興福寺特別公開と国宝館
東金堂と五重塔の特別公開は昨日で終わりました。塔の初層の公開では、礎石の上にのった心柱の根元を見ることができました。礎石は心柱のための窪みはありませんでした。同じく特別公開された薬師寺の東塔では礎石の部分がまったく見られませんでした。また、廃寺の礎石は数多く見ていましたので、初めて心柱を受けた礎石を見れたのは良い経験になりました。
外人観光客が特別公開のポスターを欲しいと言ったら、受付の方が1枚差し上げていました。「おいくらですか?」と聞いたら、「お金はいらないです。内緒です。」と云っていました。外人観光客は勿論喜んでいたのですが、きっとお金を出すつもりでいたようですので、無料だったことではなく、手に入れたことがうれしかったのだと思います。私もポスターが好きですので、気持ちがわかります。
(山田寺の仏頭の写真・・・・上野の国立博物館のレプリカです)国宝館へ回って、阿修羅との対面へとなったのですが、国宝館では山田寺の仏頭が先に安置されているのです。この仏頭を見て思い出してしまいました。
説明板に、“山田寺の本尊だったのを移した。」とあるのです。移したとは事実と異なります。自分のところの本尊がなくなったので僧兵を繰り出して強奪したというのが実態です。興福寺は平安から室町にかけては奈良一円の領主として権勢をほしいままにしていました。その時代の出来事です。結局この仏像も火災に会い、頭部のみが昭和になってから須弥壇の中から発見されるという悲惨な運命を辿りました。本来ここにいるべき仏像ではありません。
元々いた山田寺は、飛鳥にあり蘇我倉山田石川麻呂が643年に建立しました。石川麻呂は大化の改新で同族の蘇我入鹿を殺害する現場で入鹿殺害に一役かっています。そして後に中臣鎌足らによって自ら建てた山田寺で自殺に追い込まれます。この仏頭は悲しすぎる運命を秘めています。
上野の国立博物館の展覧会から比べると、ぐるっと360°から見れるわけではないのですが、ゆっくり見れました。明治の写真では阿修羅の右前腕は失われ、左前腕は少し歪んでいますので、真正面で手を合わせるようには修復は出来なかったのでしょう。その点を除けば修復を感じさせません。もっとも前腕は、手を合わせてはいないという説もあるにはあります。
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