇陵の解明』今井尭著

天皇陵古墳の宮内庁による治定(指定)がいい加減であることは、多くの本で知っていました。また、崇峻天皇陵などを実際に見て「でっち上げの御陵」であることを実見しました。他の例でも実感しています。

今日、『天皇陵の解明』を読了しました。20220202a21
「宮内庁との公開への交渉」「法律面での問題点」「学問上の問題点」「個別例での問題点の指摘」等、天皇陵古墳に関して、基本資料ともなるべき労作であることを実感しました。
2009年10月の刊行ですが、内容は古さを感じさせません。巻末に至って、著者はこの年の4月に亡くなっており、亡くなられてからの発刊であることを知りました。著者の真摯な姿勢が伝わってきました。今更ながらですが、ご冥福をお祈りします。

本書からたくさんの「なるほど」をもらいました。刊行後13年経ていますので、入手が少し困難かもしれませんが、古墳、古代史、日本史に関心を持っている方に強くお勧します。
 

 

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「奈良朝の政変と道鏡」読了

読み応えがありました。20220107a1
数年前に大分の宇佐神宮へ行ってから、道鏡に関心が強まりました。世情いうところの『怪僧』『妖僧』とか『女帝をたぶらかした』という先入観は、私にはありませんでした。
本書の述べるところは「道鏡を天皇にするという宇佐八幡宮の託宣は、宇佐八幡宮の派閥争いなどの宇佐八幡宮内部等状況から生まれたもので、道鏡はそれによって、舞い上がった。しかし称徳天皇は情において道鏡に理解を示しても、天皇としては『それはない!』と冷静に受け止めた。」ということになるでしょうか。事実はどうであったか?難しいのでしょうが、本書の主張には説得力があります。筆者の集大成の作であるように受け取りました。

ただ、ひとつ残念な点があります。栃木県にある道鏡の墓とする「道鏡塚」に関する記述です。
『いま、龍興寺(栃木県下野市)境内にある塚が道鏡の墓といわれ、その生涯をひっそりとこんにちに伝えている。』
としていますが、道鏡がどこに葬られたのかは、記録がありません。特別な人としてではなく一般人として葬っているから、墓はわからないのです。ましてこの塚は、時代も合わない古墳です。著者も承知しているはずです。その点はきちっと記述して欲しかった。

称徳天皇の陵もわからなくなっています。(宮内庁の定める陵は、まったく違っています)民家の下になっている可能性すらあります。
奈良時代は、血みどろの政変劇が数多くあった時代です。その痕跡の多くが地下に眠りわからなくなっています。これが歴史だと思っています。

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6泊7日の旅行を終えました

5日に奈良から京都に移動して、夕食後、夜道を六孫王神社に行きました。
6日は、大津に行き、義仲寺→膳所城跡→膳所城資料館→本多神社→今井兼平の墓→弘文天皇陵→大津市歴史博物館→園城寺→大津事件現場跡地
7日は、京都市内です。平安京創生館→豊楽殿跡→朝堂院跡→大極殿跡→清和天皇火葬塚→会津藩士墓地→金戒光明寺→瑞泉寺 と回りました。

たっぷり楽しんできた6泊7日でした。明日以降、ピックアップしながら順次紹介してゆきます。

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『阿修羅像のひみつ』 朝日選書

興福寺の阿修羅像がCTスキャナにかけられて調査されたことは、新聞などで知っていました。その一般向けの「報告書」です。


この調査のポイントとして、第一に健康診断、第二にどのような技術で制作されたのかを知る、第三に制作時の秘密を知る。をあげています。
スキャンから3Dプリンターで複製を制作して検証してます。釘も実際に作って検討しています。「お顔も造仏当時と違っている」となると、早くページを繰りたくなりました。
一番前の腕がきちっと正面に来ていないので、明治期の修理は「下手な修復だった。」と、思っていたのですが、『苦心の結果』であったことを知りました。そして、正面にきていないことから「合掌ではなく、何か物を持っていたのではないか?」との見方もありましたが、『合掌』をしていたことが内部構造から明らかになりました。
科学捜査の推理小説を読むような「謎解きのワクワク感」がありました。
あの『阿修羅展」から8年経っているのですね。その後1回興福寺で阿修羅像にお会いしています。阿修羅像の強い印象は褪せることはありません。



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『武士の日本史』岩波新書

武士に関する通史です。
武士の発生について「武士という芸能人」からの書き出しには「呆気にとられました。」しかし、決して奇をてらったわけではなく、大変勉強になりました。
現代の私たちの「武士像」は、武士が『武を使わなくなり行財政マンとなった江戸時代後半」の武士像が反映されているとし、そうした視点で戦国時代までの武士を見ては理解できないとします。さらに、太平洋戦争における東条英機が作った「捕虜は恥」とした戦陣訓は、本来の武士の教えではない」とし、現代における問題まで触れています。
目から鱗の本です。お薦めです。

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『斗南藩』読了

斗南藩と聞いてもピンとこない人が多いのでしょうが、明治維新の戦いで敗れた会津藩が23万石から下北半島の地にわずか3万石となって成立しました。厳しい自然環境のなか、移住した1万数千人が塗炭の苦しみを味わいました。
小学校の修学旅行で行くなどした経験から会津には関心と同情心がありました。

この本で、どんな過酷な環境であったかを詳しく知ることができました。さらに同情する一方で、違和感も感じるようになりました。
本書の根底に流れているのは、薩長に対する骨髄にしみる恨みつらみです。その一方で、悲惨な運命に導いた藩主の松平容保には「ただもう感涙あるのみ」です。ひどい目にあわされた藩士の代弁ではあっても、歴史書としての冷静さに欠ける記述に残念な思いを感じました。
恨みつらみも「武士として」であって、会津藩の領民が視野に入っていません。新しい国を作るという視点もありません。維新の敗者となった一端が何かを感じました。

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