カテゴリー「墓」の23件の記事

板橋の宇喜多秀家の墓(供養塔) 八丈島旅行番外編

八丈島へ行く前に、宇喜多秀家の供養塔が板橋お寺にあることを知りました。明治維新後に末裔一族が移住し供養塔を立てたのです。
「なぜ板橋に?」は、ひとまず置いて、板橋に7日に行ってきました。
立派な供養塔です。201207a1 八丈島の歴史民俗資料館で「板橋の供養塔に遺髪が移されたようですね?」と、質問したら「遺骨を移したようです。」との回答でした。ということになれば、こちらが「お墓」と言っても良いのかもしれません。
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『秀家卿』と刻まれた文字に無念をいささかなりとも果たした感じが伝わってきます。
歩いて10分とかからないところに新選組の近藤勇の供養塔、墓があります。201207a6 時代背景の対照というのでしょうか。明治維新で転げ落ちた近藤勇と、逆に復権した宇喜多秀家です。近藤の首は処刑後京都で晒されたあと、処刑地近くのこの地に埋葬されたとのことです。立派な供養碑の傍らに元々のお墓があります。201207a5
名前を刻むことを許されなかった自然石です。秀家の元々の墓石にも名前は刻まれませんでした。

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宇喜多秀家屋敷跡 八丈島旅行

屋敷跡の情報があまりなかったので、お墓に先に行ったのですが、
屋敷跡は駐車場(私有地)もあり、お墓の近く(徒歩1~2分)ですのでこちらに先に行くことをお勧めします。
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『宇喜多秀家住所跡』『御菩提の 多子や植介ん 此寺に みのり乃秋曽 久しかる遍き』の秀家の和歌が刻まれています。
ここにも供養の岡山城の礎石が飾ってあります。
201128a2 後ろの蘇鉄は秀家お手植えだそうですが、大きさから推察すると何代目かなのでしょう。
屋敷跡の後背地に比べると敷地は3メートルほど高いので、悪い立地ではありません。
201128a3 敷地から見える八丈富士が少しは慰めになったのか?しかし50年の流罪生活はあまりにも長すぎます。
村田家住居跡
201128a5 秀家に随行してきた医師の村田道珍斎の住居跡ですが、掲示板はありません。
秀家一行が上陸した地点にも向かいましたが、港湾工事のため近くまで行ってあきらめました。
終焉の地は、2説あるそうです。一ヶ所はお墓の道路を挟んだ向かい側です。

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宇喜多秀家のお墓 八丈島旅行

八丈島への旅行の最大目的は、宇喜多秀家の足跡をたどることでした。
関ヶ原合戦で西軍の主力として戦い、関ヶ原の武将で最も長生きをし、徳川家光よりも長生きをしました。
岡山57万石の大名から、敗軍の将そして流人として生涯を終える。誠実な生きざまと不撓不屈の信念に惹かれます。
墓所は秀家の墓を中心に家族と子孫のお墓が囲んでいます。201127a1_20201204000701
子孫がおられますので花が供えられています。中央の五輪塔の墓は天保12年にたてられたものです。その左にある塔婆型のお墓が元来のお墓です。
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『南無阿弥陀仏』と刻んであるそうですが、読み取れません。201127a3_20201204000701
この時点では戒名が許されなかったのかもしれません。
供養のためでしょう!近年、岡山城の礎石が備えられています。
201127a-2 「浮田」姓のお墓があります。『中納言秀家』をしのぶ墓碑銘が建てられていました。201127a5_20201204000701 無念さが伝わってきます。
宇喜多ではなく、浮田と名のったのは徳川幕府のに遠慮したからという話も聞きますが、これはちょっと事実とは違うと思います。命日になると岡山からお墓参りの人々がやってくるそうです。

 

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尾上菊五郎(三代目)のお墓

三代目 尾上菊五郎は、嘉永二年(1849年)に掛川で亡くなりました。

掛川の広楽寺にお墓があります

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本堂の前にあります。

墓地の一角にあるんじゃないの?と疑問に思ったのですが、

「お寺の場所が移った」との説明で納得です。

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『音羽屋』の「羽」が風雪のため消えていました。

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御陵印と橿原考古学研究所博物館

奈良旅行3日目
今回のメーンイベントの高松塚古墳壁画見学に加え、キトラ古墳の壁画も見学できたので満足感もありましたし、動き回りましたので疲れ気味でした。軽めの日程にして、神武天皇陵で御陵印をもらい橿原考古学研究所博物館を見て帰ってきました、。

御陵印

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30個あります。押印する要領もだいぶのみ込めてきました。御陵印そのものはコンプリートしています。

続いて橿原考古学研究所博物館
御坊山3号墳の石室 正確に言えば横口式石槨を真近からみました。

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漆喰が残っていました。扉の石との間も漆喰で塗り固めたようです。
石槨の中には15歳前後の男性が陶棺に眠っていました。終末期古墳です。

特別展の準備で展示室の一部が閉鎖されていました。

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皇居の内堀を散歩

今日は、久しぶりのオフの日でした。リタイアしているのに“オフの日”というのもおかしな話ですが、気持ち的には、まさにそんな感じでした。

出光美術館で“美の祝典展”の会場から出発。
桜田門です。

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地下鉄の二重橋前駅。

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二重橋は結構遠くて、東京駅の方が近い!どこが二重橋前なのだ!と、突っ込みたくなります。“東京駅前駅”か“和田蔵門前駅”の方が良いのでは!?
和田蔵門

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橋の向こうに見えるビル(ホテル)は幕末の桜田門外ノ変で殺された井伊直弼の首が投げ捨てられたところです。

ここは辰ノ口、評定所もこの方面

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江戸城鬼門(別稿)を通って、平川門

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欄干の擬宝珠の「慶長19年」を確認して、今日は通り過ぎました。

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手前・竹橋から平川門をのぞむ

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北跳橋門

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国立近代美術館で“安田靭彦展”
国立公文書館で“徳川家康・・・将軍家蔵書展”を見て今日は終り。東御苑には時間が無くなっていけませんでした。

久しぶりに気持ち的にゆったり過ごしました。

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橋本左内の生誕地と墓

左内は、松平春嶽のべレーンでしたが、26歳で安政の大獄で刑死しました。

出生地(福井市)

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産湯の井戸が道路にはみ出しています。おそらく「道路拡張工事の時に、井戸をそのまま保存した結果」だと思われます。

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お墓は、左内公園にあります。

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公園は元は善慶寺です。橋本家の菩提寺でしたが廃寺となって跡地は公演になりました。左内は東京の回向院に葬られましたが、井伊大老の死後、この地に改葬されました。さらに明治になって墓石は回向院に戻り、この地には新たな墓石が設けられました。

維新期の傑出した人物の一人です。

訪問日 12月3日

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(河内)源氏の丘(源氏3代の墓)

大阪府太子町の天皇陵古墳が集まる王陵の谷と呼ばれる地域の聖徳太子御廟や用明天皇陵から直線で1kmほど、自転車で5分ぐらいの大阪府羽曳野市に河内源氏発祥の地があります。このように呼ぶのかは知りませんが、雰囲気的には“源氏の丘”です。
王陵の谷は5世紀、源氏の丘は9世紀です。この自転車での5分は、歴史の時間では400年間に相当します。400年を5分で駆け抜ける。この爽快感が好きです。
河内源氏ですが、頼朝、義経、実朝、木曽義仲、足利氏、新田氏の祖先ですから、単に“源氏”と言っても良いのでしょう。

壺井八幡

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2代頼義が勧請しました。源氏の総氏神という神社(であった)社殿は徳川綱吉の時代に再建され平成になって復元修理されました。

頼朝が建てた鎌倉の鶴岡八幡宮は、この頼義が鎌倉に勧請した八幡宮(鶴岡八幡宮の南1kmほどに元八幡宮として今もあります)を勧請したものです。

源氏館跡(碑)

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壺井八幡を含め、付近一帯が館の跡と言うことだと思います。

通法寺跡

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源氏の菩提寺で礎石などがあります。源氏3代のお墓があります。
頼義の墓

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2代頼義の墓は境内にあります。

祖・頼信と3代義家の墓は丘の上にあります。以前はかなり広い寺域であったことが偲ばれます。

頼信の墓

義家の墓

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鎌倉幕府を開いた頼朝はひ孫になります

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続きを読む "(河内)源氏の丘(源氏3代の墓)"

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源頼朝の墓(鎌倉の史跡)

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頼朝の墓で、若い女性二人連れのうち、一人がガイドブックを読んで「このお墓江戸時代に建てられたんだって!」と云ったら、もう一方が「勉強熱心~」と云ってました。私はこの勉強熱心?の方に、心の中で「ナイス!」と拍手を送っていました。何十年もここに寄らなかった理由も「江戸時代に建てられたまがい物を見ても仕方ない。」だったからです。国の指定史跡といってもこんなことは珍しくありません。
でも、よくよく考えてみれば、お墓は江戸時代でも、頼朝が葬られた法華堂の跡ですから、その歴史的価値は揺るぎありません。法華堂そのものはなくなりましたが、頼朝の死後も尊崇を集めた故地でした。

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第2代執権北条義時が頼朝の法華堂の近くに自らの法華堂(地図の〇)を立てたのも肯けます。

義時の法華堂跡の後ろに伝大江広元と島津忠久のお墓があります。(右側が伝大江広元の墓、島津はこの左にあります)

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場所からしてありえないことで、後世に勝手に作ったお墓です。大江広元は毛利氏の祖先ですから、薩長が揃っていることになります。

写真右の石碑は「島津のお墓へ行く道が右にあります。」となっています。頼朝の墓と大きさがさして違いません。まるで頼朝の墓で引きつけておいて島津へ誘導しているかのようです。

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法華堂跡は後に山裾の現白幡神社の位置に移ったようです。

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源義朝の墓(鎌倉の史跡)

勝長寿院の碑(鎌倉市雪ノ下4丁目)の所に源頼朝の父義朝と忠臣鎌田政清の墓があります。(写真左が義朝の墓)

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高さ70~80センチ程です。
源頼朝の父、義朝は平治の乱で敗れ、愛知県まで逃れたところで、在地の者に裏切られて殺されます。その地にも墓(供養塔でしょう)があります。義朝の首は、京に送られ晒されます。
それから25年後、義朝の首を探し出して勝長寿院に送られてきて葬られました。晒された首が25年後見つかるということをにわかに信じるということも無理があると思います。頼朝の意識とは別の事ではありますが、新しい権力者に取り入ろうとする人間が現れるのは世の習いです。
義朝の墓が70~80センチほどの石塔であるとは思えません。勝長寿院は15世紀ごろには荒廃し、大御堂の地名のみを残して田畑になっていましたので、いつの日か義朝を供養するために立てられた供養塔と思われます。その供養塔の古写真があります。

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現在ある地(下図の1の地点)より谷の奥(下図の2の地点)にありました。(写真の番号は地図の所在地の番号と同じです。右上の□マークは大御堂橋の交差点です)

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私はてっきり、この供養塔2が移設されたのかと思っていたのですが、四十数年前に土地の所有者が代って、元々の供養塔がなくなってしまったそうで、現在の供養塔は新しく作られたということになります。無常としか言いようがありません。この地は住宅が建て並んでいますので義朝の廟堂の痕跡はこの地の下に眠っているのでしょう。

およそ150年後鎌倉幕府は滅びますが、その最後の拠点で滅亡の地となった東勝寺(3)が小山を挟んで数十メートルしか離れていません。鎌倉の街作りの最初の寺院となった勝長寿院と隣り合わせというものに、歴史のいたずらを感じます。

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