2021年12月
スマートスピーカー
「スマートスピーカーは、買って一週間ほどしか使わない」というネットの記事を見ました。スマートスピーカーで何ができるのか?どのように使うのか?ということがクリアーになっていない方が多いのではないかと感じています。
タブレット教室でも、スマートスピーカーを受講生さんに勧めました。が、持っている機能の多くが使われていないと感じていました。通常の講習が優先でなかなかスマートスピーカーに絞った講習ができなかったので、ようやく来月からスマートスピーカーの短期講座の開催ができるようになりました。
我家では、スマートスピーカーのない生活は考えらません。連絡やホームオートメーション、タブレット代わりに活用しています。タブレットと思えばお安い買い物です。
ちょっと変わった使い方かもしれませんが、お手洗いのストーブの入り切りにも使っています。
お手洗いのストーブをお手洗いに入ってからつけても暖まるまでに時間がかかります。まず、リビングでスマートスピーカに呼び掛けてストーブの電源を入れておきます。暖まった頃(数分です)を見計らってお手洗いに行きます。ストーブもセラミックヒーターなど、色々試した結果”グラファイトヒーターのストーブにたどりつきました。即暖です。快適です。
最初は、リビングに戻ってから電源をオフにしていたのですが、消し忘れが何回かありました。そこでお手洗いにもスマートスピーカを入れて、その場で電源をオフにするようにしました。
この方法が良いです。今冬で2シーズン目です。
今日は、孫が遊びに来ていました。孫がお手洗いに入っているときにリモートでストーブの電源を入れて驚かしました。孫は孫でスマートスピーカーには慣れっこにはなっていますので、これはちょっとしたお遊びでした。
江戸城 不浄門に関する考察(ツツミ様)
ツツミ様より江戸城不浄門について情報(コメント)をいただきました。ありがとうございます。江戸城不浄門については、ネットで検索しても残念ながら多くの情報を得ることが難しい状況です。貴重な情報と思います。ここに全文を掲載させていただきます。まだ、情報をお持ちのようです期待しております。いただきましたなら紹介させていただきます。
将軍とその家族の葬送経路について見てみます。『徳川実紀』や、その編纂に参照された幕府の公的な日誌『柳営日次記』などには、それらが、かなり詳しく記されています。別件を調べるために読んでいても、そうした情報につい目が行くのですが、数ヶ月前、『柳営日次記』を調べていて、偶然に、帯曲輪が葬送に使われたという例を見つけました。宝永二年六月二十三日に執り行われた、かの有名な、五代将軍綱吉生母桂昌院の葬送です。宝永二年六月の末尾に付されたその記録には、「御道筋 平川“帯曲輪”竹橋御門より半蔵御門井伊掃部頭屋敷下永井日向守屋敷前松平安藝守相馬図書頭屋敷脇」云々と、増上寺に至るまでの経路が記されています。この記録は、『徳川実紀』には引用されていないために、気付く人もほとんど居なかったのではないかと思われます。
江戸城内で死去した将軍の家族は、幼くして亡くなった例を除くと、それ程多くは有りません。大体の葬送の記録は、押さえているつもりですが、今の所、帯曲輪を葬列が通ったという記録は、この一例のみです。それでも、この記述を受けて、その他の記録は、帯曲輪の通過を当然の事として省略しているのではないか、という意見が出て来るものと思います。そこで、平川口から送り出されたと記される場合は帯曲輪を使っていない、と断定できる理由を、以下に述べます。
葬送の記録には、葬送経路の他に、道筋の警衛の割り振りが載るものも有るのですが、平川口から出たとされる葬列の向かう先が、芝の増上寺の場合と上野の寛永寺の場合とでは、その割り振りに明確な違いが見られます。増上寺の場合は、平川門から竹橋門の間の警衛が命じられており、寛永寺の場合には、その間の警衛は無く、いきなり平川門から鎌倉河岸など一ツ橋より先の地点までの警衛となっているのです。もし帯曲輪が使われたのであれば、これとは全く逆で、代官町、半蔵門を通って増上寺に向かうのに、平川門から竹橋門の間の警衛は必要無くなり、一ツ橋を渡って寛永寺に向かうには、竹橋門からの警衛が必要になります。従って、これらの葬送には帯曲輪が使われていない、と判断できる訳です。具体例として、『徳川実紀』より、徳川家宣御台所天英院の葬送(これは、向かう先は増上寺ですが、一ツ橋、本町、日本橋を通過し南下するコースをとった稀な例です)の記述を挙げますと、「御道は平川口より一橋門外閑地〔護持院原〕をへて。鎌倉河岸より本町第二のちまた〔本町二丁目〕をよこぎり。日本橋をこへ。芝濵松町より增上寺の正門にいり。」云々とあるのに対し、「御道の警固は。平川より鎌倉河岸までは酒井修理大夫忠用。龍閑橋より室町までは稲葉内匠頭正益。」云々といった具合です。また、徳川家重の増上寺への通常のルートの葬送場面を見ると、平川門から竹橋門までの警衛担当者が記されると共に、「未の刻常の御座所〔二ノ丸〕より 靈柩を發引し奉り。“平川口門の外にて”拜迎にまかりし僧等修法し。」とあり、こうした記録からも、帯曲輪が使われなかった事を確認できます。桂昌院の葬送経路の記録は、帯曲輪が使われた場合には、その旨が日誌にきちんと記録される、と解釈すべきだと思います。 そもそも、将軍とその家族の葬列が城内から出る際には、平川門(両方の高麗門)の他、北桔橋門や矢来門など、裏門とされたいくつかの門が使われており、将軍、大御所で平川門から送られたのは、二ノ丸で死去した家重ただ一人です。平川門のみが、不浄門の役割を持っていた、とする事自体、間違いなのかもしれません。
鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)4
宮内庁が作って決めた二上山頂上付近の大津皇子の墓と、奈良県指定史跡の鳥谷口古墳について述べてきました。没後1300年以上たって全く根拠もなく作った宮内庁の大津皇子の墓は単なるモニュメントです。モニュメントと鳥谷口古墳は本来比較の対象とさえならないと思います。
仮に百歩譲って、宮内庁の指定墓が、大津皇子を『供養するための場所=墓』とするなら明治になって作った墓であると明記すべきです。しかし宮内庁は、あくまで大津皇子の墓であるとする姿勢は変わりないでしょう。
それは、日経電子版に掲載された「宮内庁調査官が明かす「896」の聖域 天皇陵の真実」の記事からわかります。その一部を引用します。
質問―宮内庁が指定している陵墓の被葬者には、考古学などの研究成果をもとに「間違っているのでは」「指定を見直さないのか」などの声が多い。 調査官の返答「現在の指定を覆すに足るだけの確固たる資料は無いと考えています。確証となり得るのは、内容がきちんと合致する文献か、ピンポイントで天皇陵を示している古絵図。考古資料では墓誌です。100%確実な資料が現れた段階で検討します」
『墓誌・・・被葬者の名前が記されたもの』が出れば、指定を見直す検討を始めるということです。日本の古墳から墓誌が出る例は極めて少ないです。鳥谷口古墳からも墓誌は出ていません。宮内庁が鳥谷口古墳を大津皇子の墓と認める可能性はないということです。そもそも現在宮内庁の指定している陵墓から墓誌が出ているのでしょうか?とツッコミを入れたくなります。
質問―宮内庁には「もし指定が誤っていても、祭祀を執り行っているところに御霊が移ってくる」との考え方があると聞く。本当か。 調査官の返答「そんな考え方はしていません。研究者が著した本にそう書いてあるため調べたことがありますが、本当にそんな発言があったのか、確認できませんでした」
つまり「供養するために設けた場所」とは考えず、あくまで墓である、と。
天皇陵について述べたものですが、皇族の墓についても適用されています。幕末から明治にかけて指定した段階から1mmも動いていません。真実から目を背け、学問の進歩とは無縁の硬直した姿勢が問われています。これが被葬者に対する御魂を鎮めることになっているのでしょうか。
鳥谷口古墳の現地に建つ説明板です。
近くにある宮内庁の二上山墓に遠慮してか、「大津皇子のお墓との説もある」という控えめな説明さえもありません。「特異な石槨構造」と記して、わかる人にはわかってほしい。といったところでしょうか。
長くなってしまったので、大津皇子のお墓のことは、ここで終えたいと思います。「大津皇子の墓」としてカテゴリーを設けてありますのですべての記事の参照にお使い下さい。
宮内庁の指定の二上山墓と、鳥谷口古墳(真の大津皇子の墓)の両方にぜひ行って欲しいです。おのずと答えが出ると思います。
日経記事の全文はこちら(2010年11月27日付け) 宮内庁調査官が明かす「896の聖域」 天皇陵の真実|NIKKEI STYLE
鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)3
鳥谷口古墳を初めてみると、およそ古墳らしくないその姿に最初は違和感を感じます。
保護のため石槨が中にあります。多くの古墳のイメージとしては、「羨道があって、その奥に横穴石室があり、石室の中に石棺がある」ではないでしょうか。
終末期古墳(大津皇子と時代が合う)の鳥谷口古墳は『横口式石槨』というタイプです。石室と石棺を合体させたと言えばイメージできるかと思います。横穴石室に比べると小型です。
石槨の右部に四角い穴から、被葬者を運び込んでいます。小さい穴ですので、遺体を運び込むことはできず、火葬遺骨か改葬された遺骨を葬ったものと思われます。(大津皇子の”移葬”と合致する)
墳丘は、一辺7.6mの方墳です。墳丘には人の頭よりも大きめの石が貼付けられています。
家形石棺の蓋を北側面(写真左側面)に使う、しかも二つに割れている。など特異な作り(おっつけ仕事)になっています。
(覆い屋の開口部は南ですので、ここから見学しますから現状では確認できません)
石槨内からは何も発見されませんでしたが、四角い穴をふさぐ閉塞石が発見され、7世紀の土器・須恵器が発見され石槨の南側に前室があったと推定されています。
土取り作業の途中で偶然発見された状況から、現状はあまり見かけない変った古墳に見えますが、復元図で往時を偲べます。
鳥谷口古墳(大津皇子の真の墓)2
二上山頂上付近の宮内庁が明治になって作った「自称 大津皇子の墓」は全く墓ではないことを述べてきました。ここからは真の大津皇子の墓である鳥谷口古墳について触れてゆきます。
本文82ページ、図版36ページの調査報告書が、考古学的考察のみならず伝承・民俗・文献など多方面からの考察を踏まえて『鳥谷口古墳は大津皇子の墓の可能性が極めて大きい』としていることの意味をきちっと受け止めたいです。学術報告書ですから、遺骨が発見されなかった。そして墓誌など氏名に結び付く遺物が発見されていなから断定していないだけです。次なる新発見がない限り、鳥谷口古墳を真の大津皇子の墓とすべきです。そして次なる発見の可能性は極めて少ないものと思われます。この古墳を「大津皇子の墓という説もある」とか「有力な説である」といった通り一片の説明には、同意できません。宮内庁治定の墓は、フィクションですので論外です。
鳥谷口古墳は、1983年5月に、土取り作業中に偶然発見されました。堤改修に必要な土を採取している際に、パワーシャベルの運転手が石が多くなってきて、「古墳ではないか?」と気づき、県庁に報告しました。運転手さんも偉いです。ここから現地調査が始まりました。
調査開始前の状況です。
右上に開口部が見えます。ショベルカーの刃先の跡が残っています。
開口部の閉塞石が転がっています。
古墳が埋まったのにかかったのは600年ぐらいと予想されてます。大津皇子の墓の伝承が地元に伝わっていない理由なのだろうと想像します。
調査が進み「現地保存ではなく、移築もやむなし」との方針が変更され、現地保存されました。現地の地理的環境を考えると移築ではその価値が大きく損なわれました。現地保存に尽力された関係者に敬意を表します。
(続きます)
宮内庁が決めた大津皇子の墓の盗掘事件
宮内庁が、明治9年に二上山頂上付近に大津皇子の墓を作りました。墓がまったく捏造と言ってよい存在であることは、すでに述べたところですが、なんと、この墓を盗掘するという事件がありました。
明治18年5月に盗掘された痕跡が発見され、地元から警察署へ、さらに翌6月に大阪府知事から宮内省御陵墓課長あて検証書類を添付して報告がなされました。
それによると「墓の西側(正面)に巾90cm、深さ1.2mほどの盗掘口が発見された。掘り進んだ深さ90cmほどは山石が積まれていて、その先は土となっていた。あたりには掘り出された石や土が散乱していた。棺その他のものは発見されていない。宝物目当てに掘ったが、あきらめたと思われる。状況からして単独ではなく3,4人による犯行と思われる。(犯人はわかっていません)」
文面からは、棺が出ていないことに安どしたことが行間から感じられました。このお墓を作るとき(明治9年)に宮内省が棺や宝物を埋めたとは考えずらいので、そもそも犯行の狙いが的外れです。ただ、当時はお宝が眠っていると思われていたのでしょうね。
大津皇子の墓なら、終末期古墳のはずですが、まったく違う構造であることがはらずも露呈されました。
墓が作られてから10年経たないうちに盗掘される。人間の浅ましさの一端を見せつけられた思いがします。
宮内省が大津皇子の墓を二上山頂上付近にした根拠は?
宮内庁(当時は宮内省)が大津皇子の墓を二上山頂上付に治定した根拠は宮内庁が事情を説明しない限り、わからないとしか言いようがないです。すでにふれたように古墳や遺物があったとの情報はありません。私は、万葉集にある姉の大伯皇女の移葬の際の歌の「明日よりは 二上山を 弟と我が見む」かなと思っていましたが、鳥谷口古墳調査報告書(以下調査報告書と記します)によれば、『大和志』を参考にした可能性を指摘してます。私も『大和志』を見にゆきました。
『大和志』は、享保19(1734)年になった奈良県の地誌です。大津皇子のお墓に関する記述ではもっとも古いと思われます。それでも大津皇子の死から1050年近くたっていますので、信頼度・正確性の限界を認識しておく必要があります。
そもそも二上山の紹介で、大津皇子の姉の大来皇女(大伯皇女)の歌を紹介しています。
大津皇子の墓は、「二上山二上神社東に在り」と記しています。
「東」という漠然とした方向の表記です。
そして二上山城もあったと触れています。
であるなら、大津皇子の墓は二上山城の中にあるとしてもよさそうです。
ですが、そもそも確たる根拠のない記述に突っ込みを入れてもしょうがないですね。
宮内省が明治9年の治定の際に参考にしたという確証は得られていませんが、他に参考にしたものが見つからないのも事実です。
そもそも二上山は、当時神聖視されていました。中臣寿詞(なかとみのよごと)の中に「天の二上」という表現が見えています。そこにお墓をそれも反逆者のお墓を設けることはあり得ないです。畝傍山、耳成山、天香久山、三輪山の頂上にはお墓がありません。
さらに、二上山頂上の墓は、風水と合致しません。私は風水を信じませんが、当時風水によって選地されていた状況を無視はできません。鳥谷口古墳の立地こそ風水にかなっています。来村多加史氏の「風水と天皇陵」 コラムで鳥谷口古墳について「ダイナミックな選地は感動的である。」と述べてます。ご一読をお勧めします。
iPad教室 日野 211215
午前コースでは、amazonのスマートスピーカー10インチ画面付きをWさんがお持ちになりました。お家でWiFiの接続はなさったそうで、教室ではその後の設定をH講師がお手伝いしました。 amazoneのスマートスピーカーは設定済みでWiFiの設定で終了と思っていて(私の前回購入がそうでした)簡単だったのですが、自己用かそれ以外かを選ぶようになっていた。というのがH講師からの情報でした。
この10インチ画面付きスマートスピーカーは人を追いかけて首振りをします。興味津々ではあったのですが、現物を見て私も含めて皆「次のセールで買おう!」となりました。これはいいです。
Wさんから帰宅後の報告がありました。「WiFiをつなげて楽しく聴いたり見たりしてます」とのことでした。実際に使ってみないと良さはわかりません。1月になったらスマートスピーカーの特別講座を行います。
午後コースでは、アーカイブ・・・・これは難しかった。QRコード、ユニボイスの読み込み。それにコラージュでクリスマスカード、年賀状作りを勉強しました。
実は、H講師から「これをしましょう」と言われてたのを、私がすっかり忘れていました。H講師が少ない時間で駆け足でしました。足りない時間を補うために、作ったものをLINEにアップしましょう。と宿題にしたのですが、皆さん魅力的なカードをアップしました。
皆さん、進化していることを証明しました。
江戸城の不浄門についていただいたコメント
ツツミ様よりコメントをいただきました。ありがとうございます。コメントとしてよりは、記事として掲載するほうが適切と思い、ここに紹介させていただきます。
また、江戸城 平川門 不浄門 に関する記事が何回にもわたっていますので、カテゴリとしてまとめました。過去記事はこのカテゴリーをご覧いただければ、検索の手間が少なくなると思います。よろしくお願い致します。
平川門ゆかりの赤穂浪士討ち入りの日を記念して、参加させて頂きます。将軍の居城の内堀に肥し舟が浮かんでいるような事が、許されたのかどうか、というのは、けっこう重大な問題かも知れません。
まず、先日の(HN)平川門さんのコメントに、浅野内匠頭を乗せる為の乗物が桔梗門(桜田下馬)で待っていた、とありますが、この時桜田下馬に控えていたのは、田村家の目付役や物頭達が乗ってきた馬4頭と、請取部隊75名の内の足軽二十数名です。乗物は、初めは下乗門(大手三の門)外の下乗(もしくは下乗門を入った百人番所の辺り)に控えていましたが、公儀目付の指示で、御殿内の御坊主部屋まで運び込まれ、そこで内匠頭を乗せています。
四年前の今日、「皇居(江戸城)の平川門(2)」へのコメントにお示しした通り、田村右京大夫側の覚書に依り、元禄十四年三月十四日、戸に錠をかけ青網をかけた乗物に乗せられて、浅野内匠頭が、平川高麗門、平川橋の方から城外に出された事は、間違い無いものと思われます。詳しい護送経路も判明していますので、陸上を護送された事も、疑問を差し挟む余地はないようです。15名の六尺を除いた60名の侍・足軽が、網掛けの乗物のまま舟に乗せられた内匠頭を、厳しく取り囲んで護送して行く光景は、ちょっと想像できません。騎馬の4人が、その状態で舟に乗って、堀に架かる橋の下を潜った、とするのも無理があり、何よりも、75名を乗せるだけの数の舟と漕ぎ手を短時間で調達するのは、畳替えの話以上の無理難題でしょう。
以前ご紹介した護送経路等の記録は、要約するために、箇条書きの主要部分のみを原文でお示ししたものですが、当該条文の全文を載せた方が、平川高麗門からの退出が、よりはっきりすると思いますので、この機会に、端折った部分を加えて、平川口からの退出場面を再掲いたします。クォーテーションマークを付けた部分は、乗物が帯曲輪を通って竹橋門の方から出たのでは、説明の付かない記述です。
『一、足輕共其外人馬下馬に差置候、“平川口へ廻り候様仕度”の由申達候處、則其段御小人を以被申遣、内を參候間に、“足輕共平川口迄參罷在候”(平川口まで参り罷り在り候)由』
『一、“平川口より”、(牟岐)平右衛門(原田)源四郎先江乗、(檜川)源五(菅)治左衛門跡に押續き、乗物の廻り侍共嚴敷取包、外に棒持候足輕共取廻、跡に三ッ道具立、道筋“平川口より”大下馬先江、やよすがし(現日比谷通りの和田倉門外から第一生命館辺りまで)、日比谷御門、櫻田、愛宕下通り、此方表門江申の刻入申候』 (※以前のコメントでは、「騎馬の4人が先導」と書きましたが、檜川源五、菅治左衛門は、隊列のしんがりに続いたと読むべきかもしれません。)
そして、四年前に全文を記していますが、幕府の公的な日誌である「祐筆所日記」の同日の記録にも、「平川口通り御乗物にて之を引取る」とある事を、改めてお伝えしておきます。
「絵島生島事件」についても見てみますと、いつぞやご紹介したフジテレビ制作の江戸城城門に関するアプリでは、白襦袢のような姿に縄を打たれた絵島が、素足で引き立てられていく様子が描かれていたように思いますが、これは、史料を無視した全くの出鱈目です。残された記録では、絵島は、大奥御広敷で、親類への当分御預けを申し渡された後、すぐに敷物の無い乗物に乗せられ、その乗物の両戸を開けて中が見える状態で、平川口から出されています(城を出たのは二月二日、評定所の遠流の決定は三月五日)。乗物で護送されているので、これも、舟で護送されたとするのは、無理があります。
それから、「細川宗孝公遭難事件」の際の、平川口からの宗孝主従の退出について、熊本藩に残された覚書の記述を、とうの昔にご紹介していたつもりで、いくつかのコメントを記して参りましたが、確かめてみると、まだお伝えしていなかったようです。
一部の江戸城総絵図の帯曲輪部分に書き込まれた「病人カゴ此口ヨリ出ル」の文言とは異なり、傷病人の退出に、帯曲輪が使用されていない事が、よく判るものですので、以下に記します。延享四年八月十五日、熊本藩主細川宗孝公が、薄暗い殿中の厠で、人違いから刺殺された事件で、瀕死の怪我を負っている(実際は息を引き取っていたと思われる)宗孝一行の退出場面です。時の将軍は九代家重。吉宗は大御所でした。『左候而引取申度由を御目附様江相達勝手次第可仕旨被仰聞候ニ付御駕舁ハ御間者陸尺(六尺)外ハ黒鍬大勢ニ而舁中ノ口より平川御門江御出被成彼方橋際より御手人ニ請取舁せ申候(さ候て、引取り申したき由を、御目付様へ相達し、勝手次第仕るべき旨、仰せ聞けられ候に付き、御駕籠は、御間(殿中)は六尺、外は黒鍬、大勢にて舁き、中ノ口より平川御門へ御出なされ、彼方橋際より、御手人に請取り、舁かせ申し候。)』<br /> このように、城内を幕府側の黒鍬者によって平川門まで運ばれた乗物が、「彼方橋際より」細川家の六尺へと請け渡された事が、はっきりと記されており、血まみれの怪我人である細川宗孝を乗せた乗物が、平川橋を通って城外に出た事も、間違いありません。平川橋際で乗物の受け渡しが行われた、とする記述は、大和郡山藩柳沢家に残る「殿中マナーブック(本来無題の書物で仮題は「御例集」)」に載る、若狭小浜藩主酒井遠江守忠与の病気退出例の注記にある、『御城内は、御駕籠、手前人ニ而ハ為舁不申御作法(手前人にては、舁かせ申さざる御作法)之由。』という記述とも合致しており、この覚書の信憑性の高さも裏付けられます。<br /> また、これらは、江戸城の事情に疎い外部の人間に伝達する目的で記されていますので、「記録するまでも無い当然の事」として、実は竹橋門の方から出ていた、とか、実は舟を使っていた、とかいった事柄を省くなどという事は無いものと思います。尤も、熊本藩の覚書には、本丸で御礼を済ませた藩主達は、西丸の大御所に御礼に回るのが通例だった為に、西丸の下馬の方へ移動して控えていた家臣達が、『平川江廻り候事難成漸刑部卿様御屋敷前ニ而馳付候事(平川へ回り候事、なり難く、漸く刑部卿様御屋敷前(一橋邸前)にて、馳せ付け候事)』と記されていますので、丸の内オアゾの辺りに在った細川藩邸に帰る一行が、陸路をとっていた事は確実です。
また随分と長くなってしまいました。お伝えしたい事は、まだまだ有るのですが、今回はここまでにいたします。
大津皇子のお墓がある二上山城跡
大津皇子の墓に関しては、古墳と寺しか頭になかったのですが、思いがけず『お城』の存在が浮かび上がってきたので調べました。
この地に最初に城を設けたのは楠正成(くすのきまさしげ)=1330年前後=鎌倉末期と伝えられているが、確証はない。とのことです。
記録で確認できるるのが1504年と言いますから、大津皇子没後800年以上過ぎてのことになります。さらに下って1541年に木沢長政が築城したのが現在の二上山城だそうです。
奈良県遺跡地図では範囲しかわかりませんので、城郭大系により詳しい廓の図を参照します
さらに大津皇子の墓の位置が「二の丸」にあったとことがわかる拡大図です
大系では、墓のある場所は、「櫓台か土塁であったと思われる」としています。普通に考えると城の時代は「ならした平坦地」であったと思うのですが、櫓台或いは土塁とした根拠はわかりません。墓域周辺は石垣で補修され、公園化しているので往時の面影はない。ともしています。
(史跡破壊だろう!と、ツッコミを入れたくなります)
ここを宮内庁は、1876年(明治9年)に大津皇子の墓としました。大津皇子没後1200年近く過ぎています。
墓は柵で囲まれていますが、宮内庁からその地形図が公になっています
3mほどの高さの土饅頭状態に盛り土されています。墓の正面からはわかりにくいですが脇からは3mほどの盛り土が確認できます。
「1200年ほどたってから、城跡の一角に3mの高さの盛り土をして、看板と鳥居を立てて囲って墓とした」これが宮内庁治定の二上山墓の実態です。
こうした経過が現地案内板で明らかにされることはありません。
(つづきます)
二上山墓(宮内庁治定の大津皇子の墓)
2018年に仲間と二上山雄岳の頂上付近にあるこのお墓を訪れています。
大津皇子の悲劇を知っていましたので、行きたかったお墓でした。
でも、「ようやく、ここまで来た」という感動はなかったように記憶しています。
中央に鳥居、右手に注意書きのある看板『天武天皇皇子大津皇子 二上山墓』
どこの陵墓にもある共通規格です。「魂を鎮める」という雰囲気に浸るという気持ちになれなかったのは、「陵墓はどこも同じ」ということが気持ちに影響したのだと思います。
ちなみに、天皇、皇后のお墓は「陵」その他の皇族は「墓」と宮内庁では区別してます。また、陵墓に指定することを治定(じじょう)と言います。二上山は、現在は「にじょうさん」と呼びますが、大津皇子の時代には「ふたがみやま」と呼んでます。
今回の旅行で調べていったら、奈良県遺跡地図で、「二上山の頂上はお城(赤枠内がその範囲)」であることがわかって、びっくりしました。
宮内庁が治定した二上山墓(黄丸)は、城跡の中にあります。地図の鳥谷口古墳(緑丸)は、真の大津皇子のお墓です。私は、鳥谷口古墳を「大津皇子の墓とする説もある」とは書きません。その理由は稿を進めていって述べたいと思います。
2018年に二上山に行ったときは、お城であったとは、まったく知りませんでした。
(つづきます)
大津皇子のお墓(カテゴリーを追加しました)
大津皇子に関して、若干の資料・論文に目を通して、私なりの感想を持ちました。まだ、あたりたいと思っていながらあたりきれていない資料などがあります。これから記事が何回かに分かれますので、新しく「大津皇子のお墓」のカテゴリーをこのブログに設けました。関連の記事をまとめて見やすいようにしました。これからの記事もこのカテゴリーに追加してゆきます。
大津皇子(おおつのみこ)は、飛鳥時代686年に謀反の疑いをかけられて24歳の若さで自害させられました。父の天武天皇が亡くなってから一ヶ月も立っていませんでした。
草壁皇子の母の持統天皇(この時点では天武天皇の皇后)が、我が子の皇太子である草壁皇子の存在を将来脅かす恐れのある大津皇子を排除したものです。妃の山辺皇女は、後を追て自殺しました。
大津皇子は妃の山辺皇女と共にどこかに簡略に葬られたのでしょう。そして初葬地の墓から二上山に移されました。その時、斎王として伊勢斎宮にいた、大伯皇女(おおくのひめみこ)が、大和に戻って歌った歌が伝えられています。
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我が見む
大津皇子の母・大田皇女は、持統天皇の姉で、天武天皇の妃です。大津皇子が幼少の時に亡くなりました。大田皇女がはやくに亡くなっていなかったなら、大津皇子の運命も変わっていたでしょう。
大津皇子の御霊を鎮める場所はどこなのか、考えてみます。
初代南極観測船 宗谷
科学未来館の入館の少し前の時間で 南極観測船 宗谷 を見学しました。
無料となっていたので、吸い寄せられるように行ったのですが、入口に係の人がいて、パンフをくれました。保存協力金を入れる募金箱がありました。数百円入れようと思ったら、宗谷の卓上カレンダーを示して、「千円以上ご協力いただけると、このカレンダーを差し上げます。」と言われて「それなら」と千円入れました。未来科学館がドームシアターを含めて千円いかないので、「うまい具合に誘導された」とも思ったのですが、船の実物保存はお金がかかるのでしょうから、よい事をしたと思いなおしました。
船内は、下士官と一般隊員では、個室と数人一緒という具合に部屋が違っていました。ちょっと違和感を感じました。きっと海上保安庁の所属だったので、階級制が船内ではあったのだろうと推察しました。
今となっては大きくはない船ですが、遠くまでよく行ったものです。
小惑星”りゅうぐう”のかけらを見てきました
はやぶさ2が持ち帰ってきた小惑星”りゅうぐう”のかけらが今週中お台場の科学未来館で公開されています。はじめは孫を連れて行こうと思ったのですが、孫の都合がつかず、「学校を休んでも」と、思わぬでもなかったのですが、結局一人で行ってきました。
ドームシアターを予約すると、予約時間の2時間前から入場できます。時間がピンポイントに定められない遠方から行く私にはありがたいシステムです。
はやぶさ2の会場では、帰還した時のビデオが流れていて、帰還した時の感動がよみがえってきます。
はやぶさ2の実物大模型を目の前にしての説明ビデオで詳しくわかります。
帰還カプセルも実物が展示されていました。 大気圏再突入の痕跡が生々しいです。このコーナーは撮影不可でした=写真は転載)
りゅうぐうのかけら
小惑星の表面のかけらと、穴を掘って採取した地下のかけらの2種類が展示されていました。現在も窒素に詰められた状態で保存されているのでしょう。拡大鏡でしっかり見れます。
平日ですいていてゆっくり見ることができました。
iPad 教室 日野 211208
今日は、体調不良でご欠席、荒天が予想されてご欠席が多く、お一人の参加でした。参加者が少ないのはさびしいですが、お一人でも参加希望者がおられるなら、要望にお応えするのが基本方針です。ただし、講師は私一人としました。
スクリーンショットと、地図アプリを勉強して、「二重窓の取り付けのハウツー」をご希望にこたえておこないました。タブレットとは全く関係ないのですが、私が昨年DIYで二重窓を作りましたので、出来の良い例と悪い例の実物を持参してアドバイスしました。関心があっても普段では聴けないことですが、そこはお一人参加の強みです。お役に立てればなんでもOKです。
陵墓への疑問 神武天皇陵について
天皇陵のなかのいくつが、本当にその天皇の陵なのか?現在の学問水準を満たして「ほぼ間違いない」と言える陵は極めて少ない。陵域への学術調査が基本的に認められていない。国民全体の文化遺産がこのような扱いで、我々の歴史を明らかにしようとする道を阻害しているし、訪れた人を惑わしています。
初代神武天皇の陵の決定は、幕末1863年に行われました。
候補として挙がった場所の図(整備前)
整備して陵の体裁を整えた姿
神武天皇が亡くなってから何年後の事か?というのは愚問です。そもそも実在そのもが疑われています。
こうした陵の決定の経過があまり知られていません。
私は御陵印の収集をしています。寺や神社と違ってコンプリート出来るのが魅力です。(すでにコンプリートしています)
陵墓を訪れるモチベ―ションになっています。ただし、これはあくまで趣味です。
神武天皇陵にも3回程訪れていますが、「真実味のない御陵を参拝しても仕方ない」です。来た証として御陵印だけもらっています。
この度、『陵墓』のカテゴリーを設定しました。過去記事も移行していきます。文化遺産を私なりに見てゆきたいと思っています。
旧江戸城 平川門・不浄門について
HN 平川門さんから、コメントをいただきました。誠にありがとうございます。
資料も限られていて、私自身が目を通す資料もさらに限られておりますので、以下は、まったくの私見として述べさせていただきます事、ご了解をお願い致します。
「田村家から浅野内匠頭の引き取りを桔梗門で待っていたいたところ急遽平川門に籠を回した記録がある」とのご指摘を興味深く拝見しました。
松之大廊下とその後の尋問の部屋の位置からすると、近い桔梗門で待つというのは理解できます。ご指摘の通りであれば、殿中を血で怪我した者を「不浄門から出す」という形式・令法に則ったものと理解できます。
『享保年間不浄門はなかった』という西ヶ谷説については、詳細がわかりませんので、評価は控えさせていただきます。
享保年間の絵図では平川門に船着き場があった。
(皇居と江戸城重ね絵図=平成24年発行)この元資料がわかりませんが享保年間の絵図と軌を一にしてます。
元禄の時にすでに船着き場があったのかは不明ですが、形式・令法に則って不浄門に廻すという措置をしたなら、船着き場から内匠頭を出したと私は想像したいです。短ければ対岸で籠に引き渡したのか?どこまで船で行ったのか?想像に想像を重ねることになり、その点はわかりません。城中の糞尿も同様に船着き場から出したのではと考えています。(ご存じのように城中の糞尿は下肥の最高級品)
元禄より前の正保絵図を見ると曲輪は竹橋門に入ることなく門外で接続しているように見えます。
そのように意識すると、さらに前の寛永の絵図も「そうかな」と思えなくもないです。
門の詳細を書くことを目的としてる図ではないので、正確性は求められませんが。
江戸城秘図は、見たときビックリが先に立ち、描かれた年代は確認していません。
先入観で、帯曲輪の初期段階かと思ってしまいました。(今から見ればお粗末でした)
平川門さんと、私の疑問は、当時の人にとって「当たり前の事」で、記録するまでもまでもない事だったのかもしれません。
ご指摘の通り現在の山里門単独では不浄門とされる機能はないです。疑問が残ります。
旅行後も調べ事が楽しいです
旅行中、いただいたパンフレット、チラシ。買い求めた本が重くなって、途中の奈良からそれまでの分は宅急便で送りました。
大津皇子の真のお墓の鳥谷口古墳を訪れた翌日に、(考古学的)調査報告書を読んだのですが、限られた時間だったので、じっくり読みたいと思って探し続けました。調査報告書の他にどういう書籍にこの古墳が触れられているのかも調べ始めました。そして、手に入れたのが『奈良県指定文化財 昭和61年度版(第28集)でした。
調査報告書に載っていた写真もありました。しかし、到底調査報告書に及ぶべくもなく、調査報告書を蔵書しているところを探し続けました。
東京大学史料編纂所で閲覧できることを知りました。校内でも赤門に近いところに編纂所はあるんですね。「いよいよとなったら、そこか」と思っていたところ、都立多摩図書館にあることがわかり行ってきました。じっくり読みました。すると、さらに知りたい事、調べたい事が増えてきました。(行きたいところも出てきました・・・次回以降の旅行のメニューになります)
本を探すという作業が、インターネットネットでできるという利便性をフルに使ってます。旅行後は、好奇心を満たすための小旅行を楽しんでます。
京都・瑞泉寺
瑞泉寺といえば鎌倉の瑞泉寺しか知らなかった私には京都、それも一番の中心地というべき三条大橋近くにある瑞泉寺は衝撃的でした。
千年の都の刑場と言えば、六条河原と三条河原ですが、三条河原に建っているのが”瑞泉寺”です。
豊臣秀吉の甥である秀次が、1595年に「謀反の疑い」で高野山で切腹させられ、その首が晒されたのがこの地です。その首の前で一族39名が処刑されました。
処刑された39名の遺体は、そのまま大きな穴に投げ込まれました。その穴の跡に塚が築かれ、頂上に秀次の首が納められた石櫃が据えられました。
首塚の石塔には「秀次悪逆」と刻まれていたとのことです。「畜生塚」と、きざまれたとも。
首塚があったところが、現在の瑞泉寺の本堂です。
この事件の16年後の1611年に、角倉了以が高瀬川を開削する際に荒廃した塚と石塔を発見し当寺を建てました。現在の墓域です。
秀次の首を入れていた石櫃が残されています。
駒姫は、山形の最上氏の娘で秀次に輿入れしてきて、京都で旅の疲れをいやしているときに、その秀次が高野山で7月15日に切腹させられ、自信は8月2日に39名中11番目に処刑されてしまいました。15歳です。供養塔です。
2013年(平成25年)の発掘調査で秀次のお墓が穴の中から発見されました。
秀吉によるこの粛清は、豊臣家の将来に暗い影を落とすことになりました。この地に来て、天下人秀吉の恐れを知らぬ振る舞いと、秀頼かわいさと、その恐ろしいほどの執念を感じました。
本堂の前に「日付印は自分で押してください。」と、あったのでスッと日付印を押したら、「300円は、箱の中に入れてください」とかいてありました。つまり、これが御朱印だったわけです。
御朱印はもらわないつもりでしたが、結果的にいただくことになりました。
6泊7日の旅の締めくくりが瑞泉寺でした。瑞泉寺を後にして京都駅に歩いて向かいました。が、周りは賑やかだったのですが、自分のところだけは違う空気が流れているように感じました。
iPad教室 日野 211201
午前コースでは、スマートスピーカーの特別講座に備えて、お買い物のチェックをしました。そしてスマートスピーカーが増えると無線ルーターが気になります。2つの周波数の違いの使い分けによって電波の強さと安定性をどうバランスをとるかについての復習をしました。電波の早さのチェックとしてスピードチェッカーアプリをダウンロードしました。
午後コースでは、まずネットオークションの使い方を勉強しました。例として弥生土器や奈良時代の瓦を上げたのですが、H講師から「聞いている女性の立場からは例としてよくない。女性向の例でやってください。」と、もっともなご注意をいただき、ブランドのバッグを例に説明し直しました。続いてストリートビューの復習です。復習と言ってもずいぶん以前の学習でしたのでほぼ初めての感がありました。
さらにH講師からは、LINEでの動くクリスマスカードのプレゼントの実際を行いました。こちらも女性好みで好評でした。
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