カテゴリー「墓」の32件の記事
増上寺徳川将軍家墓所
地下鉄大門駅で降りたので、久しぶりに増上寺を訪れました。
増上寺は戦災で焼け落ちて、大門の実が残り、他の建造物はほとんど戦後の再建です。ですのであまり興味はわかないのですが、久しぶりに墓所で対面してみようと思い立ちました。
宝物館とのセット券もありますが、徳川びいきではないので「墓所だけで結構です」と、500円 クリアファイルとステッカーをもらいました。
門の左手から入ります
元々は増上寺の敷地は3倍ありましたのですが、墓はここに集められました
独立していた各墓所も、今は将軍の集団墓地となっています
従って、建っていた場所とは違います
和宮
遺体は清流の中で生きながらのように眠っていました
2代秀忠の墓
お江との合葬です。が、秀忠の墓は木製であったため空襲で焼けてしまい、お江の墓を合葬墓としたものです。
お墓ですので、変化はないので以前と変わりはありません。絶大な権力を図っても歴史の流れには抗えないことを実感します。そんな空気が流れている場所です。(4月20日訪問)
『神武天皇の歴史学』読了
外池昇氏の著作です
伝説上の人物の神武天皇の墓がなぜあるのか?
それは、幕末に孝明天皇が伝承地3ヶ所から選んで決めたからです。
そこは知っていたのですが、なにをもとに孝明天皇が決めたのかがわかりませんでした
本書はその経緯、歴史的背景について詳しく書かれています
幕末に作られた神武天皇陵に関する決定版といってよいと思います
天皇や皇族がお参りする墓が「さしたる根拠もない墓である」こと
伝説上の人物の墓を作るというのは、そういうことなのですが
大方の人は、そうしたことは知りません
この本は、幕末に作られた神武天皇陵について述べていますが
藤原京を作った時にも作られています
神武陵については、あらためて記事にしたいと思います。
「太安万侶 古事記編纂者」展
11月10日に橿原考古学研究所付属博物館で開かれている
「太安万侶」展を見ました。
今年は太安万侶没後1300年に当たります。
昭和54年に安万呂の墓が発見された時は大きなニュースになりました。
お墓は奈良市にありますが、山中で車でなければそうはいけません。
今年レンタカーで訪れました。
そして、もう少し太安万呂のことを知りたいと思っていました。
お屋敷は、JR奈良駅のすぐ西の(今は)一等地
生きていた時代でも4条4坊の一等地です。
(写真の四角で囲まれた地域)
右手に奈良駅のホームが見えます
その中で絞り切れていませんが(決定的な遺物が出ていない)
丸印の辺りの可能性が考えられる。としていました。
発見された墓は、改葬された墓の可能性が強く
最初の墓は、氏族の本貫である現在の田原本町にあったのではないか
と推測されています。
上野の国立博物館にも墓誌が数点展示されています。
今回の展覧会で、その墓の場所の地図があって
位置関係がよくわかりました
地図に示された場所に結構言っていますが、
一方で、今まで知らなくてこれから行きたい場所が増えました。
今年だけで奈良には4回行きました。
「なんでそんなに行くの?」と言われますが
行くたびに、行きたい場所が出てきます。
「奈良」からまだまだ卒業できそうにありません。
太閤石垣と俳人曽良の墓
国境の島といえば対馬を一番に思い浮かべますが
壱岐にも国境の島としての歴史を感じさせられる遺跡があります。
勝本城
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、
壱岐における兵站基地として築城されました。
朝鮮撤兵後に建物は破却されました。
石垣が太閤垣として残っています
虎口の遺構も良く残っています
壱岐の島の北で、海がよく見えます
壱岐には城跡が数多くありますが、私が訪れた城跡はここだけでした。
城跡に芭蕉の弟子の河会曽良の句碑があり、
お墓もあります。
墓石は上部が切られたようになっています
なぜここに墓があるのか?
幕府の巡見使の随行でこの地に来て当地で亡くなりました。
海を見下ろす良い土地に眠っています。
旅行前に調べてきますが、曽良の墓は、全くノーマークで、
私にとってはサプライズでした。
京都・瑞泉寺
瑞泉寺といえば鎌倉の瑞泉寺しか知らなかった私には京都、それも一番の中心地というべき三条大橋近くにある瑞泉寺は衝撃的でした。
千年の都の刑場と言えば、六条河原と三条河原ですが、三条河原に建っているのが”瑞泉寺”です。
豊臣秀吉の甥である秀次が、1595年に「謀反の疑い」で高野山で切腹させられ、その首が晒されたのがこの地です。その首の前で一族39名が処刑されました。
処刑された39名の遺体は、そのまま大きな穴に投げ込まれました。その穴の跡に塚が築かれ、頂上に秀次の首が納められた石櫃が据えられました。
首塚の石塔には「秀次悪逆」と刻まれていたとのことです。「畜生塚」と、きざまれたとも。
首塚があったところが、現在の瑞泉寺の本堂です。
この事件の16年後の1611年に、角倉了以が高瀬川を開削する際に荒廃した塚と石塔を発見し当寺を建てました。現在の墓域です。
秀次の首を入れていた石櫃が残されています。
駒姫は、山形の最上氏の娘で秀次に輿入れしてきて、京都で旅の疲れをいやしているときに、その秀次が高野山で7月15日に切腹させられ、自信は8月2日に39名中11番目に処刑されてしまいました。15歳です。供養塔です。
2013年(平成25年)の発掘調査で秀次のお墓が穴の中から発見されました。
秀吉によるこの粛清は、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。この地に来て、天下人秀吉の恐れを知らぬ振る舞いと、秀頼かわいさと、その恐ろしいほどの執念を感じました。
本堂の前に「日付印は自分で押してください。」と、あったのでスッと日付印を押したら、「300円は、箱の中に入れてください」とかいてありました。つまり、これが御朱印だったわけです。
御朱印はもらわないつもりでしたが、結果的にいただくことになりました。
6泊7日の旅の締めくくりが瑞泉寺でした。瑞泉寺を後にして京都駅に歩いて向かいました。が、周りは賑やかだったのですが、自分のところだけは違う空気が流れているように感じました。
義仲寺(滋賀県大津市)
木曽義仲のお墓がある寺です。11月6日に行きました。木曽義仲が命を落とした粟津ヶ原にあります。鎌倉時代後期の文書に木曽塚、木曽寺、義仲寺と見えます。その後は荒廃します。貞享年間(1684~1688年)に大修理が行われます。このころ俳人の松尾芭蕉がしきりに訪れ、「骸は木曽塚に送るべし」と遺言し、大阪で亡くなった後、遺骸は門人たちによって当寺に運ばれお墓が建てられました。
木曽義仲公の墓
芭蕉翁の墓
境内に句碑が20ほどあります。その一つ有名な句です
『木曽殿と背中合わせの寒さかな』
私も一句「芭蕉殿ととなり合わせの秋の朝」とパクり気味に詠みました。朝日が差し込んでいました。
実は季語を「冬日和」としたのですが、立冬の前日だったので、冬日和を秋の朝と季語を変えました。ちなみに木曽義仲は「朝日将軍」と号されました。
義仲公と芭蕉翁の墓の位置は、門弟其角の「木曽塚の右に葬る」とあって、今も当時のままであることがわかります。
境内の芭蕉の木が花をつけていました。
4~5年に一回しか咲かないそうです。ただ、咲くのは今の時期ではないそうです。ようやくやってきた私を歓迎してくれたと、思うことにしました。
道鏡塚(下野市)
下野市に奈良時代に皇位簒奪をはかったと言われた弓削道鏡の塚(墓)があるので気になっていました。
鑑真和上が招かれて唐より渡り来て、戒壇を東大寺、大宰府そしてここ下野薬師寺に設置しました。(日本三戒壇)
和気清麻呂により皇位簒奪がならず道鏡の支持者である称徳天皇の崩御後、流されて当寺に来ました。
道鏡塚は龍興寺の境内にあります。小さな山で現地踏査した際に埴輪が発見され古墳であることがわかっており、古墳が作られた年代は道鏡の時代より1世紀ほど古く、年代は合いませんが古墳に追葬したとあれば、ありそうなことです。称徳天皇、和気清麻呂のお墓がどこなのかわからないなかで敗者の道鏡の墓所だけがその存在がわかるということになります。案内板の裏にある5mほどの小山にあがってみました。形が円墳ということで古墳の特徴を感じることもありませんでした。
『道鏡禅師の墓所』との案内板には経歴の後に続いて『・・・・日本三戒壇一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と、すべての人々の幸せを祈りながら、静かに遷化されました。人々は、これを深く悲しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として、手厚く葬りました。』平成29年4月7日の日付が記されていました。
案内板を裏付ける資料はあるのか?でしたが、下野薬師寺歴史館で買い求めた図録にその回答がありました。図録の発刊は平成14年です。
772年に道鏡の死が下野国司から朝廷に伝えられ、葬儀及び埋葬方法について質問がなされています。その回答は、「死するときは庶民を以てこれを葬る」とされ、一般庶民と同様の扱いがなされ、埋葬方法や場所はいまだにわかっていません。」です。
太政大臣禅師まで上りつめた人物の埋葬地が不明であることから生まれた民間の伝承ということになります。
畳塚 栃木県壬生町・精忠神社
栃木県壬生町にある精忠神社に京都の伏見城にあった畳が江戸城経由で伝えられ埋められて「畳塚」となっています。なぜ伏見城の畳が栃木県にあるのか?
関ヶ原の戦いにさかのぼります。京都の伏見城は、関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川側の捨て石となって西軍4万の大軍を1800人で良く守備しますが、ついに老守将の鳥居元忠が切腹して果て、落城しました。この奮戦で西軍の大軍が関ヶ原に間に合わなかった。徳川幕府への道を開いた伏見城の奮戦は、徳川にとって特別に感謝し忘れてはならない戦いでした。その記憶をとどめるため伏見城の戦いの血痕が付いた板が寺の天井材につかわれ「血染めの天井」として残っているのを京都の寺で2カ所で私は見ています。伏見城に対する徳川の思いを強く印象付けられました。
最期に切腹した時の畳が江戸城に運ばれ、伏見櫓(皇居二重橋の背後に見える建物)に据えられました。
伏見城から移築されたのでこの名がつけられたと言われています。(ちなみに、大阪城、福山城には伏見城から櫓が移築され、福山城には現存してます)江戸城の場合は、この畳が据えられたことがその名の由来になったことも考えられるかもしれません。
壬生藩は鳥居元忠の子孫が藩主です。明治になり徳川幕府が幕を下ろし、藩士の一人が明治新政府に畳の下げを明治5(1871)年5月12日に願い出て、同年6月14日に壬生に持ってこれました。壬生の赤御堂を経て現在のようになったのが大正4(1915)年です。
畳塚の存在は知っていました。しかし、『伏見城の畳と言われているのが埋められた』という不確かな情報でしたので確かめたかったのが今回の旅の一つの目的でした。資料館で、経緯にたいする詳細の記録と畳(二帖)の写生を図録(完売)で確かめました。
板橋の宇喜多秀家の墓(供養塔) 八丈島旅行番外編
八丈島へ行く前に、宇喜多秀家の供養塔が板橋お寺にあることを知りました。明治維新後に末裔一族が移住し供養塔を立てたのです。
「なぜ板橋に?」は、ひとまず置いて、板橋に7日に行ってきました。
立派な供養塔です。
八丈島の歴史民俗資料館で「板橋の供養塔に遺髪が移されたようですね?」と、質問したら「遺骨を移したようです。」との回答でした。ということになれば、こちらが「お墓」と言っても良いのかもしれません。
『秀家卿』と刻まれた文字に無念をいささかなりとも果たした感じが伝わってきます。
歩いて10分とかからないところに新選組の近藤勇の供養塔、墓があります。
時代背景の対照というのでしょうか。明治維新で転げ落ちた近藤勇と、逆に復権した宇喜多秀家です。近藤の首は処刑後京都で晒されたあと、処刑地近くのこの地に埋葬されたとのことです。立派な供養碑の傍らに元々のお墓があります。
名前を刻むことを許されなかった自然石です。秀家の元々の墓石にも名前は刻まれませんでした。
より以前の記事一覧
- 宇喜多秀家屋敷跡 八丈島旅行 2020.12.04
- 宇喜多秀家のお墓 八丈島旅行 2020.12.04
- 尾上菊五郎(三代目)のお墓 2019.09.28
- 皇居の内堀を散歩 2016.04.13
- 橋本左内の生誕地と墓 2014.12.31
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- 源頼朝の墓(鎌倉の史跡) 2012.11.26
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- 徳川宗春の墓 2012.10.18
- 桜田門外の変の関鉄之助の墓(小塚原刑場跡回向院) 2012.02.15
- 小塚原刑場跡・回向院 2012.02.15
- 葛飾北斎のお墓 2011.05.12
- 赤穂浪士・寺坂吉右衛門の墓その3 2011.01.20
- 赤穂浪士・寺坂吉右衛門の墓その2 2011.01.20
- 赤穂浪士・寺坂吉右衛門の墓その1 2011.01.20
- 徳川将軍家墓所(芝 増上寺) 2010.10.10
- 兵庫の津 2010.10.07
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- 神戸外国人墓地(1) 公開 2010.09.30
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