三月大歌舞伎(新橋演舞場)と忠臣蔵関連の知られざる遺物
今月の新橋演舞場の歌舞伎昼の部は、“荒川の佐吉”と“仮名手本忠臣蔵 九段目 山科閑居”です。
“荒川の佐吉”は前回公演の仁左衛門さんの佐吉を見ていました。今回もよかったですね。
仮名手本忠臣蔵 九段目 山科閑居
来月、やはり新橋演舞場で、大序から十一段目まで通しで公演があります。その演目に入っていないのが今月の九段目です。1時間半ほどかかりますので、今月になったのでしょうか?
ご承知のように、江戸時代は、幕府への批判は禁じられていたため、当時起こった事件などを演劇で取り上げることはできませんでした。ですから、赤穂の事件も室町時代の事として名前も場所も変えられて上演されました。
九段目のあらすじは、塩谷判官(浅野内匠頭)の刃傷の際、後ろから止めた加古川本蔵の娘と大星由良助(大石内蔵助)の長男・力弥(大石主税)の縁組と、加古川本蔵が刃傷を止めたことを申し訳なく思い、自分の命と高師直(吉良)邸内の図面を差し出して罪滅ぼしをする。というものです。仮名手本忠臣蔵では、これ以降、討ち入りへとどんどん進んで行く大切なところです。
ただ、動きが少ないお芝居です。
このお芝居に対応する事実としては、浅野内匠頭の刃傷を後ろから止めたのは梶川与惣兵衛です。梶川は「殿中の刃傷沙汰を止めた。」ということで、お褒めのサラリー増を受けています。ですから、劇中で現れる加古川本蔵は、筋の展開のために作られた役です。
江戸時代でも、見る側は、そのことを当然わかっています。「このようにあって欲しい。」という、時代の空気の中で生まれたからこそ、ちょっと飛んだ筋立てですが、受け入れられたといえます。
ところで、新橋駅から新橋演舞場へ向かう途中の昭和通の横断歩道橋の下・4か所に、近くにあった大名屋敷の跡地から出た遺物が置いてあります。
その一つが兵庫県・龍野の大名・脇坂家上屋敷跡地から出た手水鉢です。浅野家の断絶によって赤穂城明け渡しとなりましたが、その時に城受取りの役目を勤めたのが、この脇坂家でした。知られざる忠臣蔵関連の遺物です。
新橋演舞場へ向かう度、いつもめぐり合わせの不思議さを思います。赤穂浪士ではないでしょうが、年が変わる前は、ホームレスの方がここにいました。歩道橋の下で多少の雨露はしのげたからでしょう。今年になってからは見かけません。
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