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大谷刑部吉継 関ケ原合戦史跡5

大谷吉継の墓 

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どなたなのでしょうかお花が手向けられていました。地元でも一番の人気の武将だそうです。
墓は合戦後、敵方の藤堂家によって建てられました。これには理由があります。
大谷吉継は、奮戦の後、「首を敵に渡してはならない。」と命じて自刃しました。側近の湯浅五助は、東軍の藤堂仁右衛門と槍を合せましたが仁右衛門によって手傷を受けます。これまでと悟った五助は吉継の供養を頼み、ただ首のある場所は秘密にして欲しいと頼んで討たれました。戦後、家康は仁右衛門に吉継の首の所在を尋ねましたが仁右衛門は「武士の道を外れることはできない、首の所在は言えません。刑罰を仰せつけください。」と答えました。仁右衛門は約束を守って墓を建てたのでしょう。
吉継の墓の左隣には大正になって湯浅五助の墓が子孫によって建てられました。
大きな顕彰碑もあります。

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陣跡の碑は、数十メートル離れたところにあります。

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合戦が終わった当日、家康はここで宿をとりました。ここに宿をとった理由は私にはわかりません。が、碑には「宮下」と場所を入れてあります。宮は若宮八幡社で、壬申の乱で敗れた大友皇子を祀ってあります。その丘の上に陣を敷いたのです。家康の最初の陣はやはり壬申の乱で勝者となった大海人皇子の故地でした。天下をとる先例にならったのでしょうか。
大垣市の勝山にある大谷吉継の陣の鐘もこの時に手に入れたのでしょう。

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