カテゴリー「城」の68件の記事

敦賀市の史蹟(北陸旅行)

敦賀市は古代より交通の要衝です。鉄道遺産などは時間の関係で見て回れませんでしたが、戦国時代と幕末の史蹟をめぐりました。

戦国時代
敦賀市もパンフレットを用意してありました
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金ヶ崎城跡
新田義貞が足利方と戦った南北朝のお城ですが、有名なのは織田信長が朝倉、浅井氏によって挟み撃ちに会い、這う這うの体で逃げ帰ったときのお城でもあります。秀吉がしんがりを務めたことで、有名です。
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空堀と思ったのは
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南北朝時代の木戸跡でした
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織田信長の時の倉庫があった場所
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その時の焼けた米が出土しています

敦賀城跡
金ヶ崎城に代わって大谷吉継が築いた城です。
徳川家康の上杉攻めに参陣するためにこの城を発ちましたが、途中石田三成に家康打倒計画を打ち明けられて、「無理」と説得しようとしたのですが、翻意かなわず関が原で散りました。一番好きな戦国武将です。
吉継が出陣して帰ることのなかった城と思うと感慨深いものがありました。
ただ、遺構はほとんど残っていません。
城跡に立つ真願寺
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石碑とわずかに城の礎石があるのみです
来迎時
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城にあった中門が移築されています。

吉継の書状が永建寺に残っているということですが、訪問できず残念です。




 

 

 

 

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一乗谷と丸岡城(北陸旅行)

一乗谷も丸岡城も4回目でした。(5月12日訪問)

越前一乗谷
本当は行きたかったのは山城のほう
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しかし、案内役になり城下町巡りでした。
まず、一番奥の上木戸から
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復元街並みと館跡 変わりはありませんでした。
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最後に下木戸
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博物館が新たに大きくなっていたのですが休館日でした。

丸岡城
城下で宿をとったので、夕方から日の出をを経験し、城下町に住むことはこんな感じだったのかと疑似体験しました。
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現存天守ですので階段
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石垣が弧を描いて独特です

瓦ではなく石です
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神南備山がこの視野に入っているはずですが、翌日あわら市の郷土資料館で聞いたのですが、わかりませんでした。

 

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兼六園と金沢城(北陸旅行)

金沢は通り過ぎたことはあったのですが、下車したのは初めてです。

兼六園
兼六園で私が思い浮かべるのが、小学校の時の前田先生です。加賀前田家の一族の末裔で、理科の担当でした。
「兼六園の噴水はサイフォンの原理を応用して、高い土地にもかかわらず水が噴き出しています。江戸時代にすでにあった技術です」と自慢していたことが印象に残っています。それからずいぶんと時が流れました。ようやく対面しました。感慨深いものがありました。
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日本三名園のうち、この兼六園が一番と、いうのがわたしの感想です。


金沢城
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さすがは百万石です。江戸城と違って江戸時代の建造物が残っていたり、復元されているので、お城の威容がわかりやすいです。

石川門の枡形で石の積み方の違いがよくわかります。
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その境目に「禁煙」の立て札が立っていたのは、いただけません。

城内の所々で気づいたのですが、「刻印石」が多いのに気づきました。
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なぜなのでしょう?

金沢は外国人観光客でごったがえしていました。


訪問日 5月15日

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二条城本丸御殿 奈良京都旅行202410/11

二条城には高校の修学旅行以来でした
当時は本丸は公開されていませんでした

本丸御殿特別公開を機に行ってきました
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お薦め参観コース(青線)では物足りないので
本丸も一周できるコース(赤線)に足を延ばしました
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本丸の櫓門 ちょっと変わった格好をしています
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横手(桃山門)から見た櫓門
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桃山門
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天守台
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高さはそれほど感じないのですが、眺めは良くて、行幸した天皇も感動したと思われます
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本丸御殿越しに比叡山
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西橋(裏門)
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奥に見える蔵も江戸初期です

西南蔵
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本丸御殿 玄関
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本来の御殿は焼失し、(最高級の)お公家さんの家を江戸末期に移築してきました
二の丸御殿とは雰囲気が違います
ガイドについて部屋を回りました
内部は撮影禁止となっています

グルーっと回ってみると、
二条城は、結構大きいと感じました。

 

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高松城

讃岐の旅の最後に高松城を訪れました(4月12日)
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天守台から見た橋です
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廊下橋になっています
琴平に続いて4日間で2本の廊下橋を見ました

城は海に面していて場内から海へ直接出れました
当時の海へ出る門は、現在は埋め立てられています
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代わって現在の海へ通じている所です
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瀬戸内海の島々が見えます

濠の水は海水ですので
泳いでいる魚も海の魚です
餌をあげて遊びました
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生駒氏が丸亀からこの地に移ってきて築城しました
旧大手口には「丸亀町」の町名が残っています

生駒氏はお家騒動で転封となり、
水戸徳川家が入って来ました
(江戸時代は良かったのでしょう)
そのため明治維新では、幕府側について戦い敗れました
明治になって、徳島県や愛媛県の一部となるなど
現在の香川県として独立したのは明治20年で
県としては全国最後の発足となりました

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安土城発掘調査報告会

今日は、安土城跡発掘調査成果報告会を聴講に行ってきました
会場はオリンピック記念青少年総合センターです。
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会場は満員でした。

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昨年、安土城跡へ行ったときに発掘調査をしていた場所の
発掘報告の発表でしたので、
現地をわかっていましたので、説明がよくわかりました

発掘調査報告の次に
「本能寺の変以後の安土城と織田家」の講演もありました。
清須会議以後の織田家の知らなかった経緯が出てきて
新たな知見を得ました。

オリンピック記念青少年センターは
オリンピックのボランティアの説明会があった時以来で
同じホールでしたので、その時のことを思い出しました。

ホールから見た新宿
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この眺めが好きです。

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近江旅行

朝、自宅を出た時は雨が降っていました。当地は昼頃雨はあがるという予報でしたので、「こだま」に乗って途中後続列車に16本抜かれましたが、計算通り、彦根に着いた時は、ちょうど雨が上がっていました。

念願の石田三成の佐和山城に登りました。

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付録で井伊直弼の埋木舎に寄りました。

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天空の城 備中松山城

12月8日の熊本へのフライトで
中国地方に差し掛かってきたら、盆地に霧が溜まっている所がいくつも見えてきました

その一つ、天空の城として知られる備中松山城がある高梁市らしき
霧の塊が見えてきました
季節的には一番よく見える時期です

天空の城
(展望台から見た写真)
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天空の城を天空から見るとこうなります
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〇がお城で、△が展望台です

上空通過時間が12月8日9:45です。
雲海は少し小さくなっているようです

上空から見ると盆地状の地形に雲海ができることがよくわかります

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旧江戸城 平川門・不浄門について

HN 平川門さんから、コメントをいただきました。誠にありがとうございます。
資料も限られていて、私自身が目を通す資料もさらに限られておりますので、以下は、まったくの私見として述べさせていただきます事、ご了解をお願い致します。20211204a4

「田村家から浅野内匠頭の引き取りを桔梗門で待っていたいたところ急遽平川門に籠を回した記録がある」とのご指摘を興味深く拝見しました。
松之大廊下とその後の尋問の部屋の位置からすると、近い桔梗門で待つというのは理解できます。ご指摘の通りであれば、殿中を血で怪我した者を「不浄門から出す」という形式・令法に則ったものと理解できます。
『享保年間不浄門はなかった』という西ヶ谷説については、詳細がわかりませんので、評価は控えさせていただきます。
享保年間の絵図では平川門に船着き場があった。20211204a1
(皇居と江戸城重ね絵図=平成24年発行)この元資料がわかりませんが享保年間の絵図と軌を一にしてます。20211204a11
元禄の時にすでに船着き場があったのかは不明ですが、形式・令法に則って不浄門に廻すという措置をしたなら、船着き場から内匠頭を出したと私は想像したいです。短ければ対岸で籠に引き渡したのか?どこまで船で行ったのか?想像に想像を重ねることになり、その点はわかりません。城中の糞尿も同様に船着き場から出したのではと考えています。(ご存じのように城中の糞尿は下肥の最高級品)

元禄より前の正保絵図を見ると曲輪は竹橋門に入ることなく門外で接続しているように見えます。20211204a2
そのように意識すると、さらに前の寛永の絵図も「そうかな」と思えなくもないです。20211204a3
門の詳細を書くことを目的としてる図ではないので、正確性は求められませんが。

江戸城秘図は、見たときビックリが先に立ち、描かれた年代は確認していません。20211204a12
先入観で、帯曲輪の初期段階かと思ってしまいました。(今から見ればお粗末でした)

平川門さんと、私の疑問は、当時の人にとって「当たり前の事」で、記録するまでもまでもない事だったのかもしれません。
ご指摘の通り現在の山里門単独では不浄門とされる機能はないです。疑問が残ります。


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膳所(ぜぜ)城址

琵琶湖岸の城として、明智光秀が築いた坂本城が廃城となり、続いて豊臣秀吉の命で大津城が築かれました。関ヶ原後、石田三成が家康と対面し城門にさらされました。三成の無念の気持ちを思うと、何とも言えない気持ちになります。そしてこの城も廃城となり。家康の命で膳所城が築かれました。(三城とも大津市にあります)
膳所城も明治維新後廃城となり、現在は本丸跡がかろうじて公園として残るという状態になっています。

かつての膳所城20211119a3
膳所城資料館で展示されていた模型です。

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琵琶湖の水位が下がって、かつての石垣の一部が見られました。

比叡山にあった石地蔵(本丸跡)20211119a2
(説明版によれば)比叡山を焼き討ちした織田信長の命によって、比叡山の山中にあった地蔵が坂本城の石垣として使われました。墓石や石仏が城の石垣に使われることは珍しくはありませんが、信長の執念が、感じられます。坂本城が廃城になると大津城の石垣に使われ、さらに大津城の廃城にともなって膳所城の石垣に使われていました。地元の方が熱心にお参りしていました。石仏に負わされた歴史を感じました。(11月6日訪問)

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