安徳天皇天皇陵
昨年末に宮内庁の大津皇子に関する図書を閲覧したのですが、
閲覧前に図書を検索しました。
前から知ってはいましたが、
宮内庁の文書公開でも誰でも閲覧できる図書と公開されない図書とがはっきりしています。
2749の図書は利用制限で全部利用は公開ですが、2750の「要審査」が事実上非公開となっていると思われます。
天皇陵がどのように決められたか。その経緯は公表されていません。
今井尭著『天皇陵の解明』を読んだ中で、
外池昇氏が神田の古本屋さんで陵墓を決める経過を記した資料を偶然発見した。とありました。
そこで、本棚を探したところ外池昇著『天皇陵の誕生』が出てきました。
発行年月日からすると10年ほど前に読んでいたのですが、すっかり忘れていました。
その中で「安徳天皇陵」の決定の経緯が紹介されています。
壇ノ浦で安徳天皇は海中に没したことは、よく知られています。
しかし、世の常として、遺体が見つからないと色々と伝説が生まれます。
その結果、安徳天皇陵は全国に15カ所あるそうです。
安徳天皇陵誘致運動が展開され、
伊藤博文の「歴代天皇陵が『不明』というのは外交上よろしくない」との判断のもと
明治22年(1889年)7月に明治天皇が「真の安徳天皇陵が発見されるまで」として
「女人が男子にまさる風習がある」ことで
壇ノ浦に近い現在地に決めました。
この頃1ヶ月半ほどの間に13の天皇陵がバタバタ決められました。
安徳天皇陵の指定から漏れた場所は「陵墓参考地」などになりました。
宮内庁は、天皇陵を「埋火葬された場所で供養墓である」ということは認めていません。
安徳天皇陵の所在は、日本の歴史にとってはほとんど意味はありませんが、
天皇陵とされた古墳は、その持つ意味合いが全く違います。
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