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道鏡塚(下野市)

下野市に奈良時代に皇位簒奪をはかったと言われた弓削道鏡の塚(墓)があるので気になっていました。

鑑真和上が招かれて唐より渡り来て、戒壇を東大寺、大宰府そしてここ下野薬師寺に設置しました。(日本三戒壇)
和気清麻呂により皇位簒奪がならず道鏡の支持者である称徳天皇の崩御後、流されて当寺に来ました。

道鏡塚は龍興寺の境内にあります。小さな山で現地踏査した際に埴輪が発見され古墳であることがわかっており、古墳が作られた年代は道鏡の時代より1世紀ほど古く、年代は合いませんが古墳に追葬したとあれば、ありそうなことです。称徳天皇、和気清麻呂のお墓がどこなのかわからないなかで敗者の道鏡の墓所だけがその存在がわかるということになります。案内板の裏にある5mほどの小山にあがってみました。形が円墳ということで古墳の特徴を感じることもありませんでした。

『道鏡禅師の墓所』との案内板には経歴の後に続いて『・・・・日本三戒壇一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と、すべての人々の幸せを祈りながら、静かに遷化されました。人々は、これを深く悲しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として、手厚く葬りました。』平成29年4月7日の日付が記されていました。210630c1_20210711001801


案内板を裏付ける資料はあるのか?でしたが、下野薬師寺歴史館で買い求めた図録にその回答がありました。図録の発刊は平成14年です。210630c2_20210711001801
772年に道鏡の死が下野国司から朝廷に伝えられ、葬儀及び埋葬方法について質問がなされています。その回答は、「死するときは庶民を以てこれを葬る」とされ、一般庶民と同様の扱いがなされ、埋葬方法や場所はいまだにわかっていません。」です。

太政大臣禅師まで上りつめた人物の埋葬地が不明であることから生まれた民間の伝承ということになります。

 

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