2023年6月
山陰の旅 4日目
旅行3日目までで古代出雲のパワーのすごさを感じていましたが、
今日、東出雲を訪れて、さらにその間を強くしました。
そして一旦出雲を出て伯耆の皆生温泉に逗留しました。
指定された古墳・史蹟をめぐるとカードがもらえるというので、
ちょうど見たいと思っていた所でしたので10か所コンプリートしました。
もっと見たいところがあったのですが、時間が足りません。
後ろ髪をひかれるように今日を終えました」。・
岩屋寺跡横穴古墳→八雲立つ風土記の丘展示館→岡田山1号墳→岩屋後古墳→御碕山古墳→出雲国府跡→古天神古墳→出雲国分寺跡山→十字街(ちまた)→山代郷南新造院跡→山代郷正倉跡→山代郷北新造院跡→山代二子塚古墳→同ガイダンス館
崇峻天皇真陵、室宮山古墳 奈良旅行202306
今回の旅行では、2度目3度目の訪問になった史蹟等の方が
圧倒的に多かったのですが、
この二つの古墳も2度目3度目でした。
雨で条件が良くありませんでした。
真の崇峻天皇陵である赤坂天王山古墳
(宮内庁の崇峻天皇陵は明治9年に作ったものです)
土砂が崩れて石室入り口が小さくなった感じです。
他のほとんどの古墳と同じく盗掘にあっています
石棺内部
意味不明なひっかき傷がたくさんあります
明治の当時の宮内省が指定しなかった理由だと思います。
それにしてもここまでいたずらするのか!
室宮山古墳
葛城襲津彦の墓に比定されています。
竪穴式ですので、石棺の迫力が写真では伝えられないのが残念です
石棺内部
内部はきれいです。
優しい曲線の加工が施されています
前回同様、蚊に悩まされました。
天理大学付属参考館博物館にもよりましたが、
東大寺山古墳の展示が亡くなっていて、
迫力がなく、がっかりでした
前回は特別展示だったのかなあ?
夏見廃寺(昌福寺)三重県名張市 奈良旅行202306
足を延ばしてちょっとだけ県境を越えました
初代斎王の大来皇女が建立した昌福寺の跡と推定されています
大来皇女は悲劇の大津皇子の姉です
この地を訪れた理由がここにあります
展示館があります
金堂内部の復元
仏像はなく、塼仏(せんぶつ)がその代わりとなっています
京都大学総合博物館に出土品が展示されています
(展示館は撮影禁止となっています)
寺跡
展示館の方に案内してもらいました
金堂の階段
河原石で作られています
塔跡
本来からある礎石は6個です
心礎
心柱の礎石の心礎は、本来のものです
心礎さえ本来のものであれば良しです
夏見廃寺の帰りに
脇本遺跡に寄りました
脇本遺跡は雄略天皇の宮跡ですが
天武朝の建物跡も発見されました
この建物が斎王の大来皇女に関する建物です
現在は埋め戻されています
この地から畝傍山が見えます
大来皇女が見た景色がそこにあります
iPad教室 日野 20230621
午前コース
まず、ブルートウーススピーカーの接続
写真のモザイク・ボカシを勉強し
iMOVIEを写真だけで作りました。
次回もiMOVIEをします
午後コース
バージョンアップの不具合を検証しました。
マイナンバーポータルサイトのダウンロードが済んでいませんでしたので
試みたのですが、カードを持参していなかったので、次回に持ち越しました。
欠席者が多くて、ちょっとさびしい日になりました。
毛原廃寺跡
三重県境に近い山中にある廃寺跡です。
ともかく山の中です。
天平年間初頭の創建と見られ、
「文献に名前を残していない幻の大寺」ということのようです。
藤原京から伊勢への街道が
都が藤原京から平城京に遷都後に伊勢道のバイパスに建てられた寺と見る可能性が強いです。
赤丸が毛原廃寺跡
唐招提寺に匹敵する可能性がある寺が幻というのはいかがなものでしょう
文献に名を残す「竹渓山寺」と指摘する説があります。
木簡等で直接の出土品はありませんが可能性は高いと思います
金堂跡
こんなにおおきな礎石を残している寺が、
幻の寺というのは、やはり実感としてあり得ないです
食堂?かといわれています
この礎石昭和初期に運び出されていました。
昭和49年に返還されました。
もとの位置が判明しないのでまとめて置かれています。
国の指定となる前に、発見された瓦をご近所の方に見せてもらいました
さらに持ってみました。
普通は博物館で眺めるだけですので、貴重な経験です。
あらためて「重い!」と感じました。
柱を頑丈に作らないと持たないな。と実感しました。
(訪問日6月13日)
阿蘇ピンク石製石棺 奈良旅行202306
阿蘇ピンク石で作られた石棺を見ることが
今回の旅行のテーマの一つでした。
兜塚古墳(奈良県桜井市)
墳丘は失われていて石棺が露出しています
石棺蓋の内部はドーム状に刳り貫かれています
石棺には水が溜まっています。
金屋の石仏(奈良県桜井市)
組合せ式石棺の板石に刻まれた仏像が金谷の石仏です。
このお堂の床下に石棺の蓋が2面置いてあります。
ミロク谷石棺と呼ばれています
そのうちの1面が阿蘇ピンク石で作られています
ピンク石の特徴的な色が鮮やかです
縄かけ突起が見れます
石棺には転用しようとした加工痕が残っています。
(6月12日訪問)
四天王寺(大阪市)
境内にある『熊野権現礼拝石』
と、なっていますが石棺の蓋です
近づいてみるとピンク色がところどころ露出しています
どこの古墳かは不明です。
四天王寺を開く前にこの地にあった古墳であった可能性もあります
(6月15日訪問)
遠い阿蘇から運んでいますので、かなり高位の人の棺ですが
手がかりは残っていません。
薬師寺東塔・西塔 特別公開 奈良旅行202306
薬師寺には4か月前に訪れています。
その時は、修理が最終段階でした。
そして今回(6月15日)は修理が終了し特別公開でした。
朝一番ということもあって、すいていました。
東塔
ちょっとびっくっり
いきなり迎えてくれた彫像
釈迦の生涯の大きな彫像が4面が据えられていました
塔の初層として、本来の型なのでしょうが、
解体修理前の特別公開の時も訪れて
心柱を見ていましたので、
今回は心柱も四天柱も見えません。
私の関心とするところからするとちょっと残念です。
西塔は近代の再建ですので、同じ様式ですが受け入れられましたが、
大津皇子の鎮魂のための竜王社を訪れました。
前回、やはり大津皇子を鎮魂する若宮社を訪れながら
竜王社は、訪れそこなっていました。
竜王社の前から撮った写真
龍王社は回廊の外側にあります。(若宮社も同様です)
玄奘三蔵院の平山郁夫筆の壁画も公開されていました
想像より大きくて、迫力がありました。
祈りの島 壱岐
壱岐らしい風景
鳥居の先に海が見え、さらに対馬も見えています
棚田の一番上にため池があり、水神様を祀っています
月読神社
全国の月読神社の発祥の神社です
男嶽神社 ご神体
大正までは社殿がなかったそうです
自然崇拝の原点がここにあります
パワースポットなどと喧伝することには、関心はありません。
壱岐は、古代の自然崇拝を源流とする。古社の目安の式内社が24社もあります)、そして苦難の歴史もあり、神社の多い島です。
国分寺跡
当社、国分寺とは認められずに嶋分寺とされていたそうです。
リスが多くいました
あんまりかわいらしくないと思っていたら
リス園が廃園となって、そこにいた台湾リスが野生化したそうです
リスによる害が、問題となっているそうです。
太閤石垣と俳人曽良の墓
国境の島といえば対馬を一番に思い浮かべますが
壱岐にも国境の島としての歴史を感じさせられる遺跡があります。
勝本城
秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、
壱岐における兵站基地として築城されました。
朝鮮撤兵後に建物は破却されました。
石垣が太閤垣として残っています
虎口の遺構も良く残っています
壱岐の島の北で、海がよく見えます
壱岐には城跡が数多くありますが、私が訪れた城跡はここだけでした。
城跡に芭蕉の弟子の河会曽良の句碑があり、
お墓もあります。
墓石は上部が切られたようになっています
なぜここに墓があるのか?
幕府の巡見使の随行でこの地に来て当地で亡くなりました。
海を見下ろす良い土地に眠っています。
旅行前に調べてきますが、曽良の墓は、全くノーマークで、
私にとってはサプライズでした。
壱岐の古墳・線刻画
壱岐の古墳の魅力の一つに
『線刻画』があります。
図中の青丸が巨石の壱岐古墳群です
双六、兵瀬古墳など線刻画がります。
(双六古墳の線刻画はかなり鮮明です)
この島のトップクラスの古墳です。
対して、大米子古墳や、鬼の窟古墳は海岸近くに立地し、
地区の有力者との位置づけが明確です。
旅館(四角印)から自転車で島を横断して行きました。
大米古墳(5月24日訪問)
石室には大きな岩が使われています
このような線刻画です
(復元図)の表記に嫌な感じがしたのですが、
やはりわかりませんでした。残念です。
鬼の窟古墳(5月25日訪問)
こちらも封土が失われています
このような線刻画です
復元図の表記でしたが、
大部分が、見て取れました
接写です
これほど明確であることに感動しました
大米古墳も鬼の窟古墳も複室の古墳であることが
壱岐の古墳としての特徴を持っています。
原の辻遺跡(長崎県壱岐市)
「はるのつじ」と読みます。
邪馬台国を記述した「魏志倭人伝」に出てくる『国』で
全体像がわかる唯一の例です。
ただし、王墓が未発見です。
全景
微高地にあります。どの程度の微高地なのかを実感しました
物見やぐら
海から上がってくる川をいち早く見通せる位置にあることがわかりました。
地形的には、盆地状の真ん中にあります
地形模型でわかるように、川が右(東)に1本のみ流れています
湾から見た景色
手前の島の向こうに川口があります
この山並みに1か所だけ川が通っているというのは、地形の奇跡です。
山を抜けて盆地に入った川
赤丸内が遺跡です
川をさかのぼって船着き場があります
復元模型ですが、いかに重要な発見であったかがわかります
居住区と船着き場の位置関係
赤丸が船着き場です
重要な遺構です
現在は、埋め戻されて農地になっています
1本のポールが、その位置を示しています
写真の中央が遺跡です
伊都国や奴国などの遺跡を見ていますが、
家が三千余りあるとした地域の広さを実感できたことは、
あらためてこれらの国を見るときの参考になります。
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