壬申の乱と不破の関
岐阜県関ケ原町は関ヶ原の戦いで有名ですが,今から1350年ほど前・西暦672年に起こった古代最大の騒乱=壬申の乱の戦いの舞台ともなりました。こちらも天下分け目の戦いでした。
この戦いの中心地の一つとなったのが不破の関付近です。「関」と云っても一辺が430mもある広大な役所といった方がイメージしやすいです。周囲をめぐらしていた土塁の後も残っています。
大海人皇子が兜をかけたという石
5メートルほどの所にやはり大海人皇子が沓(くつ)を脱いだ石というのもあります。
ここは壬申の乱の翌年に作られた不破の関の中心で庁舎などがあったところです。「兜をかけた」「靴を脱いだ」は勿論伝説で、不破の関の庁舎の礎石かなんかかなと思ったのですが、不破関資料館でその点を聞いたら、『遺構は地下3メートル程の所ですから、その可能性はありません。』とのこと。
自害峰の3本杉 壬申の乱に敗れた大友皇子の首が埋まられた伝承地 見つけるのに一苦労しました。
天智天皇の子=弘文天皇(大友皇子)は壬申の乱で敗れ(京都の)山崎で自害し、首は不破に送られて来ました。どうやら事実はここまでです。ここがその首を埋めたというのは後世の創作でしょう。因みに大友皇子が天皇として認められたのは死後千数百年の明治になってからで、弘文天皇御陵候補地になっています。
3本杉の裏に塚もあります。
柵で囲われ入れません。何しろ御陵候補地ですから、したがって文字は読み取れません。
黒血川
壬申の乱で両軍兵士の流血で川が黒く染まったという伝承です。赤く染まったよりなにやら説得力があります。
若宮八幡社
敗れた大友皇子が祭神です。関ヶ原の合戦では大谷吉継の陣地となりました。
近辺には兵士が矢じりで掘った井戸などの伝承もありますが、この時代の確かなものは地下3メートル程の所に皆埋まっているのでしょう。
(現地に行ったのは6月中旬です)
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