旧江戸城 平川門・不浄門について
HN 平川門さんから、コメントをいただきました。誠にありがとうございます。
資料も限られていて、私自身が目を通す資料もさらに限られておりますので、以下は、まったくの私見として述べさせていただきます事、ご了解をお願い致します。
「田村家から浅野内匠頭の引き取りを桔梗門で待っていたいたところ急遽平川門に籠を回した記録がある」とのご指摘を興味深く拝見しました。
松之大廊下とその後の尋問の部屋の位置からすると、近い桔梗門で待つというのは理解できます。ご指摘の通りであれば、殿中を血で怪我した者を「不浄門から出す」という形式・令法に則ったものと理解できます。
『享保年間不浄門はなかった』という西ヶ谷説については、詳細がわかりませんので、評価は控えさせていただきます。
享保年間の絵図では平川門に船着き場があった。
(皇居と江戸城重ね絵図=平成24年発行)この元資料がわかりませんが享保年間の絵図と軌を一にしてます。
元禄の時にすでに船着き場があったのかは不明ですが、形式・令法に則って不浄門に廻すという措置をしたなら、船着き場から内匠頭を出したと私は想像したいです。短ければ対岸で籠に引き渡したのか?どこまで船で行ったのか?想像に想像を重ねることになり、その点はわかりません。城中の糞尿も同様に船着き場から出したのではと考えています。(ご存じのように城中の糞尿は下肥の最高級品)
元禄より前の正保絵図を見ると曲輪は竹橋門に入ることなく門外で接続しているように見えます。
そのように意識すると、さらに前の寛永の絵図も「そうかな」と思えなくもないです。
門の詳細を書くことを目的としてる図ではないので、正確性は求められませんが。
江戸城秘図は、見たときビックリが先に立ち、描かれた年代は確認していません。
先入観で、帯曲輪の初期段階かと思ってしまいました。(今から見ればお粗末でした)
平川門さんと、私の疑問は、当時の人にとって「当たり前の事」で、記録するまでもまでもない事だったのかもしれません。
ご指摘の通り現在の山里門単独では不浄門とされる機能はないです。疑問が残ります。
| 固定リンク
「城」カテゴリの記事
- 高松城(2024.05.08)
- 安土城発掘調査報告会(2024.03.02)
- 近江旅行(2023.03.18)
- 天空の城 備中松山城(2023.01.10)
- 旧江戸城 平川門・不浄門について(2021.12.05)
「江戸城 平川門・不浄門」カテゴリの記事
- 江戸城不浄門について(2023.04.26)
- 寛永期の平川門(2022.04.24)
- 江戸城・平川門についてのツツミ様の投稿 (2022.02.10)
- 平川門桝形と帯曲輪の沿革について(ツツミ様より)(2022.01.21)
- 江戸城 不浄門に関する考察(ツツミ様)(2021.12.25)
コメント
コメントありがとうございます。
>駕籠で田村邸迄の経路も書かれています。このことを否定しない限り又は舟をのりかえない限り舟で運んだ説は成り立たないのではないかと思っています。
>この説の出典元を知りたいと思っていますが中々たどり着くことは難しいです。
「平川門から城外に出る」というのは、言い換えれば、平川橋を渡って出る。ということではないかなと想像しております。城内の糞尿を葛飾まで運ぶのに、平川橋を渡ることはなく、やはり平川門側から堀におろしたのではないでしょうか?
内匠頭を桔梗門ではなく平川門に回送したのは糞尿を出す「不浄門」から出すためだったのかなと想像します。平川橋を使わないことに意味があるように思います。不浄門から出した体裁が整えば、それでよしだったのでは?平川門の対岸で内匠頭を預かったかな?とも。
いずれにせよ、ご指摘のとおり資料が少ないです。想像の域を出ず、わからないというしかない状況です。糞尿のルートを知りたいです。葛飾区に資料が残っているのか?可能性は少なさそうです。謎は残っていますね。
投稿: 最前列 | 2021年12月 7日 (火) 23時43分
HN平川門です。早速のご教授を有難うございました。20年近く江戸城内をうろうろしてその時代にタイムスリップしていますが不明なことが多くSNSの記事で勉強しながら最近は時々書陵部に調査に出かけたりしています。
田村家で浅野内匠頭の請取から切腹までの様子を記録した「田村右京太夫殿に浅野内匠頭御預一件」という文書は「気ままに 江戸♪」さんのブログで拝見しました。
https://wheatbaku.exblog.jp/20209003/
駕籠で田村邸迄の経路も書かれています。このことを否定しない限り又は舟をのりかえない限り舟で運んだ説は成り立たないのではないかと思っています。
この説の出典元を知りたいと思っていますが中々たどり着くことは難しいです。
たくさんの絵図を有難うございます。まだどこかにあるのでしょうね?
帯曲輪・曲輪門(不浄門)については
年代の古い順と思われる絵図に並べてみると
①江戸始図にも江戸城最古だったという慶長江戸図に似た絵図にも帯曲輪が描かれていない。
②上記の「江戸城秘図」これには曲輪が竹橋まで届いていない。(曲輪を造り始めたが完成前?)年代がわかると曲輪はいつ頃できたかわかりそうですね。
③元禄より前の正保絵図を見ると曲輪は竹橋門に入ることなく門外で接続している(平川門の橋は虎口の中央)この絵図が曲輪ができて初めてお目にかかる絵図です。
④年代は不明ながらカラーの絵図で橋が中央で茶色に描かれている絵図には高麗門と橋が虎口の中央に描かれ帯曲輪はありますが曲輪門は描かれていない。曲輪は竹橋の虎口に門があり虎口内にこの絵図から繋がっている。平川門側は完全に遮断されている。
⑤享保年間の絵図では橋と高麗門は虎口の端に移動し虎口と曲輪は完全に仕切られていて竹橋側の門はなくなっている。ここで石段がついた。
⑥次の時代(年代は不明)の絵図は帯曲輪に「病人は駕籠で出す?」と書かれた絵図では石段はなくなり帯曲輪門が初めて描かれている。が門の向きは曲輪の進行方向と同じ向きで現在とは違う。
⑦現在の姿になった。
⑤⑥の頃から平川門は御三卿の登城門になります。大奥の女性も数百人となり大量の排泄物を同じところから運びだすのはどうかなど年代によりその必要性により虎口や帯曲輪や曲輪門の形や用途が変わってきたのではないかと想像しています。
⑥の年代がわからないので曲輪門がいつできたかは不明ですね。
平川門は謎が多く書陵部にも記録のないものが多く「謎」で終わってしまう場合が多いです。乱文で失礼しました。新たな情報とご教授有難うございました。
投稿: | 2021年12月 7日 (火) 22時55分