カテゴリー「城」の60件の記事

旧江戸城 平川門・不浄門について

HN 平川門さんから、コメントをいただきました。誠にありがとうございます。
資料も限られていて、私自身が目を通す資料もさらに限られておりますので、以下は、まったくの私見として述べさせていただきます事、ご了解をお願い致します。20211204a4

「田村家から浅野内匠頭の引き取りを桔梗門で待っていたいたところ急遽平川門に籠を回した記録がある」とのご指摘を興味深く拝見しました。
松之大廊下とその後の尋問の部屋の位置からすると、近い桔梗門で待つというのは理解できます。ご指摘の通りであれば、殿中を血で怪我した者を「不浄門から出す」という形式・令法に則ったものと理解できます。
『享保年間不浄門はなかった』という西ヶ谷説については、詳細がわかりませんので、評価は控えさせていただきます。
享保年間の絵図では平川門に船着き場があった。20211204a1
(皇居と江戸城重ね絵図=平成24年発行)この元資料がわかりませんが享保年間の絵図と軌を一にしてます。20211204a11
元禄の時にすでに船着き場があったのかは不明ですが、形式・令法に則って不浄門に廻すという措置をしたなら、船着き場から内匠頭を出したと私は想像したいです。短ければ対岸で籠に引き渡したのか?どこまで船で行ったのか?想像に想像を重ねることになり、その点はわかりません。城中の糞尿も同様に船着き場から出したのではと考えています。(ご存じのように城中の糞尿は下肥の最高級品)

元禄より前の正保絵図を見ると曲輪は竹橋門に入ることなく門外で接続しているように見えます。20211204a2
そのように意識すると、さらに前の寛永の絵図も「そうかな」と思えなくもないです。20211204a3
門の詳細を書くことを目的としてる図ではないので、正確性は求められませんが。

江戸城秘図は、見たときビックリが先に立ち、描かれた年代は確認していません。20211204a12
先入観で、帯曲輪の初期段階かと思ってしまいました。(今から見ればお粗末でした)

平川門さんと、私の疑問は、当時の人にとって「当たり前の事」で、記録するまでもまでもない事だったのかもしれません。
ご指摘の通り現在の山里門単独では不浄門とされる機能はないです。疑問が残ります。


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膳所(ぜぜ)城址

琵琶湖岸の城として、明智光秀が築いた坂本城が廃城となり、続いて豊臣秀吉の命で大津城が築かれました。関ヶ原後、石田三成が家康と対面し城門にさらされました。三成の無念の気持ちを思うと、何とも言えない気持ちになります。そしてこの城も廃城となり。家康の命で膳所城が築かれました。(三城とも大津市にあります)
膳所城も明治維新後廃城となり、現在は本丸跡がかろうじて公園として残るという状態になっています。

かつての膳所城20211119a3
膳所城資料館で展示されていた模型です。

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琵琶湖の水位が下がって、かつての石垣の一部が見られました。

比叡山にあった石地蔵(本丸跡)20211119a2
(説明版によれば)比叡山を焼き討ちした織田信長の命によって、比叡山の山中にあった地蔵が坂本城の石垣として使われました。墓石や石仏が城の石垣に使われることは珍しくはありませんが、信長の執念が、感じられます。坂本城が廃城になると大津城の石垣に使われ、さらに大津城の廃城にともなって膳所城の石垣に使われていました。地元の方が熱心にお参りしていました。石仏に負わされた歴史を感じました。(11月6日訪問)

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駿府城

エコパのラグビーワールドカップの試合の後に
5日に静岡市内の史跡をめぐりました。
駿府城では、天守台の発掘が行われていました。
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天守台の大きさにびっくりしました。江戸城より大きい!
家康が建てた天守閣の前に秀吉時代の天守台の跡も発掘されています
9日のNHKの「歴史ヒストリア」で、この間の事情が紹介されました。
秀吉時代の天守台
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金箔瓦の大量出土地
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見学センターで展示されていた金箔瓦
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江戸城を上回る大きさの天守台にびっくりした時、
思い浮かんだのは、秀吉の時代との比較ではなく
江戸城との比較です。
家康の立てた江戸城天守閣は、
秀忠、家光と、建て替えられました。
大きな駿府城の天守閣に、将軍の城の天守閣が見劣りするのは
将軍として受け入れられるものではなく、
大御所存命中は、できなかったが、・・・・・・。
ではなかろうかと、想像を巡らせました。

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高天神城

(武田と徳川が争奪戦を繰り返しました。

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信玄が落とせなかった城とはどんなものか?関心がありました。

落城の際死者を埋葬した地からスタート

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高天神城の城名の由来になった社(旧社)

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本丸

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井戸

 

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 籠城を左右します

遠州灘が望めます

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横堀 堀切 空堀 

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家康が落城させてすぐ廃城にしたことで遺構が良く残ってます

 

 

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江戸城石垣の採石場(熱海市下多賀)

江戸城の石垣は伊豆半島から運ばれました。その採石場の一つ熱海市下多賀を訪れました。(5月30日)
ここは、いわば江戸城の故郷になります。
数百メートル車で登って行きました。

今、目の前にある岩は、江戸城に運ばれることのなかった「残念石」になります。


『羽柴右近』(森忠政=森蘭丸の弟)の銘があります。



ノミで表面加工した「すだれ仕上げ」
今までお城へ運んで積み上げる前に工事現場での作業と思っていました。採石場での作業と知ったのは収穫です。


この石は、ここで欠けてしまったので、お江戸に行くことはなかったのでしょう。

有馬家の採石場であることを示す岩

「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年七月廿一日」と刻まれています。

「慶長十九年」の刻印石 徒歩でかなり上がって行ったところにあります。

(写真)青字で補った左側に刻まれています。
刻印石がゴロゴロしています。

江戸までは船で運ばれました。

嵐で一度に200艘が沈んだ記録があるそうです。落胆ぶりがわかります。

ここへ来て、江戸城の石垣の石を切り出し、運ぶことが危険で過酷な労働である事を強く感じました。

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石垣山一夜城(小田原)

秀吉が天下統一の仕上げとなった小田原攻めで築いた石垣山一夜城を訪れました。
名前は「一夜城」と伝えられますが、4万人をついやして築いた城です。




井戸曲輪です。淀殿が化粧で使った井戸との伝承ですが、千利休が点てた茶の水もこの井戸でしょう。



今も水が湧いています。

家康が関東に国替えを命じられ、伊達政宗が死装束で参陣したのもこの地です。


秀吉にとって眼下に北条方の小田原城を見、海上を含めて包囲した。

まさに高みの見物を決め込んだ得意の顔が想像されます。かたや「小田原評定」でした。
写真の星印が小田原城天守閣です。

小田原城の向こう側は『北米プレート』家康などが陣を張りました。
ここの城は『フィリピンプレート』・・・・地球規模です。

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鉢形城跡

埼玉県の寄居町に行って来ました。鉢形城歴史博物館でマンホールカード が配られています。


こじんまりした博物館ですが展示はよくまとまっています。


ただ、「撮影禁止」には違和感を感じました。禁止にする理由がわかりません。

現地に行くまで、山城かと思っていましたが、全く違っていました。

荒川を利用した堅固な城です。

土塁も立派です。


秀吉軍に、八王子城先立って攻められました。

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津久井城址

神奈川県愛川町にマンホールカード をもらいに行きました。孫も連れて行ったので、孫にもサービスしなければいけないので選んだ先が「県立津久井湖城山公園」です。
北条氏が築いた山城です。秀吉の小田原攻めに際し落城しました。



出土品の展示もあります。



城跡に子供が遊べる大型遊具が設置されています。


史跡保存からは「いかがかな?」と思わぬでもありませんが、これも一つの方向なのかも知れません。

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江戸城始図を拝見

今月6日に江戸城の図面に関する展覧会を2展見に行ってきました。
1つは、都立中央図書館での「幕末の大奥と明治の皇城」展です。


展示の第1章が江戸と江戸城です。慶長江戸図の実物が展示されていました。
そして「今江戸図」も展示されていました。
今回の私のテーマである『江戸城の帯曲輪はいつできたのか?』のヒントがありました。
最初期の慶長にはまだありません。「今江戸図」には載っていますので、寛文(1650年ごろ)にはできたようです。このことがわかって嬉しかった。
「幕末の大奥」の展示も権力の移行が見えて良かった。



2つ目は、日比谷図書館文化館の「松江城と江戸城」展です。




江戸城始図の現物を見ました。
テレビニュースで知っていましたが生で見ると言うのはまた別格です。
お土産にクリアファイルを買いました。


そして図録

勉強になりました。

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皇居(江戸城)平川門と不浄門の新資料

 江戸東京博物館で開かれている企画展『徳川将軍家へようこそ』で、びっくりする資料に遭遇しました。“江戸城秘図”です。「平川門」の部分に目が釘付けになりました。

この地図にふれる前にこのブログで取り上げてきたことをまとめてみます。

 

城内に向かって平川門(渡櫓)の右隣にもう一つ門(帯曲輪門)があります。このような形態の門は、江戸城では、ここをおいて他にありません。この門は、死体や糞尿、罪人を城外にだした不浄門と言われています。舟で運び出されたとされています。

 

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ところが、ここからは(通路のようになっている)帯曲輪を通って竹橋門に出ます。不浄門から舟で運び出すことは不可能です。

 

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江戸時代は260年以上続きましたので、江戸城も改変が行われています。

享保年間の江戸城図には船着き場のような記載があります

 

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詳細はわかりませんが、不浄門の機能を果たす有力な資料です。

初期にはそもそも帯曲輪はありませんでした。
(江戸城始図)

 

170823a11_2(寛永江戸図)

 

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ところがびっくり、
企画展『徳川将軍家へようこそ』で展示された“江戸城秘図”では、帯曲輪は竹橋門までつながっていません。

 

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不浄門として合理的な構造になっています。実に明確な図です。今まで目にしたことがない図ですし、出所も徳川記念財団ですから確かです。私が驚いた理由です。

ただ、この展示では、図を19世紀としてますし、更なる情報が欲しいところではあります。

現状の平川門、不浄門からみて、不浄門について疑問を持ったことがありましたが、帯曲輪門を不浄門とすることは合理的と思います。

 

 

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