(3月2日に大阪府高槻市を訪れました。高槻市の史跡を訪れるのは2回目です。1回目は、高槻城址や安満宮山古墳などでした)
今城(いましろ)塚古墳は、学界では継体天皇(オオド大王)陵として異論はありません。宮内庁指定の継体天皇陵は別記事で触れます。(古代の天皇陵のほとんどは、学界では宮内庁指定通りとは考えられていません。)
古墳名は、戦国時代に三好長慶が城に利用したことに由来します。宮内庁の指定を受けなかったため、極めて珍しく、天皇陵古墳としては発掘調査があり、大きな成果を上げ、付属の博物館もできています。
全景 前方後円墳 本来、表面は葺石でおおわれていました。 周濠は二重で内側の周堤に円筒埴輪が復元して置かれています。
城の一部に取り込まれたこと、さらに1596年の慶長伏見地震の断層の直上にあったため墳丘が大きく崩れました。(これも発掘調査の成果です)
前方部 周濠が残っていたため整備・保存されています。
後円部は畑になっていたため境界に堤が築かれています。
本来なかったものを設置した為、批判する方もいます。私はやむ得なかったと思います。
後円部の横の内堤上に埴輪郡が復元されています。強く印象に残ります。
博物館の学芸員に聞きました。「埴輪は同じ位置に復元しました。殯(もがり)の儀式を再現したものと考えられています」とのこと。
周堤に入口があって、ここからも墳丘に入ることができます。
ここに切り取った断面が展示されています。周堤の構造がわかります。
石棺は見つからず、石棺の破片のみが出土しました。石棺は3基あったと考えられています。付属博物館の今城塚古代歴史館で推定復元石棺が展示されています。
学術調査の結果、墳丘内部にも敷石・排水溝の排水対策の遺構があった事、石室下部の基礎構造が発見されたことなど、大きな成果が上がっていました。「テーマパークのようだ。」との批判もありますが、私は現状を肯定支持します。人様の墓を、自分の先祖の墓だと囲い込むかたくなな宮内庁の姿勢こそ、大いに問題ありです。
継体天皇は地方出身で、何十年も政治の中心の大和に入れませんでした。人生色々と言いますが、墓にも歴史があります。権力を握っても、そのお墓は散々な目にあっています。
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