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大津皇子のお墓(カテゴリーを追加しました)

大津皇子に関して、若干の資料・論文に目を通して、私なりの感想を持ちました。まだ、あたりたいと思っていながらあたりきれていない資料などがあります。これから記事が何回かに分かれますので、新しく「大津皇子のお墓」のカテゴリーをこのブログに設けました。関連の記事をまとめて見やすいようにしました。これからの記事もこのカテゴリーに追加してゆきます。

大津皇子(おおつのみこ)は、飛鳥時代686年に謀反の疑いをかけられて24歳の若さで自害させられました。父の天武天皇が亡くなってから一ヶ月も立っていませんでした。
草壁皇子の母の持統天皇(この時点では天武天皇の皇后)が、我が子の皇太子である草壁皇子の存在を将来脅かす恐れのある大津皇子を排除したものです。妃の山辺皇女は、後を追て自殺しました。
大津皇子は妃の山辺皇女と共にどこかに簡略に葬られたのでしょう。そして初葬地の墓から二上山に移されました。その時、斎王として伊勢斎宮にいた、大伯皇女(おおくのひめみこ)が、大和に戻って歌った歌が伝えられています。

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我が見む

大津皇子の母・大田皇女は、持統天皇の姉で、天武天皇の妃です。大津皇子が幼少の時に亡くなりました。大田皇女がはやくに亡くなっていなかったなら、大津皇子の運命も変わっていたでしょう。

大津皇子の御霊を鎮める場所はどこなのか、考えてみます。

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