鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)2
二上山頂上付近の宮内庁が明治になって作った「自称 大津皇子の墓」は全く墓ではないことを述べてきました。ここからは真の大津皇子の墓である鳥谷口古墳について触れてゆきます。
本文82ページ、図版36ページの調査報告書が、考古学的考察のみならず伝承・民俗・文献など多方面からの考察を踏まえて『鳥谷口古墳は大津皇子の墓の可能性が極めて大きい』としていることの意味をきちっと受け止めたいです。学術報告書ですから、遺骨が発見されなかった。そして墓誌など氏名に結び付く遺物が発見されていなから断定していないだけです。次なる新発見がない限り、鳥谷口古墳を真の大津皇子の墓とすべきです。そして次なる発見の可能性は極めて少ないものと思われます。この古墳を「大津皇子の墓という説もある」とか「有力な説である」といった通り一片の説明には、同意できません。宮内庁治定の墓は、フィクションですので論外です。
鳥谷口古墳は、1983年5月に、土取り作業中に偶然発見されました。堤改修に必要な土を採取している際に、パワーシャベルの運転手が石が多くなってきて、「古墳ではないか?」と気づき、県庁に報告しました。運転手さんも偉いです。ここから現地調査が始まりました。
調査開始前の状況です。
右上に開口部が見えます。ショベルカーの刃先の跡が残っています。
開口部の閉塞石が転がっています。
古墳が埋まったのにかかったのは600年ぐらいと予想されてます。大津皇子の墓の伝承が地元に伝わっていない理由なのだろうと想像します。
調査が進み「現地保存ではなく、移築もやむなし」との方針が変更され、現地保存されました。現地の地理的環境を考えると移築ではその価値が大きく損なわれました。現地保存に尽力された関係者に敬意を表します。
(続きます)
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