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2021年11月

園城寺(おんじょうじ=三井寺)

源義光がその神前で元服したという新羅善神堂をすでに訪れていたので、訪問目的の半分は達していました。寺域狭くなったため、新羅善堂は現在のメインの境内から離れてしまっています。それでもやってきました。
閼伽井屋20211130b5
別名三井寺の由来となった井戸を覆っています。天智天皇、天武天皇、持統天皇が産湯に用いた井戸だというそうです。20211130b1 それホント?とのツッコミはやめておきます。今も水が湧き出ていました。
霊鐘堂20211130b2
弁慶が引きずった痕が残るという鐘です。20211130b3
これは近江八景の「三井の晩鐘」の鐘ではありません。鐘そのものは奈良時代のもののようです。

ミュージアム
比叡山などから度々焼き討ちにあっていますが、それでも寺宝は多いのですしょうが、ミュージアムは期待外れでした。

時代劇映画の撮影をしていました。20211130b4
20211130b6
撮影地として便利なのでしょう。

非公開の塔頭も多いように感じました。拍子抜けでした。
フェノロサのお墓に参る予定にしてましたが、時間切れとなってしまいました。(11月7日)

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そこにはエサとなる小魚はいないよ

よく通る小さな橋のそばでアオサギがエサの小魚を狙っていました。20211130a1
でも、そこはほぼ水たまり。水草で水面がおおわれて見えないのだろうけど、小魚はいないはずです。

ここは二百年前のメタセコイアの化石があるところです。琥珀は採れても、そこにはエサはありませんよ

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武蔵国分寺跡

実に久し振りに行きました。前回行ったのはいつのことか?記憶の外になっています。20211128a8
20211128a1

金堂跡20211128a2
塔跡20211128a3 20211128a4
心礎は残っているようですが、地中にあるようです。伽藍図では塔が二つ並んでいますが、片方からは礎石が発見されず二塔が同時併存していた可能性は低そうです。
観世音菩薩立像20211128a5
資料館に展示されていました。30cmほどの小さな仏様です。関東地方で知られている白鳳仏としては最も古い像と考えられています。古代の道路に当たるところから発見されたそうです。何か混乱の中で失われ埋もれてしまったように見受けられます。

東山道武蔵路20211128a6
大部分は調査後、埋め戻されましたが一部がだけ観察できるようになっています。20211128a7
この道は支線ですが、幅12メートルほどあります。古代の道路は立派です。

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橿原考古学研究所付属博物館 見学

今月3日にリニューアルオープンした2日後に行きました。お祝いの花が飾られています。20211127a1
シニアは入館料が無料なのが嬉しいです。何回も来ていますので、「どこが変ったのだろう?」という興味がありました。
最初の展示室(特別展示室)には、黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡33面と画文隊神獣鏡1面が展示されていました。20211127a2
高松塚古墳の壁画が陶板で再現されていたのも目玉展示でしょうか。
奈良で見た古墳の出土品が見られるのが良いです。今回行った烏土塚古墳の出土品もありましたし、牽牛子塚古墳(斉明天皇の真陵)の出土品もあらためて注目して見ました。20211127a3
この日の目的の一つに「鳥谷口古墳の発掘調査書を見たいがあったのですが、情報コーナーにバッチリありました。お聞きしたところ、「閲覧のみで、コピーはここではできません。向かいの研究所で聞いてみてください。」とのことでした。残念ながら時間が無いので気になるところをメモしてきました。鳥谷口古墳が大津皇子のお墓であることをさらに強く感じました。


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鳥谷口古墳(大津皇子真のお墓)

持統天皇によって「謀反の計画あり」と、死に追い込まれた大津皇子のお墓が二上山・雄岳に宮内庁によって治定されています。ですが、昭和58年に発見された鳥谷口古墳は、橿原考古学研究所の調査によって「大津皇子のお墓の可能性が大きい」とされています。(この件に関してはあらためて触れます)
電動レンタサイクルのバッテリーがついていない状態で坂道を押しながらフーフー言いながら上がってきました。池越しに遠目からも鳥谷口古墳が見えます。20211117a1
この光景が目に入ってきたときは嬉しかったです。昭和58年に、この池の堤防修復の際の土取りの際に、古墳は偶然発見されました。古代にはこの池はなかったのでこの風景は現代風というべきです。
封土はなく、石室が覆い家の中に保護されています。20211117a2 20211117a3
古墳からの眺めは良いです。20211117a5
大和三山が望まれます。
二上山への登山道(ハイキングコース)に案内板が建っています。20211117a4

案内板には、山上の宮内庁によって作られた大津皇子の墓に遠慮してか「間に合わせ的な作り方になっている」と示唆さするだけで、大津皇子の墓の可能性にはまったく触れられていません。
二上山へのハイカーはほとんど素通りです。20211117a41
案内板が大津皇子に触れていれば少しは道から上がってくるハイカーもいるのでしょうが。

皇子の魂を鎮める気持ちで去りがたく1時間ほどいました。撮影のために上がってきた方が2人。この人はこの古墳の意味を知っているのでしょう。
そうこうするうち1組のご夫婦が案内板のところで悩んでいましたが、上がってきました。嬉しくて頼まれもしないのに説明しました。名古屋からハイキングに来ているそうです。

古墳は盗掘にあって、遺物はほとんど残っていなかったそうです。石棺にあいている穴は四角形で明らかに盗掘口とは違います。20211117a31
ある時期「祠」として使われたのか?それならまったく忘れ去られるというのは理解できません。なぜ四角いのか?知りたくなりました。

 

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大津皇子の初葬地候補 加守廃寺、石光寺、高尾寺

今回の旅行の大きな目的の一つは大津皇子の真陵の可能性が高い鳥谷口古墳を訪れることでした。その前に。大津皇子が初めに葬られたところを訪ねたいと思っていました。(11月4日訪問)
加守廃寺
最も可能性の高いお寺(廃寺)と思っていました。神社の裏手との情報は持っていたのですが、よくわかりません。ご近所の方に伺ったところ
「この先、すぐだけど、草ぼうぼうで何もないよ!」私は「石碑かなんかもないんですか?」と聞き返したのですが首をかしげるばかりでした。あまりにも身近な場所って、いざ聞かれるとわからないものです。お礼を言って、返答には気にせずに歩いてゆきました。説明版はあるじゃないか!20211125a1 20211125a2
ところが、「草ぼうぼうで何もない」はまさにその通りでした。20211125a3
ここは『長六角形のお堂」が発掘調査で発見されました。珍しい特殊な形のお堂で、大津皇子の初葬地候補の筆頭です。それなのに「草ぼうぼう」で放置されているとは!少し怒りがこみ上げてきました。

石光寺
小さなお寺ですが、大きな塔心礎があってビックリです。20211125a5
写真ではくりぬきが2段しか見えませんが、3段になっています。20211125a6
珍しいです。初めて見ました。最盛期はさぞや立派な伽藍が並び立っていたのだろうことは、容易に想像できました。20211125a7

高尾寺
白鳳年間の創建との伝えですので、大津皇子の初葬地候補です。が、現在無住のようです。20211125a4

大津皇子は、初葬地から”移葬”されました。”改葬”ではありません。ただ、この言葉の違いをこの時点では意識していませんでした。

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IOCのバッハ会長はだめでしょう!

東京オリンピックの時も、IOCの横暴を感じていました。しかし、一方で「スポーツの感動」もありますので、末端での役割としてボランティア活動をしました。これは私にとっても楽しく素晴らしい経験でした。
そんな余韻の中、中国政府が人権をないがしろにし、隠ぺいを図っていることが批判されています。北京オリンピック・中国政府への批判を高まってゆく中、バッハ会長が中国政府のプロパガンダの一翼を担うような行動がありました。「スポーツに政治を持ち込むな」という中で、バッハ会長自身が、政治的な動きをしています。うんざりしています。
そして、中国にオリンピックを開催する資格があるのか、私は疑問に思っています。

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iPad教室 日野 211124

1月からスマートスピーカーの講習を期間限定で行います。これは、お勧めしてスマートスピーカーを購入して使っておられる方がいます。しかし、持っている機能の多くを使っていないように見受けられるのです。勧めるだけ勧めて通常の講座を優先していて系統だった学習をしていませんでした。従って、私達講師陣の責任が強いのです。この間にスマートスピーカーの導入の不都合な事例も経験しました。そこでおくらばせながら、通常講座とは別に計画を立てました。
今日の教室は、まだお持ちで無い方にスマートスピーカができることを紹介しました。
大半の時間をスマートスピーカーに費やして、残りの時間で、Air Dropで写真を送る際の注意点を勉強しました。iOS15になって、写真の位置情報が地図にしめされるようになりました。Air Dropで送ると、写真についている地図まで送られてしまいます。便利ではありますが、セキュリティー上の問題が少なからずあります。注意の必要性と地図情報を添えないで Air Drop で送る方法を実験しました。

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長屋王邸跡と藤原仲麻呂邸跡

藤原不比等が亡くなったのが720年。天智、天武両天皇の孫である長屋王が右大臣になったのが721年。血統抜群の長屋王が、不比等の子、藤原4兄弟らの陰謀によって自邸を兵によって囲まれ自殺したのが729年でした。罪名は、聖武天皇の子が1歳で亡くなったのは長屋王が呪詛したからという罪状でした。世にいう”長屋王の変”
1988年に”奈良そごう”建設に伴う発掘調査により”長屋王邸”であったことが明らかになりました。”そごう”が閉店して、”イトーヨーカドー”になりました。そしてヨーカドーも撤退して今は”ミ・ナーラ”という商業施設となっています。地元では「長屋王の呪い」とうわさしているようです。長屋王の変で長屋王と夫人の吉備内親王、そして王子4人も自殺しています。『究極の事故物件』ではあるわけです。ただし私は「呪い」は信じません。
ここから発掘された木簡で研究が大きく進みました。20211121a3
遺跡が保存されなかったことは大変残念に思っています。

道ひとつ隔てて庭園が発掘されています。20211121a4
長屋王の時代の後以降になります。長屋王邸にもこのような庭園があったかと思われます。

さらに徒歩5分ほどで藤原仲麻呂邸(田村第、或いは田村宮とも)跡はあります。20211121a5
仲麻呂も右大臣になり、意中の人物を天皇につけるなど、権勢を誇りましたが、764年に孝謙天皇に対して反乱を起こし、乱は、わずか数日で鎮圧されて、最期は近江で斬首されました。日本史上、最大の転落劇と思っています。入れ替わるかたちで威勢を伸ばしてきたのが道鏡です。
今はほとんど住宅地となっています。「田村第」とも呼ばれるのは天皇が滞在していたことによるものです。発掘調査報告書がネット上で公開されています。20211121a8
大いに参考になることは言うまでもありません。
発掘調査されたのは推定値のほんの一部です。全体が明らかになっっているわけではありません。
一角に岩がありました。20211121a6
本来、岩があるような場所ではありません。が、仲麻呂邸の庭園の岩かな?と勝手に想像しました。
奈良には魅力的な仏像がたくさんあります。しかし、奈良時代は、権力争い、謀略、血生臭い事件、パンデミックと多難な時代でした。仏像はその裏返しの反映と思っています。

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平城京の超エリートの邸宅

奈良に行ってて、面白いと思っていたのが、平城京の中の超エリートの邸宅の位置でした。
(時代順)藤原不比等、長屋王、藤原仲麻呂の邸跡が、ほぼ南北に連なっています。20211121a1
何回か現地に行ってて単に『面白いな!』と思っていたのですが、今回、現地でハタと気づきました。
キーワードは『庭園』です。この平面図を見ていてもわからないのですが、現地へ行くと川が流れています。(当時も流れていました)庭に水を引くことができる場所は平城京の中でも限られています。赤丸で追加記入したところにも庭園があります。超エリートの邸宅には庭園があります。貴人や外国の使節を応対するには欠かせない施設です。(飲料水は川の水ではなく井戸水を使っていました)
きっとどこかの本には書いてあるんだろうと思うのですが、自分で気づくということが、嬉しいのです。
この図で一点、クエスチョンに思うところがあります。不比等邸を海龍王寺としている点です。他の資料は法華寺を中心とするもう少し大きな区画となっています。時間の変化なのか?発掘調査がされていないくて確定できていないのか?この点は未解明です。新たな疑問が生まれました。

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大津事件

明治24年、大津市の東海道で、ロシア皇太子がこともあろうに警備にあたっていた津田巡査に切りかかられました。その現場跡に行きました。
天皇が急遽皇太子を見舞い、大臣が責任を負って辞任するなど、大きな波紋を起こしました。さらに政治のサイドから犯人に「死刑を宣告する」よう様々な圧力が加えられました。しかし、「こともあろうにの事件」であっても、圧力に屈することなく、法律通り「無期懲役」の判決が下されました。司法の独立を守った事件として有名です。
現場は旧東海道で、雑踏ということはありません。静かでした。20211119b1 20211119b2
昨今の「森かけ問題」など、政治権力の横暴さを見るにつけ、「理非をただす」ことの今日的課題を考えずにはいられません。(11月6日訪問)

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第42回八王子 いちょう祭り

数年ぶりの再開です。主会場の綾南公園での 出店縮小、イベントの見送り。
甲州街道沿いの出店もかなり少なかったです。20211120a2
ですが、ようやくwithコロナなのか、afterコロナなのか?それなりに人出がありました。20211120a1
人混みを気にしながらも、お祭りの雰囲気を味わいました。

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膳所(ぜぜ)城址

琵琶湖岸の城として、明智光秀が築いた坂本城が廃城となり、続いて豊臣秀吉の命で大津城が築かれました。関ヶ原後、石田三成が家康と対面し城門にさらされました。三成の無念の気持ちを思うと、何とも言えない気持ちになります。そしてこの城も廃城となり。家康の命で膳所城が築かれました。(三城とも大津市にあります)
膳所城も明治維新後廃城となり、現在は本丸跡がかろうじて公園として残るという状態になっています。

かつての膳所城20211119a3
膳所城資料館で展示されていた模型です。

20211119a1
琵琶湖の水位が下がって、かつての石垣の一部が見られました。

比叡山にあった石地蔵(本丸跡)20211119a2
(説明版によれば)比叡山を焼き討ちした織田信長の命によって、比叡山の山中にあった地蔵が坂本城の石垣として使われました。墓石や石仏が城の石垣に使われることは珍しくはありませんが、信長の執念が、感じられます。坂本城が廃城になると大津城の石垣に使われ、さらに大津城の廃城にともなって膳所城の石垣に使われていました。地元の方が熱心にお参りしていました。石仏に負わされた歴史を感じました。(11月6日訪問)

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清和源氏の史蹟をめぐる

河内源氏の史蹟を訪ねていた時から、その本の清和源氏の史蹟を訪ねたいと思っていました。今回の旅行でその一端を果たしました。

清和天皇火葬塚
京都市左京区にある金戒光明寺の奥に清和天皇を火葬した場所が火葬塚として残っています。
金戒光明寺にある墓としている本を見ましたが、墓ではなく火葬したところです。さらに言えば金戒光明寺が建てられる前に火葬されています。
20211118a1 20211118a2
御陵は洛西・水尾にあります。(11月7日訪問)

六孫王神社
京都駅近くにあります。清和天皇の第六皇子・貞純親王の子つまり孫(神社名の由来です)の源経基の屋敷跡です。本殿の後ろに経基の廟と伝わるイシダンが残っているそうです。日程の都合で夜に行きました。廟を拝むことができるのかどうかわかりませんが、それ以上に賽銭泥棒と間違われないようにしなければいけないので、早々に退散してきました。20211118a3 (11月5日訪問)

園城寺(三井寺)新羅善神堂
源義光がこの殿社の前で元服しました。新羅三郎義光の名は、このことに由来していることを知りました。園城寺の中の鎮守ではありますが、現在は園城寺の伽藍からは離れています。20211118a5 20211118a4
(11月6日訪問)

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iPad教室 日野 211117

午前の部では,iPad、iPhoneへのチャージの実践です。チャージ金額の残高確認から、アップルミュージックから楽曲の購入、LINEのスタンプ購入で、iTuneカードでチャージした残高から引かれていることを確認しました。キャリアから引かれる方法もありますので、チャージは整理しておかなければ理解しにくい事項です。amazonからのフィッシング詐欺のメッセージがあり、その見分け方も復習ですが勉強しました。詐欺に引っかからないためにも繰り返し行う意味があります。

午後の部は、コラージュの勉強です。旅行に行ってLINEなどに要領よく記事を投稿するときに重宝です。手慣れたH講師が進めました。私もLINEでコラージュをよく使いますので、オプションを買ってもいいかなと思ったのですが、意外と購入金額が高くて断念しました。以前はそれほど高くなかった印象があります。アプリの人気が高まると値段も高くなることがよくあります。私の場合は買う機会を失ったかな?といった感じです。

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長谷本寺

11月4日は、私は橿原神宮前駅前のホテルから二上山に電動自転車を借りて向かっていました。二上山を目標に走ってゆけばよいので地図もいりません。古代の道・横大路を走ればよいだけです。横大路は自転車で走っていて雰囲気が良く。楽しいです。

途中で長谷本寺に寄りました。20211116a1
旧大和国から出る東に有名な長谷寺があります。そして西の出口に長谷本寺があります。私の知識はここまででした。
ご本尊は十一面観音です。20211116a2
あとで知ったことですが、長谷寺の本尊は室町期の再建で、この長谷本寺の像をもとに再建されたとの話があります。この時点ではそのようなことも知りませんでした。目についたのは本堂の前に置かれた「仏像の足」です。国宝級の仏像の足を修理の際切り離した。ということに度肝を抜かれました。20211116a4 20211116a3
しかも、平安時代の仏像の足に直に触れてよいというのです。またまた、びっくり!遠慮なく触らさせていただきました。
橿原神宮前駅からここまではほぼ平坦です。この時点では気づかなくて、このあと、香芝市の二上山博物館に着いたところで、『電動自転車にバッテリーがついていない!これから古墳に行くのでこれからが坂道なのに!』と、どこかで落としてしまったのか?びっくりするやら、がっかりするやら、・・・・。 帰りは、畝傍山を目標に帰るので、これまた地図はいりません。そして、結局、夕方レンタサイクル店に帰ったところで、借りた朝の時点でバッテリーを装着し忘れた。ということで全額返金にはなりました。20211116a5 仏様の足に触れたご利益だったのでしょうか?完走はしました。ただ、もう一カ所の目標地点にはゆけませんでした。
このことを話したら大笑いされました。長い坂道を自転車を押してあげるなど、本人としては大変でした。

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義仲寺(滋賀県大津市)

木曽義仲のお墓がある寺です。11月6日に行きました。木曽義仲が命を落とした粟津ヶ原にあります。鎌倉時代後期の文書に木曽塚、木曽寺、義仲寺と見えます。その後は荒廃します。貞享年間(1684~1688年)に大修理が行われます。このころ俳人の松尾芭蕉がしきりに訪れ、「骸は木曽塚に送るべし」と遺言し、大阪で亡くなった後、遺骸は門人たちによって当寺に運ばれお墓が建てられました。
木曽義仲公の墓20211115a1
芭蕉翁の墓20211115a5

境内に句碑が20ほどあります。その一つ有名な句です
『木曽殿と背中合わせの寒さかな』20211115a4
私も一句「芭蕉殿ととなり合わせの秋の朝」とパクり気味に詠みました。朝日が差し込んでいました。20211115a8 実は季語を「冬日和」としたのですが、立冬の前日だったので、冬日和を秋の朝と季語を変えました。ちなみに木曽義仲は「朝日将軍」と号されました。
20211115a7 義仲公と芭蕉翁の墓の位置は、門弟其角の「木曽塚の右に葬る」とあって、今も当時のままであることがわかります。

境内の芭蕉の木が花をつけていました。20211115a6
4~5年に一回しか咲かないそうです。ただ、咲くのは今の時期ではないそうです。ようやくやってきた私を歓迎してくれたと、思うことにしました。

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弘文天皇陵

今月6日に弘文天皇陵を訪れました。20211114a1
大津市役所の真後ろにあるのですが、市役所の左からは行けず、大きく右から回り込みました。
弘文天皇と言ってもピンとこないと思います。天智天皇の子、大友皇子です。壬申の乱で天武天皇に敗れ自害しました。民間伝承で各地に大友皇子の墓と称するものがたくさんあります。そうした中で、およそ1200年後の明治3年になって、大友皇子に弘文天皇の名前がおくられ天皇になりました。天皇となれば御陵が必要です。現在見る地の小古墳を御陵としました。また、関ヶ原古戦場の近辺で不破の関があり、自害した大友皇子の首を埋めたという伝承地”自害峯の三本杉”というところがあります。こちらも宮内庁によって御陵参考地となっています。関ヶ原古戦場巡りの際、立ち寄ったことがあります。木の周りが立ち入り禁止となっていました。

幕末から明治にかけての「尊王の嵐」の残滓が”無理やりお墓を作った”という形で、今なお目に入ってきます。

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ラグビー 日本vsポルトガル

日本時間の深夜でしたので録画して見ました。ネットのニュースで「辛勝」と出ていたので、結果を知ったうえで見ました。確かに終盤逆転される可能性のある場面もありましたが、「辛勝」という感じはしませんでした。テストマッチは結果が大切です。「勝った」という結果こそ大切です。試合後のヘッドコーチのインタビューでも「次のスコットランド戦が大切。今日の勝利を喜びたい。」と言ってました。
久し振りにテレビではありますがラグビーの試合を見ました。知らない選手が多かった。ですが、試合後の両チーム、会場の雰囲気。ラグビーのもつ良さが変らず、嬉しかったです。

試合結果
日本 38 ー 25 ポルトガル

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平安時代の平安京

今日の新聞記事で、オーッと注目したのは『平安京の内裏跡 初の発見』の記事です。記事を読み進むと、すでに埋め戻したとあるので少しがっかりはしました。ずーっと思っていたのが、「京都と言えば『道長や源氏物語の平安時代』しかし、実際に京都で見ているのは、室町以降が多いです。平安時代を見よう!」というのが、今回の旅行のテーマの一つでした。タイミングが良いと言えばよい記事でした。
今月7日は、”京都市平安京創生館”が出発点でした。平安時代の京都の模型が圧倒的でした。20211113a1
ここで手に入れた図録ごこれからの史跡めぐりの友となります。
平安京創生館の場所が、そもそも平安宮の造酒司跡です。20211113a2
朝堂院、大極殿と回りました。20211113a3 20211113a4
そして豊楽殿にも回りました。ここは埋め戻した跡地として空き地状態でした。図録の中の地図で大極殿は”05”今回新聞発表の内裏は”08”です。
20211113a6
平安時代はほとんど地下になっています。いきおい石碑巡りになるでしょうが、これから想像力で平安京を巡りを楽しんでゆこうと、思っています。

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唐子鍵遺跡と纏向遺跡

纏向遺跡には、今まで何度もすぐ近くまで行ってたのですが、時間の都合(レンタサイクルを返す時間が迫り)で断念してましたが、ようやく3日に行きました。唐子鍵遺跡には5日に行きました。両遺跡はそんなに離れていませんが、所在地の自治体が桜井市と田原本町と別れています。
時代的には唐子鍵遺跡が先で、ここから纏向遺跡に移っていったようです。

唐子鍵遺跡のシンボルともいえる楼閣は、溜池の中に建っていました。20211112b2
出土した土器に描かれていましたが、遺物・遺構が出土したわけではありません。溜池は江戸時代に作られました。その時に、いってみれば遺跡破壊が行われてしまったと思われます。楼閣の蕨のようなくるっとしたものは写真なので見ると違和感を感じますが、復元された建物を見ると違和感は感じなくなりました。20211112b3 発掘状態の遺跡もそのまま保存されたりしています。

纏向遺跡は、唐子鍵遺跡に比べると範囲が狭いです。周囲の住宅化が進んだせいでしょうか。20211112b1 纏向石塚古墳など近隣の古墳も併せてめぐってきました。

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「最澄と天台宗のすべて」展

上野の国立博物館に行ってきました。20211112a3
法隆寺展に比べるともう一つ熱が入りませんでした。会期末まじかとなったてようやく行ったのはそのためです。が、比叡山・天台宗が日本の仏教の大きな幹であることがよくわかりました。良かったです。行くのが遅かったため「最澄図」が展示替えのためレプリカとなっていたのは残念に思いました。20211112a1
江戸時代には、幕府をバックに寛永寺が天台宗の中で重きをなしてきて、山寺(山形)から仏像を移すなど、幕府の威光を背にした時代背景も見て取れました。
慈円の直筆が見れたのも良かったし、嵯峨天皇のさすがは三筆という筆さばきを見れたのも良かったです。20211112a2
この展示会に合わせて本館で浅草寺の仏像の特集展示が行われていました。

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長屋王墓

平城京で多くの木簡が出たことで有名な長屋王邸跡は、数年前に行ったときはイトーヨーカドーだったはずですが、お店の名前が変っていました。
20211111a1 長屋王は藤原氏の陰謀により自殺した(させられた)皇族です。平群町にお墓があります。
このお墓にはゆく前から全く信用していませんでした。「どのようにいい加減に決められたのか?」を知りたかったのです。そもそもお墓として定められたのが明治34年です。亡くなってから1200年ほどたってからのことです。20211111a2
長屋王墓の前に小さな公園があります。たまたまそこに地元の歴史ボランティアの方がおられました。説明版を熱心に見ていたら声をかけてくれ、この小さな古墳が指定されたときのことを話してくれました。「この近くにはいくつか古墳があります。お隣が妃の吉備内親王のお墓です。謀反を図った罪びとは妃ではなく長屋王なので、罪人の長屋王のお墓は小さいほうにした。」とのことです。なるほど理屈は作っているんだ!とは思いました。吉備内親王の古墳(なのでしょうね?)は「ウシヲ塚」と呼ばれていたそうです。この名称と吉備内親王とどう結びつくのか?聞くほうが野暮か。20211111a3 20211111a4
陵墓に定められ、規格化された鳥居と陵墓名が書かれた表示版が建てられていますが、多くの陵墓の定められた状況は似たり寄ったりです。

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奈良・平群の古墳

奈良県北西部、法隆寺の斑鳩町の隣にある平郡町の古墳を訪ねました。古代氏族の葛城氏や蘇我氏のイメージはある程度わくのですが、平群氏はどうなんだろう?ということで、法隆寺の前からレンタサイクルを借りて11月2日に行きました。
烏土塚古墳
町役場で鍵を扉を開けて入ります。20211110a1
見回りなど、古墳の管理に人手がかるのでしょうが、行政のこうした姿勢に拍手を送りたいです。古墳は6世紀後半の前方後円墳で、20211110a2

石室内の高さは4.3メートルあり高いです。20211110a3
これほどの高さは少ないと思います。出土品の一部は橿原考古学研究所付属博物館に展示されていました。
西宮古墳
7世紀中葉の方墳です。20211110b1

石棺の身の部分が残っています。20211110b2
兵庫県竜山石製です。石室の石はきれいに加工されピタッとあわされていて見るからに後期古墳です。
三里古墳
玄室の上部は失われています。奥壁に棚が設けられています。20211110c1

紀伊地方に類例があるようですが、珍しい例のようです。私は初めて見ました。
ツボリ山古墳
見つけずらかったです。近所の方に場所を伺いました。その様子を見ていた水道工事の交通整理をしている方が、興味があったのでしょう。私についてきました。ただし、遠慮して石室内には入ってきませんでした。7世紀初頭です。くりぬき式家形石棺です。石棺の蓋は半分だけ残っていました。20211110d1
被葬者は身分の高い人だと思われます。
歴史パンフレットを300円で買いました。平群にはあといくつか見たい古墳があります。

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iPad教室 日野 211110

先週は、施設が祝日で閉館でしたので2週間ぶりの教室でした。この休みを利用してHさんも私もそれぞれ旅行を楽しんできました。20211110e1
前回に続いて、Nさんが新しいiPadにいままでのiPadの内容をコピーしました。H講師が手際よく進めました。WiFiのルーターの情報までコピーするんですね。初めて知りました。今日の内容は「電話をかける」でした。あまりに基本的過ぎると思ったのですが、前回に「やっぱりきちっとおさらいしておく必要があるね」と相談して今日勉強しました。きちっとしてよかったです。

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法隆寺・夢殿 救世観音を拝観

11月2日に秘仏救世観音の開扉に合わせて行ってきました。法隆寺は午前8時から開門です。混雑を予測して午前8時に法隆寺に入りました。20211109a1

境内では参拝客は見えず僧の方が掃除をしていました。西院伽藍は通り抜けてまっしぐらに夢殿へ向かいました。20211109a2参道ではお店の人が出店の準備をしている人のみです。20211109a3
夢殿の門をくぐって・・・・まだ誰もいません! 拍子抜けです。堂内の暗さに目がなれるようするなど、じっくり拝観しました。
ここの窓から拝観するのですが、20211109a4 全身を見れる位置は一カ所です。長い期間白い布でぐるぐる巻きになっていたせいか、金色の輝きが強く目に入ってきます。その後、参拝者がポチポチ現れますが、遠慮なくほぼ独占状態で見入ってました。かなりの時間見ていて戻らなかったので、お寺の方が不審に思ったのか?様子を見に来ました。私は、じっくり至福の時を過ごしていただけです。”平日に朝一番のり”の計画が功を奏しました。20211109a5 
夢殿におられる寺の方は「くせかんのん」と濁らずに呼んでいました。
帰り際に「救世観音さんと背中合わせの仏様は扉が閉まっていて脇からちょこっとしか見えないのですが?」と質問したところ堂内の図を確認して「秘仏ですので公開していません。」とのこと。どうやら秘仏をのぞき見してしまったようです。

西院伽藍に戻って、「夢殿にまっすぐ行ってしまったので、」と説明したら、「再入場ですね。」とあっさり入場を許してくれました。特別公開の3日間だけの特別公開の上御堂も拝観することができました。
ダメもとで「若草伽藍は見れないんですよね?」とお聞きしたところ「何にもありませんよ。」と。「塔心礎を一目見たいのです。ぜひ期間限定で良いので公開を考えて下さい。」とお願いしておきました。

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三輪山登拝(大神神社ご神体)

11月1日~7日までの旅行中は、なかなか詳しくは書ききれませんのでいくつかピックアップして記事を書いてゆきます。

大和一宮の大神神社のご神体は三輪山です。本殿はありません。20211108a2 20211108a1_20211108234301

  禁足地があります。何より神体山ですから登れるとは全く思わず、ただ、三輪山は仰ぎ見る山でした。しかし神社のホームページを見ていたら、登れることが許されると知ってびっくりしました。旅行前からワクワクしていました。
拝殿で参拝し、御朱印をいただきました。20211108c2_20211108234501
御朱印は書置きを配布するのですが、御朱印帳を申し込んだ場合は書き込んでもらえます。20211108c1
 私の御朱印帳に書き込んでいるのを見た若い女性が理由を聞いて新たに御朱印帳を求めるか?しばし考えていました。(本当は書き込んで欲しいのです)

神域に入る前に「ひとがた」を左肩→右肩→左肩の順で祓い清めます。20211108b1
白装束の代わりにいただいた襟を身に着けます。20211108b2
神域内は、当然撮影は不可、一木一草持ち帰りもダメです。20211108b3
私は大きな磐座があると想像していたのですが、1~3mくらいの磐座が広がっていました。線刻があるように見れなくもない磐座やスパッと切ったような磐座もあり不思議な感じでした。参道では傾斜が急なところもあり足元はきちっとしていかないといけません。裸足になっている人に何人か会いました。白装束に裸足の女性にもすれ違いました。これが本来のいでたちであることがわかりました。貴重な経験でした。また訪れてみたいです。

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6泊7日の旅行を終えました

5日に奈良から京都に移動して、夕食後、夜道を六孫王神社に行きました。
6日は、大津に行き、義仲寺→膳所城跡→膳所城資料館→本多神社→今井兼平の墓→弘文天皇陵→大津市歴史博物館→園城寺→大津事件現場跡地
7日は、京都市内です。平安京創生館→豊楽殿跡→朝堂院跡→大極殿跡→清和天皇火葬塚→会津藩士墓地→金戒光明寺→瑞泉寺 と回りました。

たっぷり楽しんできた6泊7日でした。明日以降、ピックアップしながら順次紹介してゆきます。

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奈良旅の最終日

今日は、まず橿原考古学研究所付属博物館を訪れました。この地に個人旅行できた時には毎回訪れています。今回は、2日前にリニューアルオープンしたばかりでラッキーでした。展示が見やすくなったように感じました。鳥谷口古墳の発掘調査報告書を閲覧でき良かったです。

午後は、唐古・鍵遺跡を周って奈良での今回の旅は終了です。1ccc9c9bb7e24789aa93a623d5001bd6

夕方京都に着ました。旅行はもうすこし続きます。

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鳥谷口古墳などを巡りました

橿原神宮前から電動のレンタサイクルで二上山の麓の史蹟を目指しました。1時間半程は平地で、目標に近づいてアシストの電源スイッチを押したのに反応がありません。なんとバッテリーが無いことに気付きました。ガックリ!

長谷本寺→二上山博物館→加守廃寺→石光寺→傘堂→鳥谷口古墳→当麻寺 奥の院

真の大津皇子のお墓と見られる鳥谷口古墳0bece065f423401a8a2ee2b6dcbea6bc

オーラがありました。

旅行中の史蹟については旅行後、あらためて書きたいとおもっています。

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三輪山に登拝

大神神社の御神体である三輪山に登ってきました。(登山ではなく登拝と言います)そもそも禁足地も有り拝殿のみで本殿は無い御神体そのものに入域できるとは思ってもおりませんでした。9ef3e891e83f400e8d7be0a6a87f35de

登拝のあとは、桧原神社(元伊勢・・・・現在の伊勢神宮の故地です)→茅原大塚古墳→珠城山古墳→纏向遺跡→纏向石塚古墳→勝山古墳→矢塚古墳→東田大塚古墳→桜井市埋蔵文化財センターと廻って来ました。


 

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法隆寺・夢殿から平群の古墳

今日は、法隆寺へ一番乗り!夢殿の救世観音にご対面!その後上御堂などの堂宇をめがぐって、レンタサイクルで平群の古墳めぐりをしました。平群では、町役場で鍵を借りて烏土塚古墳、西宮古墳、三里古墳、長屋王陵墓、吉備内親王陵墓、ツボリ山古墳と巡って、斑鳩町に戻ってきました。斑鳩文化財センター、藤ノ木古墳、兜塚古墳、さらに中宮寺跡をめぐって午後5時過ぎにレンタサイクルを返して1日を終えました。

夢殿での救世観音との御対面という至福の時を過ごしました。8dc2a972eb374be18222ffe2d1ac40c6

古代.平群氏の大きさを感覚的にとらえました。19c97a2069c043ce80959d5b87032599 692ae56a86294d7c90cb817366e47958

長屋王陵墓は、はなから信じてはいませんでしたが、やっぱりね!充実した時間をすごしました。

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奈良町歩き 「正倉院展」

お昼頃に、奈良に着きました。これから始まる旅行の第1日です。

日本史上最大の転落者である藤原仲麻呂の邸跡からスタートしました。平城京宮跡庭園→長屋王邸跡→奈良国立博物館ぶつぞう館とまわって最後が正倉院展でした。

ぶつぞう館は、正倉院展の入館待ちの時間調整でした。国立博物館の友の会の会員ですので、無料で入れました。金峯山寺の仁王像の足元に立つと迫力満点です。1cc473ba160d474b8b70104318322c74

正倉院展は、はじめてでした。正倉院御物はいくつか展覧会に出品されているのを見たことはありますが、全て正倉院の御物の展示は、圧倒的存在感がありました。B0be9ce337a5449c8679bd5020407fa4

圧倒され続けた2時間を過ごしました。

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