吉野ケ里遺跡の石棺墓でわかったこと
私は吉野ケ里遺跡には行ったことはありません
が、邪馬台国との関連で注目はしていました
石棺の発掘では、佐賀県とマスコミが
邪馬台国ではとあおっていました
あの程度の石棺が邪馬台国の首長墓であるとは到底思われませんでした
この度、この遺跡の「有力者」との見方が披露されました
石棺の規模と石棺内の赤い部分が、高級品の水銀朱はわずかで
多くはベンガラであったことがその判断の根拠であったと思われます
逆に言えば有力者の上位の「首長墓」クラスは、まだ発見されていないということになります
魏志倭人伝に記載された国で遺跡がぴったり一致するのが
一支国と書かれた壱岐の島の原の辻遺跡です
一支国は、方300里、三千の家があるとされています
原の辻遺跡に行ったのは遺跡の広がりとこの記述を参考に
魏志倭人伝に書かれた国を比較することができます。
あらためて吉野ケ里遺跡に行ってどのくらいも大きさ(戸数)なのか?
実感したいと思いました。
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