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寛永期の平川門

ツツミ様から情報が寄せられましたので、転載します。
岡山大学附属図書館所管の池田家文庫のデータベースで探し当てられた絵図への理解です。
絵図は転載禁止ですので以下のURLからご参照ください。
https://repo.lib.okayama-u.ac.jp/zoomify/T9-80.html

『寛永十二亥年二之御丸指図』では、平川門が内桝形である事以外にも、平川堀が、天神堀の方に向かって、現状より深く入り込んでいるように描かれるなど、現状との多少の相違点が見られます。これについては、大雑把に大体の形を描いたのだろうと考えていました。しかし、池田家の「二・三之御丸絵図」を見ると、その考えは大間違いであり、当時の状況が正確に写し取られたものであった事が判ります。

「二・三之御丸絵図」にも、「寛永十二年図」にあるのと同様の位置に平川堀端の線が茶色で引かれていますが、それだけでは無く、その外側の、現在の平川堀端と同じ位置にも浅黄色の線が引かれており、二色の線の間のスペースには、「埋申分(埋め申す分)」と書き込まれています。どうやら、寛永二十年までは「寛永十二年図」通りの堀端の姿があり、平川門から入城した際に我々が通る平川堀・天神堀間の通路辺りは、この埋め立てまで御堀上だったようなのです。「寛永十二年図」の平川堀端の描写が正確なものであったという事は、平川門桝形付近も、指図に示される通りの姿であった事を証明するものと言えるでしょう。
ただ、「二・三之御丸絵図」では、平川門桝形の構造に変化が見られます。「寛永十二年図」に描かれる平川門桝形は、内枡形形式と言っても、平川堀側には石垣が設けられていない変則的なものですが、「二・三之御丸絵図」では、平川堀側にも石垣が造られ(帯曲輪との出入口は、桝形の外へ)、四方が石垣で囲われた完全な内桝形形式の門となっています。しかも、高麗門を入った右側に当る、その新設の石垣が渡り櫓門となり、入って左側の、従来の渡り櫓門だった石垣には埋み門が有るのみ、といったように、かなり大掛かりな改築を必要とする変化です。最初期の平川門桝形では、高麗門を入った正面に渡り櫓門が在ったらしい事は、寛永図や有名な国立歴史民俗博物館の『江戸図屏風』から窺い知る事が出来、「寛永十二年図」にある渡り櫓門も、江戸絵図に同様の配置を見る事が出来ますが、「二・三之御丸絵図」に見られる配置で桝形が描かれた物は、他に例が無いのではないかと思います。

この図面では、寛永十二年当時には桝形と天神堀の間に在った「御鷹部屋」が撤去され、その跡地に、三ノ丸御殿敷地内外の境界線となる石垣か土塀のような物が、設けられるようになっています。その付近の天神堀端も、敷地拡張の為、平川堀端同様埋め立てるようになっており、三ノ丸御殿建造に関連する図面である事は間違いないようです。桝形の構造の変化についても、三ノ丸御殿との関連を考えれば、その理由が判ります。御殿が近接して建つ為に、従来の渡り櫓門は、その役割を果たせなくなり、天神堀側の石垣も、裏に境界線となる石垣が出来る為に渡り櫓門とする事は出来ません。平川堀側に渡り櫓門を新設する以外に選択の余地は無かった、という事でしょう。

 この図が岡山藩に伝えられてきた、という事から、寛永二十年に池田光政が行った「平川虎口石壁改築」は、図面にある桝形の構築であり、その後、『江戸京都絵図屏風』が描かれるよりも前の時点で、外桝形への改築が行われた、という事も考えられます。しかし、同じ内桝形への改築よりも大規模となる外桝形への改築にも関わらず、この時以後、明暦の大火までの間、平川門近辺に手が加えられたという記録はどこにも見当たりません。桝形の位置そのものは動かず規模が縮小されるだけなのに、鍬初めで「古升形」という表現が使われているのも不自然です。そこで考えられるのは、『江戸御城二・三之御丸絵図』が、三ノ丸御殿建造に当たって最初に立てられた当初案を示すものであり、将軍家光や幕閣に諮った結果、現在の外桝形形式に築き直す計画に変更された、という可能性です。

渡り櫓門を平川堀側にすれば、城郭の本来の役割である防御上の問題が生じます。従来の桝形の隅に在った帯曲輪との出入口を、桝形の外に置かざるを得なくなるからです。帯曲輪を破られた場合でも、桝形内に敵が入ってくる形であれば、そこで撃退するチャンスもありますが、図面通りだと、城内への侵入は格段に容易になります。せっかく藤堂高虎が編み出した縄張りも、御殿建造の為に水の泡です。そこで、桝形内に帯曲輪との出入口を設ける事が可能な形を模索した結果生まれたのが、現在の外枡形形式の平川門だったのではないかと思うのです。

先述のように、「二・三之御丸絵図」には、天神堀端にも、埋め立てが行われるようになっている箇所があります。現状を見ると、確かにその部分の埋め立ては行われていますが、埋め立て部分は、梅林坂下の方向へより広範囲に及んでいます。このように、必ずしもこの指図通りに普請が行われている訳ではありません。この図面が、当初案として描かれたもので、実施案ではなかった可能性は高いと言えそうです。

 『江戸御城二・三之御丸絵図』の登場で、現在の平川門桝形が築かれたのは寛永二十年である、と断定は出来なくなりましたが、少なくともこの時点まで平川門が内枡形であった事と、三ノ丸御殿の築造が外枡形への改築に関係している事は、はっきりしました。ひとまずこれで納得し、さらなる新史料の発見に期待したいと思います。

 



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