« 上野・寛永寺の二つの黒門その2 | トップページ | ラグビープレーオフセミファイナルの秩父宮の座席 »

日光東照宮と焼亡した寛永寺

幕末に上野の寛永寺の大部分が焼亡しましたが、対照的だったのが日光東照宮です。攻める官軍側の板垣退助の果たした役割が大きく、戦火に見舞われることなく今日に残りました。
彰義隊が彼らの意志とは異なって、いわば、ひいきの引き倒しの恰好で徳川の霊廟を戦火に投じてしまいました。
八王子市に千人町というところがあります。江戸時代初期に千人同心が置かれました。本来の目的は、甲州方面からの攻撃に対する備えとしておかれていましたが、後に日光東照宮に派遣されて勤番の役を負うようになりました。幕末に日光東照宮が戦火から守られましたが、守備隊の一員として勤めていた千人同心が八王子に帰還した時に「なぜ、徹底抗戦しなかったのか」と責められ、頭の石坂弥二右衛門が切腹しました。時に60歳、介錯したのが年老いた父であったと伝えられています。東照宮に新政府軍が到達する前に同じ板垣退助率いる軍は、抵抗されることなく八王子を通過しています。
血気にはやる事は、その時の空気の中では正義でも、後の時代の批判に到底耐えうるものではありません。

120215a1

石坂弥二右衛門の墓前には、東照宮を戦火から守ったお礼として日光市から贈られた線香台があります。

|

« 上野・寛永寺の二つの黒門その2 | トップページ | ラグビープレーオフセミファイナルの秩父宮の座席 »

歴史・史蹟」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日光東照宮と焼亡した寛永寺:

« 上野・寛永寺の二つの黒門その2 | トップページ | ラグビープレーオフセミファイナルの秩父宮の座席 »