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秀吉の大仏と太閤塀

豊臣秀吉のお墓(跡)や“国家安康”の鐘で有名な方広寺など、豊臣の京都・東山の史蹟を2回にわたって訪れ、2回目から1年半を経てあらためて太閤を取り上げるのは、ようやく河内将芳著『秀吉の大仏造立』(発行・法蔵館)を読了したからです。買ったままで、読み始めるまで時間がかかってしまいましたが、読みごたえのある好著です。一部を紹介します。

秀吉が京都の東山に大仏を造りはじめた時は、奈良・東大寺の大仏は焼失して存在していないというところから始まり丁寧な考証で進んでゆきます。
この大仏が、工事半ばで、地震で壊れ、大仏造立は諦めて善光寺の本尊を移してきました。今は長野の善光寺に収まっていますが、この時の本尊は甲府にありました。善光寺の本尊は武田、織田、徳川、豊臣の諸将によって転々と移されたことを知りました。また、豊国神社の当時の遺構が琵琶湖に浮かぶ竹生島にあることも知りました。
秀吉は、伏見城で亡くなり、火葬にも土葬にもされずに、半年後廟に葬られました。火葬にも土葬にもされなかったのは神になるためで、土葬では土に帰り、火葬したのでは“仏”になってしまうため、それを避けるためです。そして“豊国大明神”となりました。
善光寺の本尊を返した後、秀頼によって大仏造立が再び始まりますが、こちらも工事中の火災で堂舎ともども焼け落ちてしまいます。本書はここで終わります。この後再建された大仏の行方も詳しく知りたかったので残念ですが、ともかく読みごたえのある本です。

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観光客はなかなかここまで行きませんが、三十三間堂の南にある南大門の左手に“太閤塀”が残っています。太閤が造ったというより太閤亡き後、秀頼が造ったようです。目に見える豊臣関係の史蹟は少ないのでその点でも貴重な遺構だと思います。

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