カテゴリー「城」の65件の記事

二条城本丸御殿 奈良京都旅行202410/11

二条城には高校の修学旅行以来でした
当時は本丸は公開されていませんでした

本丸御殿特別公開を機に行ってきました
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お薦め参観コース(青線)では物足りないので
本丸も一周できるコース(赤線)に足を延ばしました
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本丸の櫓門 ちょっと変わった格好をしています
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横手(桃山門)から見た櫓門
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桃山門
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天守台
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高さはそれほど感じないのですが、眺めは良くて、行幸した天皇も感動したと思われます
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本丸御殿越しに比叡山
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西橋(裏門)
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奥に見える蔵も江戸初期です

西南蔵
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本丸御殿 玄関
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本来の御殿は焼失し、(最高級の)お公家さんの家を江戸末期に移築してきました
二の丸御殿とは雰囲気が違います
ガイドについて部屋を回りました
内部は撮影禁止となっています

グルーっと回ってみると、
二条城は、結構大きいと感じました。

 

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高松城

讃岐の旅の最後に高松城を訪れました(4月12日)
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天守台から見た橋です
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廊下橋になっています
琴平に続いて4日間で2本の廊下橋を見ました

城は海に面していて場内から海へ直接出れました
当時の海へ出る門は、現在は埋め立てられています
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代わって現在の海へ通じている所です
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瀬戸内海の島々が見えます

濠の水は海水ですので
泳いでいる魚も海の魚です
餌をあげて遊びました
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生駒氏が丸亀からこの地に移ってきて築城しました
旧大手口には「丸亀町」の町名が残っています

生駒氏はお家騒動で転封となり、
水戸徳川家が入って来ました
(江戸時代は良かったのでしょう)
そのため明治維新では、幕府側について戦い敗れました
明治になって、徳島県や愛媛県の一部となるなど
現在の香川県として独立したのは明治20年で
県としては全国最後の発足となりました

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安土城発掘調査報告会

今日は、安土城跡発掘調査成果報告会を聴講に行ってきました
会場はオリンピック記念青少年総合センターです。
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会場は満員でした。

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昨年、安土城跡へ行ったときに発掘調査をしていた場所の
発掘報告の発表でしたので、
現地をわかっていましたので、説明がよくわかりました

発掘調査報告の次に
「本能寺の変以後の安土城と織田家」の講演もありました。
清須会議以後の織田家の知らなかった経緯が出てきて
新たな知見を得ました。

オリンピック記念青少年センターは
オリンピックのボランティアの説明会があった時以来で
同じホールでしたので、その時のことを思い出しました。

ホールから見た新宿
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この眺めが好きです。

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近江旅行

朝、自宅を出た時は雨が降っていました。当地は昼頃雨はあがるという予報でしたので、「こだま」に乗って途中後続列車に16本抜かれましたが、計算通り、彦根に着いた時は、ちょうど雨が上がっていました。

念願の石田三成の佐和山城に登りました。

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付録で井伊直弼の埋木舎に寄りました。

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天空の城 備中松山城

12月8日の熊本へのフライトで
中国地方に差し掛かってきたら、盆地に霧が溜まっている所がいくつも見えてきました

その一つ、天空の城として知られる備中松山城がある高梁市らしき
霧の塊が見えてきました
季節的には一番よく見える時期です

天空の城
(展望台から見た写真)
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天空の城を天空から見るとこうなります
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〇がお城で、△が展望台です

上空通過時間が12月8日9:45です。
雲海は少し小さくなっているようです

上空から見ると盆地状の地形に雲海ができることがよくわかります

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旧江戸城 平川門・不浄門について

HN 平川門さんから、コメントをいただきました。誠にありがとうございます。
資料も限られていて、私自身が目を通す資料もさらに限られておりますので、以下は、まったくの私見として述べさせていただきます事、ご了解をお願い致します。20211204a4

「田村家から浅野内匠頭の引き取りを桔梗門で待っていたいたところ急遽平川門に籠を回した記録がある」とのご指摘を興味深く拝見しました。
松之大廊下とその後の尋問の部屋の位置からすると、近い桔梗門で待つというのは理解できます。ご指摘の通りであれば、殿中を血で怪我した者を「不浄門から出す」という形式・令法に則ったものと理解できます。
『享保年間不浄門はなかった』という西ヶ谷説については、詳細がわかりませんので、評価は控えさせていただきます。
享保年間の絵図では平川門に船着き場があった。20211204a1
(皇居と江戸城重ね絵図=平成24年発行)この元資料がわかりませんが享保年間の絵図と軌を一にしてます。20211204a11
元禄の時にすでに船着き場があったのかは不明ですが、形式・令法に則って不浄門に廻すという措置をしたなら、船着き場から内匠頭を出したと私は想像したいです。短ければ対岸で籠に引き渡したのか?どこまで船で行ったのか?想像に想像を重ねることになり、その点はわかりません。城中の糞尿も同様に船着き場から出したのではと考えています。(ご存じのように城中の糞尿は下肥の最高級品)

元禄より前の正保絵図を見ると曲輪は竹橋門に入ることなく門外で接続しているように見えます。20211204a2
そのように意識すると、さらに前の寛永の絵図も「そうかな」と思えなくもないです。20211204a3
門の詳細を書くことを目的としてる図ではないので、正確性は求められませんが。

江戸城秘図は、見たときビックリが先に立ち、描かれた年代は確認していません。20211204a12
先入観で、帯曲輪の初期段階かと思ってしまいました。(今から見ればお粗末でした)

平川門さんと、私の疑問は、当時の人にとって「当たり前の事」で、記録するまでもまでもない事だったのかもしれません。
ご指摘の通り現在の山里門単独では不浄門とされる機能はないです。疑問が残ります。


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膳所(ぜぜ)城址

琵琶湖岸の城として、明智光秀が築いた坂本城が廃城となり、続いて豊臣秀吉の命で大津城が築かれました。関ヶ原後、石田三成が家康と対面し城門にさらされました。三成の無念の気持ちを思うと、何とも言えない気持ちになります。そしてこの城も廃城となり。家康の命で膳所城が築かれました。(三城とも大津市にあります)
膳所城も明治維新後廃城となり、現在は本丸跡がかろうじて公園として残るという状態になっています。

かつての膳所城20211119a3
膳所城資料館で展示されていた模型です。

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琵琶湖の水位が下がって、かつての石垣の一部が見られました。

比叡山にあった石地蔵(本丸跡)20211119a2
(説明版によれば)比叡山を焼き討ちした織田信長の命によって、比叡山の山中にあった地蔵が坂本城の石垣として使われました。墓石や石仏が城の石垣に使われることは珍しくはありませんが、信長の執念が、感じられます。坂本城が廃城になると大津城の石垣に使われ、さらに大津城の廃城にともなって膳所城の石垣に使われていました。地元の方が熱心にお参りしていました。石仏に負わされた歴史を感じました。(11月6日訪問)

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駿府城

エコパのラグビーワールドカップの試合の後に
5日に静岡市内の史跡をめぐりました。
駿府城では、天守台の発掘が行われていました。
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天守台の大きさにびっくりしました。江戸城より大きい!
家康が建てた天守閣の前に秀吉時代の天守台の跡も発掘されています
9日のNHKの「歴史ヒストリア」で、この間の事情が紹介されました。
秀吉時代の天守台
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金箔瓦の大量出土地
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見学センターで展示されていた金箔瓦
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江戸城を上回る大きさの天守台にびっくりした時、
思い浮かんだのは、秀吉の時代との比較ではなく
江戸城との比較です。
家康の立てた江戸城天守閣は、
秀忠、家光と、建て替えられました。
大きな駿府城の天守閣に、将軍の城の天守閣が見劣りするのは
将軍として受け入れられるものではなく、
大御所存命中は、できなかったが、・・・・・・。
ではなかろうかと、想像を巡らせました。

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高天神城

(武田と徳川が争奪戦を繰り返しました。

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信玄が落とせなかった城とはどんなものか?関心がありました。

落城の際死者を埋葬した地からスタート

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高天神城の城名の由来になった社(旧社)

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本丸

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井戸

 

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 籠城を左右します

遠州灘が望めます

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横堀 堀切 空堀 

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家康が落城させてすぐ廃城にしたことで遺構が良く残ってます

 

 

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江戸城石垣の採石場(熱海市下多賀)

江戸城の石垣は伊豆半島から運ばれました。その採石場の一つ熱海市下多賀を訪れました。(5月30日)
ここは、いわば江戸城の故郷になります。
数百メートル車で登って行きました。

今、目の前にある岩は、江戸城に運ばれることのなかった「残念石」になります。


『羽柴右近』(森忠政=森蘭丸の弟)の銘があります。



ノミで表面加工した「すだれ仕上げ」
今までお城へ運んで積み上げる前に工事現場での作業と思っていました。採石場での作業と知ったのは収穫です。


この石は、ここで欠けてしまったので、お江戸に行くことはなかったのでしょう。

有馬家の採石場であることを示す岩

「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年七月廿一日」と刻まれています。

「慶長十九年」の刻印石 徒歩でかなり上がって行ったところにあります。

(写真)青字で補った左側に刻まれています。
刻印石がゴロゴロしています。

江戸までは船で運ばれました。

嵐で一度に200艘が沈んだ記録があるそうです。落胆ぶりがわかります。

ここへ来て、江戸城の石垣の石を切り出し、運ぶことが危険で過酷な労働である事を強く感じました。

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