平川門桝形と帯曲輪の沿革について(ツツミ様より)
ツツミ様よりご投稿をいただきましたので紹介いたします。
平川門桝形と帯曲輪の沿革について考えてみます。江戸城総絵図などに描かれている情報を論拠にする場合、その情報が、どこまで正確なのか、どういう目的で作成された絵図なのか、といった史料批判を行った上で利用しないと、間違った答えが導き出されてしまう恐れがあります。その史料批判を行う為にも、平川門、帯曲輪の形成過程を検討しておく必要があります。
『江戸城始図』を含む慶長年間の江戸絵図類に見られる通り、当初は設けられていなかった帯曲輪の築造は、元和六年か、同八年の天下普請の際であった、と考えられています。
元和六年の天下普請では、平川門桝形の普請も行われていますが、この時に造られた桝形は、今のように、濠の側に張り出した外桝形の形式では無く、城郭の内側に組み込まれた内桝形の形式のものだったようです。(HN)平川門さんがコメントで指摘されたような、寛永図などに見られる、内枡形の平川門の隅に帯曲輪の先が接続している状態は、その当時の様子を案外正しく伝えているようで、国立博物館が所蔵する、当時の平川門桝形と帯曲輪の状況を正確に写すと思われる『寛永十二亥年二之御丸指図』を見ると、それがよく分かります。この指図に依れば、平川橋の架かる位置は、今と築造当初から変化は無く(木橋部分の長さは、もう少し有ったのかも知れません)、橋を渡った真正面、今は石垣になっている所に高麗門が建ち、桝形に入って左側に、渡り櫓門が在りました。帯曲輪は、現存の渡り櫓門が建つ隅の方で、桝形内に接続していた事が判ります。その口に高麗門が設けられていたのであれば、桝形内から見ると、二つの高麗門が少し離れて隣接している感じに見えたでしょうか。
この図は、以前は「東京市史稿 皇城編」掲載の白黒の写ししか見る事が出来なかったのですが、先日国立博物館のデータベースを確認した所、彩色された原本が、いつの間にか公開されていて、ちょっと感激いたしました。
内桝形だった平川門が、いつ、何のために、現存の形となったのか、という事については、江戸時代初期に行われた城内の様々な場所の改変が関わっているのではないかと思います。
かつては、二ノ丸と三ノ丸の間には濠が在り、下乗門の手前に下乗橋が架かっていた事は、知られていますが、慶長から寛永の前半にかけて、その濠は、下乗橋の架かる部分から、天神濠の方まで真っすぐに掘られていました。昨年春に三の丸尚蔵館の建て替え現場で江戸城築城当時の石垣が発掘された、というニュースがありましたが、この石垣は、その濠の一部分かも知れません。そうだとすれば、その延長線上の二ノ丸庭園の地下にも同じような石垣が埋まっている可能性があります。それは兎も角、今よりも敷地が広かった三ノ丸(当時は二ノ丸と呼ばれており、西丸下の大名小路を三ノ丸と呼んだようですが、便宜上後の呼び名を使います)には、寛永図などにあるように、酒井讃岐守や酒井雅楽頭等の屋敷が置かれていました。それらの屋敷を城外に移転させ、二ノ丸を現在の大手町方向に拡張する普請が始まったのが、寛永十二年で、その際作成された指図が、国立博物館の「二之御丸指図」という事になります。指図にある二ノ丸御殿も、翌十三年六月に完成します。
寛永十八年八月に将軍家光の嫡男竹千代(後の家綱)が誕生すると、同二十年には、竹千代の為に、二ノ丸御殿の建て替えが行われます。この時同時に、三ノ丸御殿が新造されますが、八年前の二ノ丸拡張で、三ノ丸の敷地はかなり狭まっており、そのままでは、御殿を建てるだけの余地は有りません。そこで、御殿を建てる場所を作り出す為に行われたのが、既存の平川門桝形を撤去し、新しい桝形を、平川橋に横付けする形に張り出して、帯曲輪の一部も取り込むように築き、桝形内に帯曲輪との出入用の高麗門を設ける、という改築工事だったのではないかと思います。三ノ丸御殿の指図は残されていませんが、総絵図には、そのアウトラインが描かれている物も多く、平川橋の位置から推せば、御殿の建てられた場所が、「二之御丸指図」にある平川門桝形と重なっている事がよく分かります。桝形を撤去しない限り、御殿の造営は出来ない訳ですから、寛永二十年に、平川門桝形を外枡形にする普請も行われていなければなりません。
この平川門桝形の改造について、はっきりそれと記されたものはありません。しかし、「東京市史稿 皇城編」に、『御徒方萬年記』を引いて、「正月七日〔○寛永二十年。〕三之丸御縄張ニ平川口ヨリ八時(将軍家光が)御成、平川口橋ニ少之間御座、御普請被仰付候衆ニ被仰付、松平新太郎〔○光政〕召被仰付候、上意ニ而富永主膳・阿部四郎五郎〔○正行。〕兩人ニ御縄張之通可然存候由与御念頃ニ上意候」、また、『御當家紀年録』を引いて、「是年〔○寛永二十年。〕改築江戸平川虎口石壁、松平〔○池田。〕新太郎光政役之、久世大和守廣之奉命爲惣奉行、庄田小左衛門〔○安照〕・朝比奈源六郎〔○正重。〕奉行之。」などとあり、これまで述べてきた事柄を総合的に考えれば、この寛永二十年の「平川虎口石壁改築」が、内枡形から外枡形への改変であった可能性は、極めて高いと思います。池田光政が担当した石垣の改築が成ったのは、「東京市史稿」に依れば、この年の三月二十七日の事でした。
尚、江戸絵図の類には、これ以降も内枡形の平川門が描かれていますが、それらは、古い絵図を引き写した事に依るものでしょう。寛永の江戸絵図には、雉子橋と一ツ橋の名前が取り違えて記されていますが、その間違いは明暦三年開版の江戸絵図まで引き継がれており、一旦書(描)かれた情報が新しい情報に改められるまでには、かなりの時間を要したようです。
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