江戸城の不浄門についていただいたコメント
ツツミ様よりコメントをいただきました。ありがとうございます。コメントとしてよりは、記事として掲載するほうが適切と思い、ここに紹介させていただきます。
また、江戸城 平川門 不浄門 に関する記事が何回にもわたっていますので、カテゴリとしてまとめました。過去記事はこのカテゴリーをご覧いただければ、検索の手間が少なくなると思います。よろしくお願い致します。
平川門ゆかりの赤穂浪士討ち入りの日を記念して、参加させて頂きます。将軍の居城の内堀に肥し舟が浮かんでいるような事が、許されたのかどうか、というのは、けっこう重大な問題かも知れません。
まず、先日の(HN)平川門さんのコメントに、浅野内匠頭を乗せる為の乗物が桔梗門(桜田下馬)で待っていた、とありますが、この時桜田下馬に控えていたのは、田村家の目付役や物頭達が乗ってきた馬4頭と、請取部隊75名の内の足軽二十数名です。乗物は、初めは下乗門(大手三の門)外の下乗(もしくは下乗門を入った百人番所の辺り)に控えていましたが、公儀目付の指示で、御殿内の御坊主部屋まで運び込まれ、そこで内匠頭を乗せています。
四年前の今日、「皇居(江戸城)の平川門(2)」へのコメントにお示しした通り、田村右京大夫側の覚書に依り、元禄十四年三月十四日、戸に錠をかけ青網をかけた乗物に乗せられて、浅野内匠頭が、平川高麗門、平川橋の方から城外に出された事は、間違い無いものと思われます。詳しい護送経路も判明していますので、陸上を護送された事も、疑問を差し挟む余地はないようです。15名の六尺を除いた60名の侍・足軽が、網掛けの乗物のまま舟に乗せられた内匠頭を、厳しく取り囲んで護送して行く光景は、ちょっと想像できません。騎馬の4人が、その状態で舟に乗って、堀に架かる橋の下を潜った、とするのも無理があり、何よりも、75名を乗せるだけの数の舟と漕ぎ手を短時間で調達するのは、畳替えの話以上の無理難題でしょう。
以前ご紹介した護送経路等の記録は、要約するために、箇条書きの主要部分のみを原文でお示ししたものですが、当該条文の全文を載せた方が、平川高麗門からの退出が、よりはっきりすると思いますので、この機会に、端折った部分を加えて、平川口からの退出場面を再掲いたします。クォーテーションマークを付けた部分は、乗物が帯曲輪を通って竹橋門の方から出たのでは、説明の付かない記述です。
『一、足輕共其外人馬下馬に差置候、“平川口へ廻り候様仕度”の由申達候處、則其段御小人を以被申遣、内を參候間に、“足輕共平川口迄參罷在候”(平川口まで参り罷り在り候)由』
『一、“平川口より”、(牟岐)平右衛門(原田)源四郎先江乗、(檜川)源五(菅)治左衛門跡に押續き、乗物の廻り侍共嚴敷取包、外に棒持候足輕共取廻、跡に三ッ道具立、道筋“平川口より”大下馬先江、やよすがし(現日比谷通りの和田倉門外から第一生命館辺りまで)、日比谷御門、櫻田、愛宕下通り、此方表門江申の刻入申候』 (※以前のコメントでは、「騎馬の4人が先導」と書きましたが、檜川源五、菅治左衛門は、隊列のしんがりに続いたと読むべきかもしれません。)
そして、四年前に全文を記していますが、幕府の公的な日誌である「祐筆所日記」の同日の記録にも、「平川口通り御乗物にて之を引取る」とある事を、改めてお伝えしておきます。
「絵島生島事件」についても見てみますと、いつぞやご紹介したフジテレビ制作の江戸城城門に関するアプリでは、白襦袢のような姿に縄を打たれた絵島が、素足で引き立てられていく様子が描かれていたように思いますが、これは、史料を無視した全くの出鱈目です。残された記録では、絵島は、大奥御広敷で、親類への当分御預けを申し渡された後、すぐに敷物の無い乗物に乗せられ、その乗物の両戸を開けて中が見える状態で、平川口から出されています(城を出たのは二月二日、評定所の遠流の決定は三月五日)。乗物で護送されているので、これも、舟で護送されたとするのは、無理があります。
それから、「細川宗孝公遭難事件」の際の、平川口からの宗孝主従の退出について、熊本藩に残された覚書の記述を、とうの昔にご紹介していたつもりで、いくつかのコメントを記して参りましたが、確かめてみると、まだお伝えしていなかったようです。
一部の江戸城総絵図の帯曲輪部分に書き込まれた「病人カゴ此口ヨリ出ル」の文言とは異なり、傷病人の退出に、帯曲輪が使用されていない事が、よく判るものですので、以下に記します。延享四年八月十五日、熊本藩主細川宗孝公が、薄暗い殿中の厠で、人違いから刺殺された事件で、瀕死の怪我を負っている(実際は息を引き取っていたと思われる)宗孝一行の退出場面です。時の将軍は九代家重。吉宗は大御所でした。『左候而引取申度由を御目附様江相達勝手次第可仕旨被仰聞候ニ付御駕舁ハ御間者陸尺(六尺)外ハ黒鍬大勢ニ而舁中ノ口より平川御門江御出被成彼方橋際より御手人ニ請取舁せ申候(さ候て、引取り申したき由を、御目付様へ相達し、勝手次第仕るべき旨、仰せ聞けられ候に付き、御駕籠は、御間(殿中)は六尺、外は黒鍬、大勢にて舁き、中ノ口より平川御門へ御出なされ、彼方橋際より、御手人に請取り、舁かせ申し候。)』<br /> このように、城内を幕府側の黒鍬者によって平川門まで運ばれた乗物が、「彼方橋際より」細川家の六尺へと請け渡された事が、はっきりと記されており、血まみれの怪我人である細川宗孝を乗せた乗物が、平川橋を通って城外に出た事も、間違いありません。平川橋際で乗物の受け渡しが行われた、とする記述は、大和郡山藩柳沢家に残る「殿中マナーブック(本来無題の書物で仮題は「御例集」)」に載る、若狭小浜藩主酒井遠江守忠与の病気退出例の注記にある、『御城内は、御駕籠、手前人ニ而ハ為舁不申御作法(手前人にては、舁かせ申さざる御作法)之由。』という記述とも合致しており、この覚書の信憑性の高さも裏付けられます。<br /> また、これらは、江戸城の事情に疎い外部の人間に伝達する目的で記されていますので、「記録するまでも無い当然の事」として、実は竹橋門の方から出ていた、とか、実は舟を使っていた、とかいった事柄を省くなどという事は無いものと思います。尤も、熊本藩の覚書には、本丸で御礼を済ませた藩主達は、西丸の大御所に御礼に回るのが通例だった為に、西丸の下馬の方へ移動して控えていた家臣達が、『平川江廻り候事難成漸刑部卿様御屋敷前ニ而馳付候事(平川へ回り候事、なり難く、漸く刑部卿様御屋敷前(一橋邸前)にて、馳せ付け候事)』と記されていますので、丸の内オアゾの辺りに在った細川藩邸に帰る一行が、陸路をとっていた事は確実です。
また随分と長くなってしまいました。お伝えしたい事は、まだまだ有るのですが、今回はここまでにいたします。
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