江戸城・平川門についてのツツミ様の投稿
ツツミ様より投稿がございましたので紹介いたします。
先日のコメントの後、確認の為「東京市史稿」を精読した所、寛永二十年の「平川虎口石壁改築」に関する考えを補強してくれる記述がある事に気付きました。岡山藩の史料『吉備温故』から引用された、この普請の鍬初めの儀式の記録です。
寛永二十年正月七日、先に記した徳川家光の平川橋御成り前に執り行われたもので、『同(〇寛永廿年正月。)七日、鍬初によりて、阿部豊後守(〇忠秋)普請場に出らる。此時“古升形”の上石二ツを刑部(〇河野。)はねる。土臺鍬を監物(〇若原。)堀る。其後熨斗を出され、烈公(〇池田光政。)いただきありて、其次に家老を始め、物頭・普請奉行迄殘らず頂戴す。』とあります。上石をはねるというのは、解体工事前の儀式だと思いますので、この普請が、内桝形形式の「古升形」を撤去し、別の位置に「新桝形」を構築するものであった事は、間違いないようです。
「東京市史稿」には、石垣竣工直後、三月二十九日付の岡山藩家老池田由成宛池田光政書状の文面も載っており、その中で光政は、『此度之御ふしん、かたのことくいてき〔形の如く出来〕申候かと存候。世上ニてもほめ申候。』と、枡形の出来に自負心をのぞかせています。歴史の彼方に忘れ去られているこの岡山藩の働きには、もう一度光が当てられるべきではないか、と思っています。
ところで、昨年12月5日の記事に載る『皇居と江戸城重ね絵図』の絵図面には、実際の平川門桝形の状況とは、異なる部分があります。桝形の竹橋側(図の上側)の石垣内側が、雁木状に描かれていますが、その上に掲載されている俯瞰写真を見ても判るように、本来そこには、多門櫓を載せられるような櫓台状の石垣が描かれなければなりません。
江戸図屏風の一つ、江戸東京博物館所蔵の『江戸京都絵図屏風』は、竹橋内北の丸の屋敷地に、徳川綱重の幼名である長松の名が在り、竹橋屋敷が長松に与えられた慶安二年十一月以降、明暦の大火以前の江戸城の姿を知る事が出来る貴重な史料です。ベースに描かれている地形が、デフォルメの多い寛永図(『武州豊嶋郡江戸庄図』)をそのまま写したものである為に、二ノ丸の拡張部分などは上手く描かれていませんが、それ以外の城郭の構造は、かなり正確に描かれ、特に城門部分は、現存する物と比較すると、その描写の正確さが分ります。平川門桝形も現在の形とほぼ同じですが、先述した櫓台部分には多門櫓が載っています。他の城門の描写の正確さから見て、寛永二十年の改築以降、恐らく明暦の大火で焼失するまで、櫓台上には実際に多門櫓が載っていたものと思われます。
明暦の大火以降、櫓が再建されていない事は、万治度の復旧工事の際の『御本丸総御絵図』で確認できます。実は、『皇居と江戸城重ね絵図』の間違いは今に始まった事ではなく、同様の描写は、この万治度の総絵図に既に見られます(「重ね絵図」作者は、これを写したのかも知れません)。櫓台が現存している事から、万治度の図面の描写が、線を引いた人物の誤認であるのは明らかですが、そういう間違いが起きてしまうという事は、既にこの時点で櫓台に櫓が無かった事を意味します。
甲良家文書の内、『江戸城平川口御門より上梅林御門地絵図』は、平川門桝形と帯曲輪の状況が正確に写された指図で、そこには、渡り櫓門や二つの高麗門の柱の配置、櫓の無い櫓台に至るまで、現在と寸分の違いも無い平川門桝形の姿を見る事が出来ます。現存の帯曲輪門に「帯曲輪東御門」、竹橋門桝形側に在った高麗門には「帯曲輪西御門」と記されており、これらが正式名称であった事も判ります。
図面の隅には、「甲良豊前扣」とあります。こういう正確な指図の作成には、現場に立ち入る必要が有りますが、それが可能だったのは、災害被害を受けた後の復旧工事の際位でしょう。甲良豊前を名乗り、明暦の大火や元禄地震後の復旧工事の作事に関わった甲良家三代宗賀(むねよし)、もしくは四代宗員(むねかず)が、いずれかの災害復旧工事に際し作成したのではないかと思いますが、この指図から見ても、外桝形への改築から現在まで、平川門桝形、帯曲輪に、大きな改変が加えられていないのは明らかです。
城門の描写が正確な『江戸京都絵図屏風』ではありますが、この絵図の平川門桝形には帯曲輪東御門が描かれていません。考えてみれば、城郭の図などは、絵師が目にできる範囲内の物しか描けないのですから、それも当然で、城外から観察しても、あの場所に高麗門が建っているなどとは、想像出来なかったはずです。二ノ丸の拡張部分が描かれないのも同様の理由からでしょう。帯曲輪の大部分や城内主要部分などは、雲で覆って胡麻化していますが、これも御上を憚ってというよりも、全く様子が掴めなかった事によるものと思います。
同様の事は、幕府大棟梁が総絵図を描く時にも言えたのではないかと思います。指図が作成された頃の総絵図には、帯曲輪と平川門桝形の接点が、比較的正確(享保期の甲良若狭棟利控『江戸御城之絵圖』では完璧)に描かれていますが、後代の総絵図では、その接点が少しずつ内側にずれて描かれます。皇居東御苑売店の図に至っては、渡り櫓門を入った内側の位置に帯曲輪が接するように線が引かれ、枡形が帯曲輪側に被さるはずの部分も無いなど、出入口の様子は、実態とは随分異なってしまっています。これは、図面作成者が、現場を見る事が出来ず、残されている過去の図面の引き写しを繰り返す内にずれが生じたり、線を引き間違えたりした結果だと思われます。総絵図に見られる相違点は、城郭の構造の変遷を表している訳ではない事の方が多い様ですので、扱いには注意が必要です。
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