源義朝の墓(鎌倉の史跡)
勝長寿院の碑(鎌倉市雪ノ下4丁目)の所に源頼朝の父義朝と忠臣鎌田政清の墓があります。(写真左が義朝の墓)
高さ70~80センチ程です。
源頼朝の父、義朝は平治の乱で敗れ、愛知県まで逃れたところで、在地の者に裏切られて殺されます。その地にも墓(供養塔でしょう)があります。義朝の首は、京に送られ晒されます。
それから25年後、義朝の首を探し出して勝長寿院に送られてきて葬られました。晒された首が25年後見つかるということをにわかに信じるということも無理があると思います。頼朝の意識とは別の事ではありますが、新しい権力者に取り入ろうとする人間が現れるのは世の習いです。
義朝の墓が70~80センチほどの石塔であるとは思えません。勝長寿院は15世紀ごろには荒廃し、大御堂の地名のみを残して田畑になっていましたので、いつの日か義朝を供養するために立てられた供養塔と思われます。その供養塔の古写真があります。
現在ある地(下図の1の地点)より谷の奥(下図の2の地点)にありました。(写真の番号は地図の所在地の番号と同じです。右上の□マークは大御堂橋の交差点です)
私はてっきり、この供養塔2が移設されたのかと思っていたのですが、四十数年前に土地の所有者が代って、元々の供養塔がなくなってしまったそうで、現在の供養塔は新しく作られたということになります。無常としか言いようがありません。この地は住宅が建て並んでいますので義朝の廟堂の痕跡はこの地の下に眠っているのでしょう。
およそ150年後鎌倉幕府は滅びますが、その最後の拠点で滅亡の地となった東勝寺(3)が小山を挟んで数十メートルしか離れていません。鎌倉の街作りの最初の寺院となった勝長寿院と隣り合わせというものに、歴史のいたずらを感じます。
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