宇喜多秀家を板橋に結び付けたもの 八丈島旅行番外編
宇喜多秀家の供養塔を板橋に見に行って、歴史のパズルが解けるような楽しい気持ちになりました。
最初「板橋」と聞いて『なぜ?』となりました。「加賀百万石の前田家の屋敷がある」から。と聞いて納得しました。
秀家の奥さんの豪姫は、秀吉の養女という形ですが、前田家始祖の利家の娘です。八丈島の宇喜多一族を江戸時代通じて援助の手を差し伸べたのは秀家の子孫は利家の血筋を引いているからです。
前田家の(下)屋敷がなぜ板橋にあるかと言えば、前田家の参勤交代の街道が中山道で、その第一の宿場が板橋だからです。
下屋敷は22万坪近くありました。 ここを管理していたのは50家ほどだそうです。
加賀公園に屋敷跡の碑が建っています。
この公園は、屋敷図に描かれている「高山」になるようです。 町名に『加賀』をとどめています。
屋敷内にあった社と(赤)門が近くのお寺に移築されています。
下屋敷の面影を伝える数少ない遺構です。最後の会津藩主松平容保も下屋敷を訪れて感嘆しているそうです。板橋に移住した宇喜多秀家の末裔のうち数家は板橋に落ち着かず八丈島に帰りました。秀家自身は板橋とは勿論何の関係もありませんが、歴史の流れから見ると秀家の供養塔が板橋に建てられたのは何の不思議もありません。歴史の大きなうねりと、人それぞれの人生を改めて考えさせられました。
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