江戸城 不浄門に関する考察(ツツミ様)
ツツミ様より江戸城不浄門について情報(コメント)をいただきました。ありがとうございます。江戸城不浄門については、ネットで検索しても残念ながら多くの情報を得ることが難しい状況です。貴重な情報と思います。ここに全文を掲載させていただきます。まだ、情報をお持ちのようです期待しております。いただきましたなら紹介させていただきます。
将軍とその家族の葬送経路について見てみます。『徳川実紀』や、その編纂に参照された幕府の公的な日誌『柳営日次記』などには、それらが、かなり詳しく記されています。別件を調べるために読んでいても、そうした情報につい目が行くのですが、数ヶ月前、『柳営日次記』を調べていて、偶然に、帯曲輪が葬送に使われたという例を見つけました。宝永二年六月二十三日に執り行われた、かの有名な、五代将軍綱吉生母桂昌院の葬送です。宝永二年六月の末尾に付されたその記録には、「御道筋 平川“帯曲輪”竹橋御門より半蔵御門井伊掃部頭屋敷下永井日向守屋敷前松平安藝守相馬図書頭屋敷脇」云々と、増上寺に至るまでの経路が記されています。この記録は、『徳川実紀』には引用されていないために、気付く人もほとんど居なかったのではないかと思われます。
江戸城内で死去した将軍の家族は、幼くして亡くなった例を除くと、それ程多くは有りません。大体の葬送の記録は、押さえているつもりですが、今の所、帯曲輪を葬列が通ったという記録は、この一例のみです。それでも、この記述を受けて、その他の記録は、帯曲輪の通過を当然の事として省略しているのではないか、という意見が出て来るものと思います。そこで、平川口から送り出されたと記される場合は帯曲輪を使っていない、と断定できる理由を、以下に述べます。
葬送の記録には、葬送経路の他に、道筋の警衛の割り振りが載るものも有るのですが、平川口から出たとされる葬列の向かう先が、芝の増上寺の場合と上野の寛永寺の場合とでは、その割り振りに明確な違いが見られます。増上寺の場合は、平川門から竹橋門の間の警衛が命じられており、寛永寺の場合には、その間の警衛は無く、いきなり平川門から鎌倉河岸など一ツ橋より先の地点までの警衛となっているのです。もし帯曲輪が使われたのであれば、これとは全く逆で、代官町、半蔵門を通って増上寺に向かうのに、平川門から竹橋門の間の警衛は必要無くなり、一ツ橋を渡って寛永寺に向かうには、竹橋門からの警衛が必要になります。従って、これらの葬送には帯曲輪が使われていない、と判断できる訳です。具体例として、『徳川実紀』より、徳川家宣御台所天英院の葬送(これは、向かう先は増上寺ですが、一ツ橋、本町、日本橋を通過し南下するコースをとった稀な例です)の記述を挙げますと、「御道は平川口より一橋門外閑地〔護持院原〕をへて。鎌倉河岸より本町第二のちまた〔本町二丁目〕をよこぎり。日本橋をこへ。芝濵松町より增上寺の正門にいり。」云々とあるのに対し、「御道の警固は。平川より鎌倉河岸までは酒井修理大夫忠用。龍閑橋より室町までは稲葉内匠頭正益。」云々といった具合です。また、徳川家重の増上寺への通常のルートの葬送場面を見ると、平川門から竹橋門までの警衛担当者が記されると共に、「未の刻常の御座所〔二ノ丸〕より 靈柩を發引し奉り。“平川口門の外にて”拜迎にまかりし僧等修法し。」とあり、こうした記録からも、帯曲輪が使われなかった事を確認できます。桂昌院の葬送経路の記録は、帯曲輪が使われた場合には、その旨が日誌にきちんと記録される、と解釈すべきだと思います。 そもそも、将軍とその家族の葬列が城内から出る際には、平川門(両方の高麗門)の他、北桔橋門や矢来門など、裏門とされたいくつかの門が使われており、将軍、大御所で平川門から送られたのは、二ノ丸で死去した家重ただ一人です。平川門のみが、不浄門の役割を持っていた、とする事自体、間違いなのかもしれません。
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