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2021年7月

オリンピックボランティア開始

今日午後から国際フォーラムでウェイトリフティングのボランティア活動を始めました。
競技会場に行く前に日本橋を通りました。代わる代わる記念写真を撮っていました。1455b495889047dcbe91a339c0b9c7d9 バックヤードで帰り際の三宅宏美選手とお父さんにバタッと合いました。記念に写真を撮りたいと、内心思ったものですが、ボランティアですので出来るわけもありません。その後、三宅選手が引退したことを知りました。傷心の状態だったのだろうと、勝負の世界の厳しさを感じさせられました。
私は、観客担当からアスリート対応に役割がかわったのですが、良かったと思っています。

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オリンピック開幕へ

57年前は、地方に住んでいたので競技場上空の五輪マークはテレビで見ていました。今日は念願の生で見ることができました。
210723a1210723a2 国立競技場近くで見たのですが、ボランティアが頑張っている姿を見て、落ちに落ちていたモチベーションも少し上がりました。
明日からボランティアをします。

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競技会場にてオリンピックボランティア研修

17日土曜日に、競技会場でボランティア研修がありました。有楽町の国際フォーラムで行われるウエイトリフティングです。行きなれた、見慣れた国際フォーラムがぐるっとフェンスで囲まれています。210717a1 周囲の道路は閉鎖されて関係者以外は近寄れません。210717a2 全国から動員された警察官がパトロールしてます。210717a3
祭典からはほど遠い雰囲気で、現実を突きつけられました。案内された試合会場は準備が整っていてもう少し歓迎される空気の中で行えたらよかったのにとの思いを強くしました。私自身、大会は延長すべきと思ってます。しかし来日する選手には、良い印象をもって帰ってもらいたいとも思ってます。

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復活 下野薬師寺

下野薬師寺の創建時の寺名は、正式には、単に「薬師寺」です。藤原京、平城京にあった薬師寺と区別するために通称「下野薬師寺」としてます。
下野薬師寺は、足利尊氏によって全国に安国寺を立てるという施策の中で「安国寺」と改められました。近世にはいり薬師寺の正統を引く寺院はどこかということで安国寺と道鏡塚がある龍興寺が争いました。慶長10(1605)年佐竹氏より、安国寺は戒壇を守護するとして寺領10石、龍興寺には鑑真墓所を守護するとして20石が寄進されました。常陸から秋田に国替えになっていた佐竹氏は、薬師寺近辺を領地として持っていました。
発掘調査が進んだことが影響したのでしょう。下野薬師寺の跡地に立っている安国寺は2018年に元の(下野)薬師寺にほぼ680年ぶりに復帰しました。
江戸時代の様子 安国寺の堂舎が描かれています。210630b4 龍興寺の「鑑真の墓所+道鏡の墓がある」というのは発掘調査から見て無理筋です。江戸時代に寺領を薬師寺の倍の20石をもらっていたことが影響しているのでしょう、現在の堂塔は龍興寺のほうがかなり立派です。
下野薬師寺では、680年の空白を埋めるかのように唐招提寺から了解を得て鑑真和上像を製作中です210630b2_20210717234101 。まだ入魂していないというので触らせてもらいました。
戒壇後に立つという六角堂の補修をしています。210630b1_20210717234101 鑑真和上座像はここに安置される予定です。
(下野)薬師寺は復名して歩みを進めています。2106306 鑑真和上座像胎内結縁勧進も行っています。ホームページのQRコードです。ご参照ください。210630b6

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下野薬師寺跡

7世紀末頃・白鳳期に創建(下野氏の氏寺を前身とする説がある)し、。鑑真和上が733年に東大寺に戒壇を設け、大宰府観世音寺と共に8年後の761年に戒壇がもうけられました。(日本三戒壇)歴史上特別な地位を占める寺院です。また、薬師寺という名を冠された寺院は全て天皇・皇后によって発願されています。
発掘調査により壮大な伽藍であることが判明しています。
210630b7210630b8
回廊の一部が復元されています。210630b3_20210713222901

下野薬師寺歴史館で展示されている文字瓦210630b9
歴史文化遺産カードがもらえます。(無料)210630b5

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道鏡塚(下野市)

下野市に奈良時代に皇位簒奪をはかったと言われた弓削道鏡の塚(墓)があるので気になっていました。

鑑真和上が招かれて唐より渡り来て、戒壇を東大寺、大宰府そしてここ下野薬師寺に設置しました。(日本三戒壇)
和気清麻呂により皇位簒奪がならず道鏡の支持者である称徳天皇の崩御後、流されて当寺に来ました。

道鏡塚は龍興寺の境内にあります。小さな山で現地踏査した際に埴輪が発見され古墳であることがわかっており、古墳が作られた年代は道鏡の時代より1世紀ほど古く、年代は合いませんが古墳に追葬したとあれば、ありそうなことです。称徳天皇、和気清麻呂のお墓がどこなのかわからないなかで敗者の道鏡の墓所だけがその存在がわかるということになります。案内板の裏にある5mほどの小山にあがってみました。形が円墳ということで古墳の特徴を感じることもありませんでした。

『道鏡禅師の墓所』との案内板には経歴の後に続いて『・・・・日本三戒壇一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と、すべての人々の幸せを祈りながら、静かに遷化されました。人々は、これを深く悲しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳を墓標として、手厚く葬りました。』平成29年4月7日の日付が記されていました。210630c1_20210711001801


案内板を裏付ける資料はあるのか?でしたが、下野薬師寺歴史館で買い求めた図録にその回答がありました。図録の発刊は平成14年です。210630c2_20210711001801
772年に道鏡の死が下野国司から朝廷に伝えられ、葬儀及び埋葬方法について質問がなされています。その回答は、「死するときは庶民を以てこれを葬る」とされ、一般庶民と同様の扱いがなされ、埋葬方法や場所はいまだにわかっていません。」です。

太政大臣禅師まで上りつめた人物の埋葬地が不明であることから生まれた民間の伝承ということになります。

 

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畳塚 栃木県壬生町・精忠神社

栃木県壬生町にある精忠神社に京都の伏見城にあった畳が江戸城経由で伝えられ埋められて「畳塚」となっています。なぜ伏見城の畳が栃木県にあるのか?

関ヶ原の戦いにさかのぼります。京都の伏見城は、関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川側の捨て石となって西軍4万の大軍を1800人で良く守備しますが、ついに老守将の鳥居元忠が切腹して果て、落城しました。この奮戦で西軍の大軍が関ヶ原に間に合わなかった。徳川幕府への道を開いた伏見城の奮戦は、徳川にとって特別に感謝し忘れてはならない戦いでした。その記憶をとどめるため伏見城の戦いの血痕が付いた板が寺の天井材につかわれ「血染めの天井」として残っているのを京都の寺で2カ所で私は見ています。伏見城に対する徳川の思いを強く印象付けられました。

最期に切腹した時の畳が江戸城に運ばれ、伏見櫓(皇居二重橋の背後に見える建物)に据えられました。210630a2 伏見城から移築されたのでこの名がつけられたと言われています。(ちなみに、大阪城、福山城には伏見城から櫓が移築され、福山城には現存してます)江戸城の場合は、この畳が据えられたことがその名の由来になったことも考えられるかもしれません。
壬生藩は鳥居元忠の子孫が藩主です。明治になり徳川幕府が幕を下ろし、藩士の一人が明治新政府に畳の下げを明治5(1871)年5月12日に願い出て、同年6月14日に壬生に持ってこれました。壬生の赤御堂を経て現在のようになったのが大正4(1915)年です。210630a1
畳塚の存在は知っていました。しかし、『伏見城の畳と言われているのが埋められた』という不確かな情報でしたので確かめたかったのが今回の旅の一つの目的でした。資料館で、経緯にたいする詳細の記録と畳(二帖)の写生を図録(完売)で確かめました。

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下野国旅行3日目

昨日帰宅しました。
戊辰戦争(安塚の戦い)碑など→飛山城址→益子→(真岡市)鶏塚古墳→大内廃寺跡
梅雨時にもかかわらず、ほとんど雨に降られることもなくてラッキーでした。宿泊したホテルの朝食がお弁当で、それも部屋に持って行って食べていただくとありがたい。と言われました。弁当は3種類ほどあって好みの弁当を選びます。味気ないと言えば味気ないのですが、そこまで感染対策を考えていると、好意的にとらえました。
楽しい旅行でした。個別の史蹟は稿を改めてアップしてゆきます。

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下野国旅行2日目

今日も、幸いにも雨に降られることもなく、予定した日程を順調に終えました。
精忠神社(畳塚)→壬生町歴史民俗資料館(城跡)→牛塚古墳→車塚古墳→吾妻古墳→しもつけ風土記の丘資料館→栃木県埋蔵文化財センター→国分尼寺→国分寺→下野薬師寺→同資料館→道鏡塚

畳塚と道鏡塚の疑問点がスッキリ解決して今回の旅行の目的は達成しました。明日は今日いただいた資料で気になった史蹟を訪ねます。

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