畳塚 栃木県壬生町・精忠神社
栃木県壬生町にある精忠神社に京都の伏見城にあった畳が江戸城経由で伝えられ埋められて「畳塚」となっています。なぜ伏見城の畳が栃木県にあるのか?
関ヶ原の戦いにさかのぼります。京都の伏見城は、関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川側の捨て石となって西軍4万の大軍を1800人で良く守備しますが、ついに老守将の鳥居元忠が切腹して果て、落城しました。この奮戦で西軍の大軍が関ヶ原に間に合わなかった。徳川幕府への道を開いた伏見城の奮戦は、徳川にとって特別に感謝し忘れてはならない戦いでした。その記憶をとどめるため伏見城の戦いの血痕が付いた板が寺の天井材につかわれ「血染めの天井」として残っているのを京都の寺で2カ所で私は見ています。伏見城に対する徳川の思いを強く印象付けられました。
最期に切腹した時の畳が江戸城に運ばれ、伏見櫓(皇居二重橋の背後に見える建物)に据えられました。 伏見城から移築されたのでこの名がつけられたと言われています。(ちなみに、大阪城、福山城には伏見城から櫓が移築され、福山城には現存してます)江戸城の場合は、この畳が据えられたことがその名の由来になったことも考えられるかもしれません。
壬生藩は鳥居元忠の子孫が藩主です。明治になり徳川幕府が幕を下ろし、藩士の一人が明治新政府に畳の下げを明治5(1871)年5月12日に願い出て、同年6月14日に壬生に持ってこれました。壬生の赤御堂を経て現在のようになったのが大正4(1915)年です。
畳塚の存在は知っていました。しかし、『伏見城の畳と言われているのが埋められた』という不確かな情報でしたので確かめたかったのが今回の旅の一つの目的でした。資料館で、経緯にたいする詳細の記録と畳(二帖)の写生を図録(完売)で確かめました。
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