宮内省が大津皇子の墓を二上山頂上付近にした根拠は?
宮内庁(当時は宮内省)が大津皇子の墓を二上山頂上付に治定した根拠は宮内庁が事情を説明しない限り、わからないとしか言いようがないです。すでにふれたように古墳や遺物があったとの情報はありません。私は、万葉集にある姉の大伯皇女の移葬の際の歌の「明日よりは 二上山を 弟と我が見む」かなと思っていましたが、鳥谷口古墳調査報告書(以下調査報告書と記します)によれば、『大和志』を参考にした可能性を指摘してます。私も『大和志』を見にゆきました。
『大和志』は、享保19(1734)年になった奈良県の地誌です。大津皇子のお墓に関する記述ではもっとも古いと思われます。それでも大津皇子の死から1050年近くたっていますので、信頼度・正確性の限界を認識しておく必要があります。
そもそも二上山の紹介で、大津皇子の姉の大来皇女(大伯皇女)の歌を紹介しています。
大津皇子の墓は、「二上山二上神社東に在り」と記しています。
「東」という漠然とした方向の表記です。
そして二上山城もあったと触れています。
であるなら、大津皇子の墓は二上山城の中にあるとしてもよさそうです。
ですが、そもそも確たる根拠のない記述に突っ込みを入れてもしょうがないですね。
宮内省が明治9年の治定の際に参考にしたという確証は得られていませんが、他に参考にしたものが見つからないのも事実です。
そもそも二上山は、当時神聖視されていました。中臣寿詞(なかとみのよごと)の中に「天の二上」という表現が見えています。そこにお墓をそれも反逆者のお墓を設けることはあり得ないです。畝傍山、耳成山、天香久山、三輪山の頂上にはお墓がありません。
さらに、二上山頂上の墓は、風水と合致しません。私は風水を信じませんが、当時風水によって選地されていた状況を無視はできません。鳥谷口古墳の立地こそ風水にかなっています。来村多加史氏の「風水と天皇陵」 コラムで鳥谷口古墳について「ダイナミックな選地は感動的である。」と述べてます。ご一読をお勧めします。
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