カテゴリー「墓」の29件の記事

「太安万侶 古事記編纂者」展

11月10日に橿原考古学研究所付属博物館で開かれている
「太安万侶」展を見ました。
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今年は太安万侶没後1300年に当たります。
昭和54年に安万呂の墓が発見された時は大きなニュースになりました。
お墓は奈良市にありますが、山中で車でなければそうはいけません。
今年レンタカーで訪れました。
そして、もう少し太安万呂のことを知りたいと思っていました。

お屋敷は、JR奈良駅のすぐ西の(今は)一等地
生きていた時代でも4条4坊の一等地です。
(写真の四角で囲まれた地域)
右手に奈良駅のホームが見えます
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その中で絞り切れていませんが(決定的な遺物が出ていない)
丸印の辺りの可能性が考えられる。としていました。

発見された墓は、改葬された墓の可能性が強く
最初の墓は、氏族の本貫である現在の田原本町にあったのではないか
と推測されています。

上野の国立博物館にも墓誌が数点展示されています。
今回の展覧会で、その墓の場所の地図があって
位置関係がよくわかりました
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地図に示された場所に結構言っていますが、
一方で、今まで知らなくてこれから行きたい場所が増えました。
今年だけで奈良には4回行きました。
「なんでそんなに行くの?」と言われますが
行くたびに、行きたい場所が出てきます。
「奈良」からまだまだ卒業できそうにありません。




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太閤石垣と俳人曽良の墓

国境の島といえば対馬を一番に思い浮かべますが
壱岐にも国境の島としての歴史を感じさせられる遺跡があります。

勝本城
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、
壱岐における兵站基地として築城されました。
朝鮮撤兵後に建物は破却されました。

石垣が太閤垣として残っています
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虎口の遺構も良く残っています
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壱岐の島の北で、海がよく見えます
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壱岐には城跡が数多くありますが、私が訪れた城跡はここだけでした。

城跡に芭蕉の弟子の河会曽良の句碑があり、
お墓もあります。
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墓石は上部が切られたようになっています
なぜここに墓があるのか?
幕府の巡見使の随行でこの地に来て当地で亡くなりました。
海を見下ろす良い土地に眠っています。
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旅行前に調べてきますが、曽良の墓は、全くノーマークで、
私にとってはサプライズでした。

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京都・瑞泉寺

瑞泉寺といえば鎌倉の瑞泉寺しか知らなかった私には京都、それも一番の中心地というべき三条大橋近くにある瑞泉寺は衝撃的でした。
千年の都の刑場と言えば、六条河原と三条河原ですが、三条河原に建っているのが”瑞泉寺”です。

豊臣秀吉の甥である秀次が、1595年に「謀反の疑い」で高野山で切腹させられ、その首が晒されたのがこの地です。その首の前で一族39名が処刑されました。20211201c4
処刑された39名の遺体は、そのまま大きな穴に投げ込まれました。その穴の跡に塚が築かれ、頂上に秀次の首が納められた石櫃が据えられました。20211201c5
首塚の石塔には「秀次悪逆」と刻まれていたとのことです。「畜生塚」と、きざまれたとも。
首塚があったところが、現在の瑞泉寺の本堂です。

この事件の16年後の1611年に、角倉了以が高瀬川を開削する際に荒廃した塚と石塔を発見し当寺を建てました。現在の墓域です。20211201c2
秀次の首を入れていた石櫃が残されています。20211201c1
駒姫は、山形の最上氏の娘で秀次に輿入れしてきて、京都で旅の疲れをいやしているときに、その秀次が高野山で7月15日に切腹させられ、自信は8月2日に39名中11番目に処刑されてしまいました。15歳です。供養塔です。20211201c3

2013年(平成25年)の発掘調査で秀次のお墓が穴の中から発見されました。
秀吉によるこの粛清は、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。この地に来て、天下人秀吉の恐れを知らぬ振る舞いと、秀頼かわいさと、その恐ろしいほどの執念を感じました。

本堂の前に「日付印は自分で押してください。」と、あったのでスッと日付印を押したら、「300円は、箱の中に入れてください」とかいてありました。つまり、これが御朱印だったわけです。20211201c6
御朱印はもらわないつもりでしたが、結果的にいただくことになりました。
6泊7日の旅の締めくくりが瑞泉寺でした。瑞泉寺を後にして京都駅に歩いて向かいました。が、周りは賑やかだったのですが、自分のところだけは違う空気が流れているように感じました。

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義仲寺(滋賀県大津市)

木曽義仲のお墓がある寺です。11月6日に行きました。木曽義仲が命を落とした粟津ヶ原にあります。鎌倉時代後期の文書に木曽塚、木曽寺、義仲寺と見えます。その後は荒廃します。貞享年間(1684~1688年)に大修理が行われます。このころ俳人の松尾芭蕉がしきりに訪れ、「骸は木曽塚に送るべし」と遺言し、大阪で亡くなった後、遺骸は門人たちによって当寺に運ばれお墓が建てられました。
木曽義仲公の墓20211115a1
芭蕉翁の墓20211115a5

境内に句碑が20ほどあります。その一つ有名な句です
『木曽殿と背中合わせの寒さかな』20211115a4
私も一句「芭蕉殿ととなり合わせの秋の朝」とパクり気味に詠みました。朝日が差し込んでいました。20211115a8 実は季語を「冬日和」としたのですが、立冬の前日だったので、冬日和を秋の朝と季語を変えました。ちなみに木曽義仲は「朝日将軍」と号されました。
20211115a7 義仲公と芭蕉翁の墓の位置は、門弟其角の「木曽塚の右に葬る」とあって、今も当時のままであることがわかります。

境内の芭蕉の木が花をつけていました。20211115a6
4~5年に一回しか咲かないそうです。ただ、咲くのは今の時期ではないそうです。ようやくやってきた私を歓迎してくれたと、思うことにしました。

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道鏡塚(下野市)

下野市に奈良時代に皇位簒奪をはかったと言われた弓削道鏡の塚(墓)があるので気になっていました。

鑑真和上が招かれて唐より渡り来て、戒壇を東大寺、大宰府そしてここ下野薬師寺に設置しました。(日本三戒壇)
和気清麻呂により皇位簒奪がならず道鏡の支持者である称徳天皇の崩御後、流されて当寺に来ました。

道鏡塚は龍興寺の境内にあります。小さな山で現地踏査した際に埴輪が発見され古墳であることがわかっており、古墳が作られた年代は道鏡の時代より1世紀ほど古く、年代は合いませんが古墳に追葬したとあれば、ありそうなことです。称徳天皇、和気清麻呂のお墓がどこなのかわからないなかで敗者の道鏡の墓所だけがその存在がわかるということになります。案内板の裏にある5mほどの小山にあがってみました。形が円墳ということで古墳の特徴を感じることもありませんでした。

『道鏡禅師の墓所』との案内板には経歴の後に続いて『・・・・日本三戒壇一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と、すべての人々の幸せを祈りながら、静かに遷化されました。人々は、これを深く悲しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として、手厚く葬りました。』平成29年4月7日の日付が記されていました。210630c1_20210711001801


案内板を裏付ける資料はあるのか?でしたが、下野薬師寺歴史館で買い求めた図録にその回答がありました。図録の発刊は平成14年です。210630c2_20210711001801
772年に道鏡の死が下野国司から朝廷に伝えられ、葬儀及び埋葬方法について質問がなされています。その回答は、「死するときは庶民を以てこれを葬る」とされ、一般庶民と同様の扱いがなされ、埋葬方法や場所はいまだにわかっていません。」です。

太政大臣禅師まで上りつめた人物の埋葬地が不明であることから生まれた民間の伝承ということになります。

 

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畳塚 栃木県壬生町・精忠神社

栃木県壬生町にある精忠神社に京都の伏見城にあった畳が江戸城経由で伝えられ埋められて「畳塚」となっています。なぜ伏見城の畳が栃木県にあるのか?

関ヶ原の戦いにさかのぼります。京都の伏見城は、関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川側の捨て石となって西軍4万の大軍を1800人で良く守備しますが、ついに老守将の鳥居元忠が切腹して果て、落城しました。この奮戦で西軍の大軍が関ヶ原に間に合わなかった。徳川幕府への道を開いた伏見城の奮戦は、徳川にとって特別に感謝し忘れてはならない戦いでした。その記憶をとどめるため伏見城の戦いの血痕が付いた板が寺の天井材につかわれ「血染めの天井」として残っているのを京都の寺で2カ所で私は見ています。伏見城に対する徳川の思いを強く印象付けられました。

最期に切腹した時の畳が江戸城に運ばれ、伏見櫓(皇居二重橋の背後に見える建物)に据えられました。210630a2 伏見城から移築されたのでこの名がつけられたと言われています。(ちなみに、大阪城、福山城には伏見城から櫓が移築され、福山城には現存してます)江戸城の場合は、この畳が据えられたことがその名の由来になったことも考えられるかもしれません。
壬生藩は鳥居元忠の子孫が藩主です。明治になり徳川幕府が幕を下ろし、藩士の一人が明治新政府に畳の下げを明治5(1871)年5月12日に願い出て、同年6月14日に壬生に持ってこれました。壬生の赤御堂を経て現在のようになったのが大正4(1915)年です。210630a1
畳塚の存在は知っていました。しかし、『伏見城の畳と言われているのが埋められた』という不確かな情報でしたので確かめたかったのが今回の旅の一つの目的でした。資料館で、経緯にたいする詳細の記録と畳(二帖)の写生を図録(完売)で確かめました。

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板橋の宇喜多秀家の墓(供養塔) 八丈島旅行番外編

八丈島へ行く前に、宇喜多秀家の供養塔が板橋お寺にあることを知りました。明治維新後に末裔一族が移住し供養塔を立てたのです。
「なぜ板橋に?」は、ひとまず置いて、板橋に7日に行ってきました。
立派な供養塔です。201207a1 八丈島の歴史民俗資料館で「板橋の供養塔に遺髪が移されたようですね?」と、質問したら「遺骨を移したようです。」との回答でした。ということになれば、こちらが「お墓」と言っても良いのかもしれません。
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『秀家卿』と刻まれた文字に無念をいささかなりとも果たした感じが伝わってきます。
歩いて10分とかからないところに新選組の近藤勇の供養塔、墓があります。201207a6 時代背景の対照というのでしょうか。明治維新で転げ落ちた近藤勇と、逆に復権した宇喜多秀家です。近藤の首は処刑後京都で晒されたあと、処刑地近くのこの地に埋葬されたとのことです。立派な供養碑の傍らに元々のお墓があります。201207a5
名前を刻むことを許されなかった自然石です。秀家の元々の墓石にも名前は刻まれませんでした。

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宇喜多秀家屋敷跡 八丈島旅行

屋敷跡の情報があまりなかったので、お墓に先に行ったのですが、
屋敷跡は駐車場(私有地)もあり、お墓の近く(徒歩1~2分)ですのでこちらに先に行くことをお勧めします。
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『宇喜多秀家住所跡』『御菩提の 多子や植介ん 此寺に みのり乃秋曽 久しかる遍き』の秀家の和歌が刻まれています。
ここにも供養の岡山城の礎石が飾ってあります。
201128a2 後ろの蘇鉄は秀家お手植えだそうですが、大きさから推察すると何代目かなのでしょう。
屋敷跡の後背地に比べると敷地は3メートルほど高いので、悪い立地ではありません。
201128a3 敷地から見える八丈富士が少しは慰めになったのか?しかし50年の流罪生活はあまりにも長すぎます。
村田家住居跡
201128a5 秀家に随行してきた医師の村田道珍斎の住居跡ですが、掲示板はありません。
秀家一行が上陸した地点にも向かいましたが、港湾工事のため近くまで行ってあきらめました。
終焉の地は、2説あるそうです。一ヶ所はお墓の道路を挟んだ向かい側です。

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宇喜多秀家のお墓 八丈島旅行

八丈島への旅行の最大目的は、宇喜多秀家の足跡をたどることでした。
関ヶ原合戦で西軍の主力として戦い、関ヶ原の武将で最も長生きをし、徳川家光よりも長生きをしました。
岡山57万石の大名から、敗軍の将そして流人として生涯を終える。誠実な生きざまと不撓不屈の信念に惹かれます。
墓所は秀家の墓を中心に家族と子孫のお墓が囲んでいます。201127a1_20201204000701
子孫がおられますので花が供えられています。中央の五輪塔の墓は天保12年にたてられたものです。その左にある塔婆型のお墓が元来のお墓です。
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『南無阿弥陀仏』と刻んであるそうですが、読み取れません。201127a3_20201204000701
この時点では戒名が許されなかったのかもしれません。
供養のためでしょう!近年、岡山城の礎石が備えられています。
201127a-2 「浮田」姓のお墓があります。『中納言秀家』をしのぶ墓碑銘が建てられていました。201127a5_20201204000701 無念さが伝わってきます。
宇喜多ではなく、浮田と名のったのは徳川幕府のに遠慮したからという話も聞きますが、これはちょっと事実とは違うと思います。命日になると岡山からお墓参りの人々がやってくるそうです。

 

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尾上菊五郎(三代目)のお墓

三代目 尾上菊五郎は、嘉永二年(1849年)に掛川で亡くなりました。

掛川の広楽寺にお墓があります

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本堂の前にあります。

墓地の一角にあるんじゃないの?と疑問に思ったのですが、

「お寺の場所が移った」との説明で納得です。

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『音羽屋』の「羽」が風雪のため消えていました。

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