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長屋王邸跡と藤原仲麻呂邸跡

藤原不比等が亡くなったのが720年。天智、天武両天皇の孫である長屋王が右大臣になったのが721年。血統抜群の長屋王が、不比等の子、藤原4兄弟らの陰謀によって自邸を兵によって囲まれ自殺したのが729年でした。罪名は、聖武天皇の子が1歳で亡くなったのは長屋王が呪詛したからという罪状でした。世にいう”長屋王の変”
1988年に”奈良そごう”建設に伴う発掘調査により”長屋王邸”であったことが明らかになりました。”そごう”が閉店して、”イトーヨーカドー”になりました。そしてヨーカドーも撤退して今は”ミ・ナーラ”という商業施設となっています。地元では「長屋王の呪い」とうわさしているようです。長屋王の変で長屋王と夫人の吉備内親王、そして王子4人も自殺しています。『究極の事故物件』ではあるわけです。ただし私は「呪い」は信じません。
ここから発掘された木簡で研究が大きく進みました。20211121a3
遺跡が保存されなかったことは大変残念に思っています。

道ひとつ隔てて庭園が発掘されています。20211121a4
長屋王の時代の後以降になります。長屋王邸にもこのような庭園があったかと思われます。

さらに徒歩5分ほどで藤原仲麻呂邸(田村第、或いは田村宮とも)跡はあります。20211121a5
仲麻呂も右大臣になり、意中の人物を天皇につけるなど、権勢を誇りましたが、764年に孝謙天皇に対して反乱を起こし、乱は、わずか数日で鎮圧されて、最期は近江で斬首されました。日本史上、最大の転落劇と思っています。入れ替わるかたちで威勢を伸ばしてきたのが道鏡です。
今はほとんど住宅地となっています。「田村第」とも呼ばれるのは天皇が滞在していたことによるものです。発掘調査報告書がネット上で公開されています。20211121a8
大いに参考になることは言うまでもありません。
発掘調査されたのは推定値のほんの一部です。全体が明らかになっっているわけではありません。
一角に岩がありました。20211121a6
本来、岩があるような場所ではありません。が、仲麻呂邸の庭園の岩かな?と勝手に想像しました。
奈良には魅力的な仏像がたくさんあります。しかし、奈良時代は、権力争い、謀略、血生臭い事件、パンデミックと多難な時代でした。仏像はその裏返しの反映と思っています。

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