カテゴリー「墓」の19件の記事

御陵印と橿原考古学研究所博物館

奈良旅行3日目
今回のメーンイベントの高松塚古墳壁画見学に加え、キトラ古墳の壁画も見学できたので満足感もありましたし、動き回りましたので疲れ気味でした。軽めの日程にして、神武天皇陵で御陵印をもらい橿原考古学研究所博物館を見て帰ってきました、。

御陵印

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30個あります。押印する要領もだいぶのみ込めてきました。御陵印そのものはコンプリートしています。

続いて橿原考古学研究所博物館
御坊山3号墳の石室 正確に言えば横口式石槨を真近からみました。

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漆喰が残っていました。扉の石との間も漆喰で塗り固めたようです。
石槨の中には15歳前後の男性が陶棺に眠っていました。終末期古墳です。

特別展の準備で展示室の一部が閉鎖されていました。

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皇居の内堀を散歩

今日は、久しぶりのオフの日でした。リタイアしているのに“オフの日”というのもおかしな話ですが、気持ち的には、まさにそんな感じでした。

出光美術館で“美の祝典展”の会場から出発。
桜田門です。

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地下鉄の二重橋前駅。

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二重橋は結構遠くて、東京駅の方が近い!どこが二重橋前なのだ!と、突っ込みたくなります。“東京駅前駅”か“和田蔵門前駅”の方が良いのでは!?
和田蔵門

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橋の向こうに見えるビル(ホテル)は幕末の桜田門外ノ変で殺された井伊直弼の首が投げ捨てられたところです。

ここは辰ノ口、評定所もこの方面

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江戸城鬼門(別稿)を通って、平川門

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欄干の擬宝珠の「慶長19年」を確認して、今日は通り過ぎました。

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手前・竹橋から平川門をのぞむ

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北跳橋門

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国立近代美術館で“安田靭彦展”
国立公文書館で“徳川家康・・・将軍家蔵書展”を見て今日は終り。東御苑には時間が無くなっていけませんでした。

久しぶりに気持ち的にゆったり過ごしました。

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橋本左内の生誕地と墓

左内は、松平春嶽のべレーンでしたが、26歳で安政の大獄で刑死しました。

出生地(福井市)

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産湯の井戸が道路にはみ出しています。おそらく「道路拡張工事の時に、井戸をそのまま保存した結果」だと思われます。

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お墓は、左内公園にあります。

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公園は元は善慶寺です。橋本家の菩提寺でしたが廃寺となって跡地は公演になりました。左内は東京の回向院に葬られましたが、井伊大老の死後、この地に改葬されました。さらに明治になって墓石は回向院に戻り、この地には新たな墓石が設けられました。

維新期の傑出した人物の一人です。

訪問日 12月3日

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(河内)源氏の丘(源氏3代の墓)

大阪府太子町の天皇陵古墳が集まる王陵の谷と呼ばれる地域の聖徳太子御廟や用明天皇陵から直線で1kmほど、自転車で5分ぐらいの大阪府羽曳野市に河内源氏発祥の地があります。このように呼ぶのかは知りませんが、雰囲気的には“源氏の丘”です。
王陵の谷は5世紀、源氏の丘は9世紀です。この自転車での5分は、歴史の時間では400年間に相当します。400年を5分で駆け抜ける。この爽快感が好きです。
河内源氏ですが、頼朝、義経、実朝、木曽義仲、足利氏、新田氏の祖先ですから、単に“源氏”と言っても良いのでしょう。

壺井八幡

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2代頼義が勧請しました。源氏の総氏神という神社(であった)社殿は徳川綱吉の時代に再建され平成になって復元修理されました。

頼朝が建てた鎌倉の鶴岡八幡宮は、この頼義が鎌倉に勧請した八幡宮(鶴岡八幡宮の南1kmほどに元八幡宮として今もあります)を勧請したものです。

源氏館跡(碑)

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壺井八幡を含め、付近一帯が館の跡と言うことだと思います。

通法寺跡

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源氏の菩提寺で礎石などがあります。源氏3代のお墓があります。
頼義の墓

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2代頼義の墓は境内にあります。

祖・頼信と3代義家の墓は丘の上にあります。以前はかなり広い寺域であったことが偲ばれます。

頼信の墓

義家の墓

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鎌倉幕府を開いた頼朝はひ孫になります

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続きを読む "(河内)源氏の丘(源氏3代の墓)"

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源頼朝の墓(鎌倉の史跡)

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頼朝の墓で、若い女性二人連れのうち、一人がガイドブックを読んで「このお墓江戸時代に建てられたんだって!」と云ったら、もう一方が「勉強熱心~」と云ってました。私はこの勉強熱心?の方に、心の中で「ナイス!」と拍手を送っていました。何十年もここに寄らなかった理由も「江戸時代に建てられたまがい物を見ても仕方ない。」だったからです。国の指定史跡といってもこんなことは珍しくありません。
でも、よくよく考えてみれば、お墓は江戸時代でも、頼朝が葬られた法華堂の跡ですから、その歴史的価値は揺るぎありません。法華堂そのものはなくなりましたが、頼朝の死後も尊崇を集めた故地でした。

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第2代執権北条義時が頼朝の法華堂の近くに自らの法華堂(地図の〇)を立てたのも肯けます。

義時の法華堂跡の後ろに伝大江広元と島津忠久のお墓があります。(右側が伝大江広元の墓、島津はこの左にあります)

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場所からしてありえないことで、後世に勝手に作ったお墓です。大江広元は毛利氏の祖先ですから、薩長が揃っていることになります。

写真右の石碑は「島津のお墓へ行く道が右にあります。」となっています。頼朝の墓と大きさがさして違いません。まるで頼朝の墓で引きつけておいて島津へ誘導しているかのようです。

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法華堂跡は後に山裾の現白幡神社の位置に移ったようです。

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源義朝の墓(鎌倉の史跡)

勝長寿院の碑(鎌倉市雪ノ下4丁目)の所に源頼朝の父義朝と忠臣鎌田政清の墓があります。(写真左が義朝の墓)

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高さ70~80センチ程です。
源頼朝の父、義朝は平治の乱で敗れ、愛知県まで逃れたところで、在地の者に裏切られて殺されます。その地にも墓(供養塔でしょう)があります。義朝の首は、京に送られ晒されます。
それから25年後、義朝の首を探し出して勝長寿院に送られてきて葬られました。晒された首が25年後見つかるということをにわかに信じるということも無理があると思います。頼朝の意識とは別の事ではありますが、新しい権力者に取り入ろうとする人間が現れるのは世の習いです。
義朝の墓が70~80センチほどの石塔であるとは思えません。勝長寿院は15世紀ごろには荒廃し、大御堂の地名のみを残して田畑になっていましたので、いつの日か義朝を供養するために立てられた供養塔と思われます。その供養塔の古写真があります。

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現在ある地(下図の1の地点)より谷の奥(下図の2の地点)にありました。(写真の番号は地図の所在地の番号と同じです。右上の□マークは大御堂橋の交差点です)

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私はてっきり、この供養塔2が移設されたのかと思っていたのですが、四十数年前に土地の所有者が代って、元々の供養塔がなくなってしまったそうで、現在の供養塔は新しく作られたということになります。無常としか言いようがありません。この地は住宅が建て並んでいますので義朝の廟堂の痕跡はこの地の下に眠っているのでしょう。

およそ150年後鎌倉幕府は滅びますが、その最後の拠点で滅亡の地となった東勝寺(3)が小山を挟んで数十メートルしか離れていません。鎌倉の街作りの最初の寺院となった勝長寿院と隣り合わせというものに、歴史のいたずらを感じます。

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徳川宗春の墓

今日NHKテレビ“歴史秘話 ヒストリア”で尾張徳川の藩主・徳川宗春が取り上げられました。将軍・徳川吉宗の財政緊縮策に反対し、いわば財政積極策をとったため宗春は失脚しました。
番組の内容は首肯できるものですが、一つ残念なことがありました。

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番組の最後に徳川宗春のお墓が紹介されました。徳川宗春のお墓ほど数奇な運命をたどったお墓も少ないのではと私は思っているのですが全く触れられませんでした。
徳川宗春のお墓は、名古屋の郊外の「平和公園」にあります。徳川御三家筆頭の藩主ですから、本来家格は将軍家につぐものです。菩提寺の建中寺にあるべきものが、戦後の復興計画のもと、移転させられ「平和公園」という集団墓地に移されました。時の流れを感じます。
また、移転前に、第二次世界大戦の空襲で、焼夷弾の直撃を受けました。亡くなってから二百年後に上空1万メートルからの直撃弾を自分のお墓が受けるなど、まるでSFの世界の話のようなことがおきるとは、人間のすべての想像力を発揮しても及びもつかない事だったでしょう。
宗春は二十男に生まれ、御三家筆頭の藩主となり、失脚するという人生も波瀾でしたが、お墓もそれ以上の波瀾の歩みをたどりました。NHKの番組ではその点が触れらていませんでした。

宗春が、吉宗に楯突いたということで、将軍家にはばかって墓石には江戸時代を通じて網をかぶせられ、はずされたのは明治になってからだ。という記述を見ましたが、建中寺を訪ねた際に聞きましたが、「そのような状態を見たという事は聞いておりません。」とのことでした。

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焼夷弾直撃の痕が生々しく残っています。

私がこのお墓を訪れたのは、2008年11月中旬でした。名古屋駅の観光案内所で「徳川宗春のお墓を教えてください。」と聞きましたが、案内所の方は知りませんでした。うろ覚えで「平和公園とかなんとかにあるような・・・・・」と聞き直しました。「平和公園」に墓があるというのがピンとこなかったからです。「平和公園というところはあります。」というので、「ひょっとして、そこは墓地ですか?」と聞いたところ「そうです。」と返ってきたので、「わかりました。」と言ったところ、案内書の人は、ダメを押すように「その人の墓があるかどうかはわかりません。」と。宗春さん、影が薄かった。

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桜田門外の変の関鉄之助の墓(小塚原刑場跡回向院)

桜田門外の変の現場指揮官の関鉄之助の墓が南千住の回向院にあります。
安政の大獄など幕末の志士らは伝馬町で斬首され、遺体が小塚原刑場に送られて埋葬されました。当時は重罪人ですので無縁として扱われ、墓などは建てられませんでした。回向院が埋葬する際「標石」を置いてだれの遺骸かわかるようにしていました。後に赦免されると彼らは藩士でしたので、国許へ改葬されてゆきました。関鉄之助もお墓は水戸市にあります。回向院にある墓は、記念墓と呼ばれています。

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関鉄之助のお墓です。遺墓と刻まれています。明治になって勲位が贈られています。

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関鉄之助の妾・滝本いののお墓
関鐡之助妾伊能遺墓(能は旧字体)と刻まれています。
彼女は井伊大老襲撃とは関係ありませんでしたが妾であった為、関鉄之助の逃亡先など幕吏から激しい拷問を受けて亡くなります。23歳でした。
関鉄之助は郷里に改葬され、明治政府から顕彰され勲位を追贈されました。己の信念を貫いた生きざまはそれとして、いのの人生はあまりにも哀れです。まさしく彼女こそ犠牲者です。お墓があることに少し安らぎを感じました。

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関鉄之助の墓(赤矢印)は他の水戸浪士の墓と並んでいます。いのの墓(黄矢印)とは少し距離があります。仕切りを隔ててのこの距離が、私には何とも言えない微妙な距離に感じられました。(1月28日)

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小塚原刑場跡・回向院

荒川区にある南千住の駅から歩いて数分のところに小塚原刑場跡には回向院があります。両国駅の近くにも回向院があります。

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こちら荒川区の回向院はいわば、分院として出発しました。小伝馬町で刑死した多くの人が葬られました。吉田松陰、橋本左内といった安政の大獄、桜田門外ノ変、坂下門外ノ変、さらには2・26事件の指導者等のお墓があります。

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これらのお墓(遺骨はありません)は墓地の一角にまとめられています。
刑死者の遺体は、刀の試し切りや腑分けの対象となりました。

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前野良沢、杉田玄白らの腑分け見学、解体新書の刊行の顕彰碑です。

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葛飾北斎のお墓

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写楽展をやっているからというわけではないのですが、ゴールデンウィーク中に葛飾北斎のお墓に行ってきました。上野駅から歩いて20分ほどの誓教寺(台東区元浅草4-6-9)にあります。90歳という天寿を全うした北斎は父と合葬されていましたが、幕末になって縁者によってこのお墓が建てられました。墓石には「画狂老人卍墓」と刻まれています。

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