皇居(江戸城)平川門と不浄門の新資料
江戸東京博物館で開かれている企画展『徳川将軍家へようこそ』で、びっくりする資料に遭遇しました。“江戸城秘図”です。「平川門」の部分に目が釘付けになりました。
この地図にふれる前にこのブログで取り上げてきたことをまとめてみます。
城内に向かって平川門(渡櫓)の右隣にもう一つ門(帯曲輪門)があります。このような形態の門は、江戸城では、ここをおいて他にありません。この門は、死体や糞尿、罪人を城外にだした不浄門と言われています。舟で運び出されたとされています。
ところが、ここからは(通路のようになっている)帯曲輪を通って竹橋門に出ます。不浄門から舟で運び出すことは不可能です。
江戸時代は260年以上続きましたので、江戸城も改変が行われています。
享保年間の江戸城図には船着き場のような記載があります
詳細はわかりませんが、不浄門の機能を果たす有力な資料です。
初期にはそもそも帯曲輪はありませんでした。
(江戸城始図)
(寛永江戸図)
ところがびっくり、
企画展『徳川将軍家へようこそ』で展示された“江戸城秘図”では、帯曲輪は竹橋門までつながっていません。
不浄門として合理的な構造になっています。実に明確な図です。今まで目にしたことがない図ですし、出所も徳川記念財団ですから確かです。私が驚いた理由です。
ただ、この展示では、図を19世紀としてますし、更なる情報が欲しいところではあります。
現状の平川門、不浄門からみて、不浄門について疑問を持ったことがありましたが、帯曲輪門を不浄門とすることは合理的と思います。
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コメント
>平川門さん
ご覧いただきましてありがとうございます。また、コメントありがとうございます。
別に記事として書きますので、そちらをご覧いただければ嬉しく思います。
投稿: 最前列 | 2021年12月 4日 (土) 22時45分
2017年の記事に投降で大変恐縮です。こんにちは。ニックネーム平川門です。
浅野内匠頭が舟で運ばれたとすると①虎口から石段にどの様にして出たのか?②「江戸城の全容と歴史」「江戸城の全貌」に道三濠に入ると書かれているが辰の口からが道三濠でここは水戸違いの様な滝がありジグザグしていて通過できない。外濠から内堀にも入れない。内堀だけで完結する工程だとしたら日比谷御門まではいけたがその先陸に上がって駕籠で運ばれたか?その記録はない。田村家から迎えの籠が出ていて桔梗門で待っていたが急遽平川門まで籠を回した記録がある。曲輪も曲輪門も時代の必要性に応じてあとからできたもので5代から7代将軍の時代は曲輪はあったが曲輪門はなかった。浅野内匠頭、江島は平川門の櫓門→高麗門からだされた。と思っています。
この頃は平川門全体が不浄門と呼ばれていたとも思っています。
江戸城秘図は時代が1800年から1900年までのものでなければ高麗門と橋が虎口の中央についている古絵図より古く曲輪が竹橋まで届いていないことも理解できるが時代が正しいのなら全く理解のできない仮想絵図と思われます。
いろいろな絵図がありますね。
曲輪は享保年間に曲輪門のない状態で整備され御三卿の登城門となると虎口の形が変わり竹橋向きに曲輪門がつき排泄物を出す門となりさらに現在の形になって罪人・死人も出す門として曲輪門が不浄門と呼ばれる様になったのではないかと思っています。
ご教授いただけると嬉しく思います。
投稿: 平川門 | 2021年12月 4日 (土) 16時52分
ツツミ様
ご無沙汰しております。
また、コメントをいただきましてありがとうございます。
故郷へお帰りななられたのですね。
「遠きにありて、江戸城を思う」
故郷でじっくりと考察を深められるのも
落ち着いて宜しいのではないでしょうか。
今回の地図に関する補足説明などもあるのですが、
旅行に出ますので、
帰宅してからアップしたいと存じます。♫
投稿: 最前列 | 2017年8月27日 (日) 00時31分
最前列様
またまた大変ご無沙汰いたしました。
実は、乾門通開放のあった年に、九州の田舎にUターン致しまして、おいそれとは、江戸城や江戸東京博物館に出向けない身になってしまいました。あの後、もう一度登城したのが最後です(泣)。それでも、地元の図書館などで江戸に関する史料を捜し、細々と調査は続けています。
こちらの図書館で、西ヶ谷恭弘氏の『江戸城―その全容と歴史』も読んでおり、平川門についての説がどういうものなのか、確認致しました。以下に西ヶ谷説に対する感想をお伝えいたします。
先に結論から申しますと、水上輸送を前提にした西ヶ谷説は間違っています。
「ここ(雁木が描かれた部分:引用者注)より運び出せば大手濠を経由し、道三濠を経由して日本橋側につながり、道三濠に入り、すぐに和田倉門を右折すれば、日比谷方面さらには中濠へと抜けられるのである。」という記述がありますが、この認識が大間違いで、内堀と外堀(西ヶ谷氏の言う中堀)は、その構造上、行き来できなかったはずなのです。
和田倉濠と道三濠の間に在った辰の口の名は、内堀の水の落とし口の様子が、龍が水を吐き出す様に見えた事に由来するもので、ここで内堀の水を堰き止め、余水を道三濠に吐き出して、内堀の水位を一定に保つように調節されていました。内堀側と外堀側の水位は違いましたので、そこを船で抜けて道三濠へ出る事、道三濠から船で進入する事は、不可能という事になります。
城内の下肥を輸送する為の葛西船三艘が、辰の口に繋ぎ置かれたと記録に有るのは、そのためでしょうし、明暦大火後の復旧工事に使う大石を、わざわざ神田橋脇の石垣を崩してそこから引き上げ、内堀に仮橋を架けて曳きこんだのも、石を積んだ船を、内堀まで入れる事が出来なかったからに他ならないと思います。
日比谷の方に、外堀に抜けられるような場所が有ったとは、考えられませんし、辰の口で水位調節している以上、他の場所で外堀と同じ水位になるというのは、有り得ない事で、外堀と内堀の間は、完全にシャットアウトされていたと考えざるを得ません。因みに外堀の南の方も、数寄屋橋が土橋であり、落し口を持つ構造でしたので、船は、これより先には入れませんでした。「享保年間江戸城絵図」に描かれた階段状の物は、実際に存在したとすれば、内堀内で完結する作業にしか使えなかったはずで、帯曲輪周辺の改修か、内堀の浚渫の際に、臨時に設置された物ではないかと思います。
私も不浄門の件でコメントを始めた頃は、江戸城の堀の構造をよく理解できておらず、雉子橋の辺りで、現在の日本橋川である堀に抜けられるなどと勘違いしたり、その勘違いに気付いた後も、辰の口経由では可能であるかのようなコメントを入れたりした事も有りましたが、この機会にその部分を、上記の如く訂正させていただきます。
今回の展示図面についてですが、図面の類は、使用目的に必要のない部分を省略する事は、よくある事ですし、この写真を見る限りでは、現在の和気清麻呂公園の辺りも省略されているようです。平川高麗門の外側のスペースも、本来は橋の幅程度のはずが、かなり広く描かれており、随分とデフォルメされています。
帯曲輪は、本来的には、江戸城北側の防備を固くする目的で設けられたもので、藤堂高虎の縄張り上手を示す例として挙げられる物です。図のような状態になっては、城内への侵入は、格段に容易になると思われます。また、この図面が、19世紀に描かれたものであるとすればなおさらですが、それ以前のものであったとしても、吉宗以降は、廟所の合殿を始めたり、焼失した芝口門を再建しなかったりと、財政の引き締めに必死な状態ですので、図面にあるような改変を行い、更にその後旧に復するような工事を行ったとすれば、無駄遣いの天下の愚行として、記録に残らないはずは無いものと思います。
それにしても、実際に江戸東京博物館に行って、この図面を確認できないのが、残念でなりません。
投稿: ツツミ | 2017年8月26日 (土) 12時15分