束明神古墳(草壁皇子の墓)その1 奈良県高取町
以前に、近くのマルコ山古墳までは来ていたのですが、
「崩れた墳丘があるだけだ」と束明神古墳には来ませんでした。
多くの人と同様に大津皇子贔屓の私にとって草壁皇子の墓への関心は低いものでした。
その後、大津皇子の墓を訪れ、大津皇子の母の大田皇女の墓を訪れました
飛鳥の骨肉を争う愛憎劇を私の中で完結したいと思い9月14日に訪れました。
発掘調査の結果によれば、30mの八角墳です。
ここに復元された牽牛子塚古墳を重ね合わせれば容易に想像できます
実物大に復元した石槨が橿原考古学研究所博物館にあります
現地の石槨は二上山から運んだ500個の切り石を使っています
内部です
元々、地元には「草壁皇子の墓」という伝承がありました
幕末から明治にかけての陵墓調査の対象になった時に、
陵墓に指定されると立ち退きを迫られると恐れた地元の方が古墳を壊しました。
石槨の発掘時の写真です
壊された上部はありません。
陵墓調査で墳丘の上から鉄の棒を指して、石槨は無いと、
狙い通り指定を免れました
(その後、「罰当たりのことをした」と、地元民は反省したそうです)
博物館に復元されたものは、天井部分は推定復元になります。
持統天皇が、わが子草壁皇子の天皇即位の障害になると
大津皇子を死に追いやってから2年半後に草壁皇子は28歳で亡くなります。
天皇になっていないのに、天皇にのみ許された八角形に作られ、
それも斉明天皇をしのぐ30mの大きさです
母持統の気持ちが表れています。
父母/天武・持統の墓⇒野口王墓
大津皇子の墓屋⇒鳥谷口古墳
大津皇子の母/大田皇女の墓⇒越塚御門古墳
宮内庁から指定されている墓は野口王墓だけです
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