長屋王墓
平城京で多くの木簡が出たことで有名な長屋王邸跡は、数年前に行ったときはイトーヨーカドーだったはずですが、お店の名前が変っていました。 長屋王は藤原氏の陰謀により自殺した(させられた)皇族です。平群町にお墓があります。
このお墓にはゆく前から全く信用していませんでした。「どのようにいい加減に決められたのか?」を知りたかったのです。そもそもお墓として定められたのが明治34年です。亡くなってから1200年ほどたってからのことです。
長屋王墓の前に小さな公園があります。たまたまそこに地元の歴史ボランティアの方がおられました。説明版を熱心に見ていたら声をかけてくれ、この小さな古墳が指定されたときのことを話してくれました。「この近くにはいくつか古墳があります。お隣が妃の吉備内親王のお墓です。謀反を図った罪びとは妃ではなく長屋王なので、罪人の長屋王のお墓は小さいほうにした。」とのことです。なるほど理屈は作っているんだ!とは思いました。吉備内親王の古墳(なのでしょうね?)は「ウシヲ塚」と呼ばれていたそうです。この名称と吉備内親王とどう結びつくのか?聞くほうが野暮か。
陵墓に定められ、規格化された鳥居と陵墓名が書かれた表示版が建てられていますが、多くの陵墓の定められた状況は似たり寄ったりです。
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