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皇居(江戸城)の平川門(2) 不浄門について

前の記事“皇居(江戸城)の平川門(1)の続きです。

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帯曲輪門(おびくるわもん・・・・・写真の赤丸で囲んだ門)が不浄門とする解説が多くあります。不浄門とは、城内の糞尿、死体、それに罪人を城外に出す門です。罪人としては、高遠に流された大奥女中の絵島、忠臣蔵の浅野内匠頭がいます。うんこが出される同じ門から出された時の内匠頭の気持ちはどうだったのでしょうか?城持ち大名として屈辱的な扱いでした。
まず、この門が本当に不浄門なのか?と云う疑問がありました。理由は次の写真を見ていただくとわかります。

 

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城内から出る通常の道順は黄色の線です。右手の高麗門を経て平川橋から外へ出ます。渡櫓から左手の帯曲輪門から出ると、堀の真ん中の長い通路(帯曲輪)を通って竹橋門から城外へ出ます。これでは竹橋門から城外へ出たと云った方がよさそうです。現地へ行った人なら程度の差はあれ疑問に感じると思います。しかも、糞尿も内匠頭も船で運び出されています。「わざわざ竹橋まで運んでから船に載せる?ちょっとおかしいでしょう。」と云うことです。話は脱線しますが、人糞は肥料として売買の対象でした。大名屋敷からは上物で庶民のは安かったそうです。

長い間疑問に思っていましたが、その疑問に答える説が西ヶ谷恭弘によってとなえられました。
“享保年間江戸城絵図”(東京都立中央図書館蔵)では、現在の帯曲輪門は無く、平川門から堀への石段があります。ここから船に載ったという説です。内匠頭の家来が平川門へ来て見送った事とも合致します。卓見だと思います。
西ヶ谷氏は不浄門とは帯曲輪門ではなく平川門全体を言ったに違いないと述べています。

 

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西ヶ谷説の根拠となった享保年間江戸城絵図(部分)です。絵図の上が城内です。
ちなみに帯曲輪門(竹橋門と平川門の間の堀の中の通路)の役割ですが、竹橋門から侵入した敵は、本丸に行くつもりが平川門近くで行きどまりになってしまいます。


しかし、上記の絵図と現状は明らかに違います。皇居東御苑(江戸城の本丸)の売店にかかっている絵図に次のように書いてあります。

 

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絵図の左側が城内です。通路を示す線には「病人カゴ此口ヨリ出ル」と書かれています。 病人も不浄門より出していたことがわかりました。ただし不浄門の位置が現在とは違います。売店の方にダメもとでこの絵図の出所と書かれた年代を聞きましたがやはり「わかりません。」という回答でした。絵図の所蔵印は「宮内省図書寮」のように見えました。この絵図は享保年間絵図より新しい時代と思われます。なぜなら東京都立中央図書館にある他の絵図に現状と同じ配置の絵図が何枚か存在しています。

江戸時代は260年続きました。絵島と浅野内匠頭の時代には、現在ある帯曲輪門(不浄門)は存在しなかったのです。無かったのですから今見るあの門を通ったというのは誤りである。と云うことになります。(西ヶ谷氏説に同調)
その後、幾度かの門の改変をうけて現在の帯曲輪門が不浄門としての役割を果たしていると理解するのが合理的です。したがって、現在は、平川門全体ではなく帯曲輪門を不浄門と呼んで差し支えないものと思います。101012c6

 

こちらは現在の姿とほぼ同じになった江戸時代の絵図です。260年の時間の変化を無視してはならないと思います。

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コメント

最前列様

今年も赤穂浪士討ち入りの日がやってきました。赤穂事件と来れば平川門、ということで(笑)、赤穂事件の発端である元禄十四年三月四日の、江戸城からの浅野内匠頭の護送に関する情報を、お伝えしたいと思います。

実は、松の廊下の刃傷後の浅野内匠頭の処遇については、内匠頭を預かる事になり、邸が切腹の舞台となった田村右京大夫側の詳細な覚書が、残されています。以下にその内容を要約します。
事件発生後、内匠頭を預ける旨を申し渡された田村右京太夫は、急ぎ自邸に帰り、内匠頭受取の為に七十五名の部隊(内足軽三十名)を江戸城に向わせます。この際、物頭・物頭並の四名に対し、注意点など委細について、右京大夫が直々に申付けています。
請取部隊(先述の四名は騎馬)は、内桜田門(桔梗門)に到着し、桜田下馬に足軽や馬四頭などを残し(足軽四、五人は、下乗まで従う)、さらに下乗門からは、徒歩(かち)身分以上の者のみが中之口まで至り、公儀目付の指示を仰いで、下乗から呼び入れた乗物に浅野内匠頭を乗せ、扉に鍵をかけ、幕府の役人も手伝って乗物に網をかけました。
ここで、「平川口へ出候様にと被申聞(もうしきけられ)」たので、案内を乞い、御小人目付が先導する事となり、「足軽共其外人馬下馬に差置候、平川口へ廻り候様仕度(足軽共や馬などを桜田下馬に控えさせているので、平川口に廻すようにしたい)」と伝えた所、これも御小人目付が伝達に向い、「(江戸城の)内を参候間に、足軽共平川口迄参」り、ここで一行を迎えています。

奏者番を務めていた田村右京大夫が、委細を指示した上で送り出した請取り部隊が、何故、桔梗門から入城し、桔梗門外の下乗に足軽や馬などを残していたのか、というのも興味深い点ですが、それは置いておいて、兎も角、その御蔭で、奥平大膳大夫や酒井遠江守の病気退出の例と同じように、下馬にいた者達が城外を平川口の方に回った事が、記録として残る事となりました。この記録に依り、不浄門から出された代表的人物である浅野内匠頭長矩も、平川高麗門、平川橋の方より城外に出ている事は、間違いないものと思われます。
ここまでの覚書の記載については、『幕府祐筆所日記』のこの日の記録にも、「田村右京大夫へ内匠頭儀當分御預け仰付らる旨老中列座、土屋相模守之を傳達す之に仍て右京大夫早速退出、御城へ家來差出す則ち中の口より平川口通り御乗物にて之を引取る、平川口まで御徒歩目付附添なり。」とあり、その信頼性の高さが裏付けられます。

さて、平川口からは、内匠頭の乗った乗物を、侍、足軽達が「厳敷(きびしく)」取り囲み、騎馬の四人が先導して、「道筋平川口より大下馬先江、やよすがし(八代洲・八重洲河岸、現日比谷通)、日比谷御門、櫻田、愛宕下通り、この方表門(裏門の書写間違いか)江申の刻入り申候」、と記されています。この事件については、水上輸送説でも、内堀のみを使って祝田橋辺で上陸する事は、出来たかも知れませんが、この覚書に依って、舟による護送は、有り得なかった事が判ると思います。

一昨年の中央図書館の東京都文化財ウィークの展示では、フジテレビ制作の「タイムトリップビュー江戸城門」なるアプリの、リリースイベントも行われたそうですが、行かれましたでしょうか?
このアプリの制作過程を紹介するフジテレビのブログに、最前列さんのブログを参考にしたと思われる、不浄門についての考察が、掲載されています。いくつかの説を挙げて、あれこれ思案した挙句、結論を委ねたアプリ監修者の大学教授の意見は、(平川橋側高麗門というのは、御用達商人などの登城でも使われる、いわば平川門の表玄関であって、)「罪人が表玄関を正面切って出ていくのは、江戸の常識的にはなはだ疑問」、というものでした。
結局、アプリの平川門の場面は、その意見に従ったようですが、私としては、帯曲輪門を不浄門とする説の論拠は、その程度のものだったのか、と驚きあきれ嘆息した次第です。これでは、「松平外記乱心事件」で、死者、罪人が、この先生の言う「表玄関」たる坂下門の高麗門から出されている事の、説明が付かなくなってしまうというものです。

投稿: ツツミ | 2017年12月14日 (木) 21時11分

ツツミ様

「花よりお城」・・・・名言ですね。
新たな例示の発掘ありがとうござます。
ツツミ様のご指摘で
「わざわざ不浄門を特別に設ける」ということが
合理的ではないという感じがますますしてきました。
帯曲輪門はあくまでも、帯曲輪門ということですね。

“不浄のもの”を通す時の前後に、
何か「清め」の儀式なり作法の存在がわかれば
スッキリすると思っております。
そんな資料は・・・・見つからないでしょうね?!

投稿: 最前列 | 2014年4月13日 (日) 16時32分

最前列様
乾通りの一般開放、私も行って参りました。もちろん「花よりお城」です(笑)。
「警固範囲図」を見るに、紅葉山下門は、道灌濠の辺りに在ったようです。あの門は、「御掃除モノヲキ」と記される辺りではないかと思います。何れかの門を移築したのでしょうけど、もしや廟所入口に在ったものなのでしょうか?長屋のような建物の位置は、「御三家御休息所」とある辺りのようにも思えますが、その建物なのでしょうか?…と興味は尽きませんが、それは置いといて、不浄門に関し、またいろいろと判って来ましたので、お伝えします。
文政六年四月二十二日に西丸で「松平外記乱心事件」が発生します。西丸書院番組内でのいじめが原因で起こった有名な刃傷事件ですが、同僚を殺傷した後自害した外記を含め3人(もしくは4人)の死者と2人の重傷者を出しています。これらの人々の退出方法が分かれば不浄門についてはっきりするのではないか、とずっと思っていたのですが、大田南畝の「半日閑話」にそれが記されているのを見付けました。それによれば、遺体は翌日の夜までそのまま差し置かれ、それから各家に引き取らせ「坂下御門から」駕籠にて出したとの事、これは、下手人の松平外記も同じ扱いだったとされています。怪我人の神尾五郎三郎は、どういう物かは判りませんが「釣台にて」出たようです。「半日閑話」は、核になった南畝の記録に他の南畝の著述や他人の著述も取り込み増補された物で、この事件は、南畝没後半月程経って起きていますので、明らかに別人による記録ですが、書かれている事柄から記録者は南畝同様事情に通じた幕吏と思われ、内容は信頼できるものと思われます。西丸で考えれば坂下門が丑寅の位置に当る、という事かもしれませんが、死者は平川口から出された、というこれまでの常識を(半分ほど)くつがえす内容です。
「半日閑話」には、文政元年七月二十三日に、泊まりだった小姓竹本安芸守が部屋の廊下に出て切腹した事件も記されています。この際「家内え朝はやく迎の駕籠を越べきよし言置きければ、“吐血の積(つもり)にて”退出」とあり、病気の形で生きている体裁で退出したようです。最初のコメントに挙げた小納戸松下伝七郎と同様の措置だったと思われます。
さらに延享四年八月十五日の細川宗孝公遭難事件に関する記述も有ります。下手人板倉修理の護送についての目付、大目付の報告内容が次のように掲載されています。
『 板倉修理    右は水野監物へ御預け仰付候。私共立合監物へ引渡家来共請取、中之口より平川通り駕籠にて無別条御門差出申候。依之申上候。以上    八月十五日   御目付 大目付 』
これも最初のコメントに、細川宗孝の退出に同行した側近生田又助の覚書でも、明らかに平川高麗門の方から退出した宗孝一行と、下手人板倉修理の退出した門の表現に、区別が付けられていない旨お伝えしましたが、上記の表現からも、罪人の護送に帯曲輪を使ったようには受け取れないと思います。
それから本物の病気による退出について。「殿中マナーブック」に載る2例は、いずれもその時の病気が元で余り日を置かずに卒去していますので、平川門から退出するというのは、余程の大事でなければ許される事ではなかったものと思われます。2例の内、先に挙げなかった延享三年十月二十五日の奥平大膳大夫(昌成)の例も挙げておきます。この日、玄猪の祝儀の為に嫡子山城守(昌敦)と共に登城した大膳大夫は、玄関で具合が悪くなり、御徒歩目付部屋で休みますが回復せず、「玄猪御祝儀(玄猪餅)頂戴難成」平川門から退出する事になります。この際、山城守も祝儀を受けずに附き添って帰る事を許されています。それだけ容態は重かったという事です。しかし附き添いが許されたものの、この時も、「惣供廻り、平川口江相廻り候。」ばかりでなく、「山城守儀は、御玄関より大手江罷出、外通、平川口江相廻り、附添罷帰ル。」という状況でした。奥平大膳大夫は、11月14日に卒去しますが、そんなに重症の大名の附き添いの嫡子でさえ通さない程厳しく通行が制限された事からも、平川門よりの退出は相当のレアケースであったと考える他無いと思います。
そして「警固範囲図」について、千代田区所蔵図が明和九年以前の物だとすれば、甲良若狭扣図は、それまで甲良家に無かった既存の図を、警固の範囲を知っておく必要性が生じた為に十代目棟全が写させてもらったもの、と考えるしか無いと思います。城郭全体の警備体制は、必要性が無ければ作事方大棟梁といえども知らされるべき事柄では無かったはずです。そしてその必要性は、やはり安政大地震後の復旧工事に際して生じたと考えるべきでしょう。帯曲輪に、「病人カゴ此口ヨリ出ル」という記録に残る実態とは明らかに違う記載のある売店図も、緊急時のものであったと思われます。

投稿: ツツミ | 2014年4月12日 (土) 22時56分

ツツミ様
投稿ありがとうございます。
ルートを記入した図は
警護のマニュアルの図だったのですね。
私には、これだけでも大収穫です。
ありがとうございます。

中央図書館に、
甲良家の資料が寄贈されているのですから、
保存だけではなく、
専任の学芸員を配置してよいのではないかと思います。
寄贈された側の責任であるように感じます。

また、色々ご教示いただければありがたいです。

投稿: 最前列 | 2014年1月19日 (日) 22時13分

最前列様
今回は、江戸城城郭図の作製次期の話です。
昨年師走の初旬まで日比谷図書文化館で催されていた「鎌倉と江戸」展に、例の「ルート図」と同様の物が展示されていました。千代田区教育委員会所蔵の「江戸城内の図」です。解説に依れば、あの朱引きは、警固の範囲を示しているとの事(イメージが全く違ってくるので以後「警固範囲図」とします)。と言う事は、朱引きの有る帯曲輪内も、恐らくは平川門警固を担当した御先手組により常時見回りが行われていたのでしょう。先日本丸売店の「警固範囲図」を確認に行った帰りに、偶々皇宮警察(?)の方数人が帯曲輪に立ち入っていました。平川渡櫓門付近で、戻って来る一人と目が合ったので聞いてみた所、侵入者がある可能性も有るので見回っているとの由。考えてみれば、江戸期には、夜陰に紛れて忍び込まれる可能性は遥かに高かったわけですから、頻繁に巡回が行われていたはずです。
さて、本題です。この千代田区所蔵図は、作製年代について、「享保9年(1724)から明和9年(1772)の間に作製か」としています。50年近い時間の幅の上に、末尾の「か」まで付け加えられて、非常に曖昧な推定となっています。明和9年については、今の二重橋前の濠端に在り、行人坂の大火で焼失した御厩が、記載されている事からの判断だと思われますが、享保9年は何によっての判断か不明です。
そこで気になるのが、甲良家文書の江戸城総絵図の作成年代です。丁度「江戸・東京デジタルミュージアム」に先日問題になった(勝手に大騒ぎしただけですが…笑)上記記事一番下の図が紹介されています。詳細な解説が見られるのですが、この図面に有る「甲良若狭」について、10代目「棟全」では無く、享保期に活躍し、享保二十年没の5代目「棟利」(若狭を名乗ったのは、享保期の5代目、幕末の10代目、明治の11代目の3名)としています。西ヶ谷説にも影響して来ますし、城郭総絵図の内ではもう一枚だけ「大棟梁甲良若狭扣」の奥書を持ち、私が幕末の物と推定する「警固場所図」との関係も気になります。
そこで、甲良家文書を所蔵する中央図書館に問い合わせてみましたが、所蔵される城郭総絵図全10点は、文化庁の調査報告書では、作製年代を特定された物は無く、「大棟梁甲良若狭扣」の記名の有る2点の内デジタルミュージアム紹介の図のみ学者の研究で5代目棟利の物と推定されているとの事でした。
「警固範囲図」の方について、この図の紅葉山廟所に、5代目甲良若狭棟利没後に亡くなった徳川吉宗〔寛延四年(1751)没〕、家重〔宝暦11年(1761)没〕、家基〔安永八年(1779)没〕、家治〔天明六年(1786)没〕の院号が見られる事(5代目と推定された図には、家宣(月命日により十四日様)までしか記されておらず、秀忠の廟所の位置が少し違っています)、11代目若狭は、維新後の人なので論外、という理由から10代目棟全の物と考える他無い、との意見を伝え、確認をお願いしましたが、中央図書館に専属の学芸員が居るわけではないそうで、関連する書籍・史資料の紹介、アカデミズムのお墨付きの有る説の紹介は可能だが、作製年代特定のアカデミズムの判断が行われていない以上、一市民の主張の是非を判断する事はできないし、わざわざ専門家に判断を仰ぐサービスまでは行えない(かなり意訳しています。趣旨はこの通りですが、ここまでキツイ言い方では有りません。)、という、図書館内に判断機能が無い以上、正当な回答をいただきました。
結局の所、図面の年代特定すらほとんど進展が見られていない状況である事が判りましたが、時代を特定しようという努力が成されているようにも見受けられず、新年早々少しブルーな気分です。

投稿: ツツミ | 2014年1月17日 (金) 17時52分

ツツミ様
コメントありがとうございます。
私も最初、「不浄門か。」と思ったのですが、
「不」にしては棒が1本足りなく、そう思ってみると、
「浄」は、逆に文字の右に余計な旁があるような感じでした。
すべて確認はしていませんが、
「大御門」は渡櫓を表しているのだと思います。

その点は差し置いて、
ツツミ様がご指摘のように、
何事も先例が大切にされる時代ですから、
絵図よりツツミ様ご指摘の文献に重きを置いて
理解した方が妥当かなと云う気がします。
ただ、例示が少なく、また、実際にもまれだったのか?
謎は残る感じです。

また、あらたなご教示をお願いします。


投稿: 最前列 | 2013年11月11日 (月) 23時35分

最前列様
「殿中マナーブック」とも呼べるような物が重宝されたのは、それだけ前例が重視された為であって、平川門からの退出も、故実を踏襲する事が重要であったと思われます。そうした点から記録類を合わせて考えれば、平川高麗門、平川橋の方からの退出が本来のルールに則った形なのでしょう。
というようなコメントを入れようと思ったのですが・・・。そうでしたか。「大御門」だったとは、思いもよりませんでした。平川門にばかり目が行って、他の門に同じ文字が記されている事にも全く気付かず、お恥ずかしい限りです。今回の発見は、「大」を斜めにすると「不」にも見えるという事でしょうか(苦笑)。最前列さんに展示を観に行かれるようお勧めして、大正解でした。確認していただき本当に有難う御座いました。
尚、享保の図面に関しては、出入りが厳しく制限されている平川門の枡形に船着場を常設する意味があるのか、平川橋側面に、石垣か塀を意味すると思われる太線が引かれているのは何故か、など疑問もあり、普請の際の仮設の状態の物では無いのかな、という感じはします。

投稿: ツツミ | 2013年11月11日 (月) 22時09分

ツツミ様
コメントありがとうございます。
また、いつもながらの的確なご指摘ありがとうございます。

ツツミ様のご指摘に依れば、
「平川渡櫓門」が不浄門ということで
2つの高麗門とも可能性があるというご指摘
なるほどと思いつつ、
船着き場があったという西ケ谷氏の指摘もあらためて気になります。

この展覧会、私も気になっていました。
気分転換にも良く、時間を見つけて行きたいと思っています。

投稿: 最前列 | 2013年11月 5日 (火) 22時57分

最前列様
先のコメントで、「不浄門という言葉を使った史料も残っていないのでは?」と、余計な事を付け加えたら、すぐに反証となる史料が出てきました。しかもその史料は、意外な所で何度も目にしている物でした。
「東京文化財ウィーク」の関連行事として恒例となっている「甲良家文書」を中心とした中央図書館所蔵史料の公開が、今年も同図書館で行われています。今回は『最後の江戸城』と題されてはいますが、「長禄江戸図」から始まっていて、特に江戸城の図面に関しては、ほぼ江戸期を網羅した展示となっています。
その展示の中に、18世紀のものらしい江戸城の城郭絵図が有りますが、これが上記最前列さんの記事の一番下の図と同じ物のように見受けられました。縮尺はほぼ上の図と同じで、書き込まれた文字も御覧の通り非常に小さく細くて、虫眼鏡が必要な位です。そして、どうやら平川門枡形内に書き込まれているのが、「不浄門」という文字のようなのです。どうやら、と言うのは、本当に判読困難な程の細密な文字であるため、「平河門」と書いてある可能性も無しとは言えないからですが、橋の外には「平川口」御門と書き込まれている事から、「不浄門」の文字であろうと思います。そして、この文字の書かれている位置と向きから、この絵図面を引いた人物が指している「不浄門」は、「帯曲輪高麗門」でも「平川高麗門」でも無く、「平川渡櫓門」である事が判ります。不浄門である「渡櫓門」を出れば、後はその時の判断でどちらの高麗門から出しても構わなかった、という事かも知れません。ルート図の取り決めも、非常時ではあってもルールに則った対応だった事になります。枡形全てを不浄門とする西ヶ谷説と、実質的には同じ事と言えそうです。
ただし、三年も経って今更ながら気付いたのですが、上記記事に載る全ての絵図面で、「平川口御門」と書き込まれているのは、平川橋の外です。平川口から出された、といった場合には、やはり平川高麗門からと考えるべきなのではないかと思います。
因みに、この展示絵図の近くには、参考資料として、(小学館の?)江戸城図鑑か何かから借りてきた、近年作成された城郭図面をコピーしたパネルが有りましたが、その図面作成者は、帯曲輪門の所に、「帯曲輪門」を使わずに、わざわざ「不浄門」と記しておりました…。

投稿: ツツミ | 2013年11月 4日 (月) 22時22分

ツツミ様
コメントありがとうございます。
まず、詳細な追跡に敬意を表します。

駕籠に乗るという観点に、「目からうろこ」を感じました。
また、例が少ないというのもとても重要な指摘で勉強になりました。
ツツミ様の記述で「不浄門」の輪郭が以前よりはっきりしてきました。
ありがとうございます。

また新たな発見がありましたら、ご教示宜しくお願いします。

投稿: 最前列 | 2013年7月22日 (月) 01時52分

最前列様
大変/\ご無沙汰いたしております。
あれから2年と8ヶ月余り、平川門に関する新たな情報も得ておりましたので、これまでのコメントの補強をさせて頂くべく、再びお邪魔致します。
さて、最初のコメントに記した柳沢家に残る「殿中マナーブック」ですが、全文を確認致しました。この文書は、江戸城の表坊主が書き留めていたものを写させてもらった、と推定される物で、延享四年(1747年)から文政十年(1827年)まで、丁度80年間の殿中でのハプニングとそれに対する措置の記録でした。
この文書に拠れば、急な病気による平川門よりの退出が問題になったのは、80年間でわずかに三度、その内の一例、牧野内膳正の場合は、殿中で持病の眩暈が起き、痰も詰って、歩行も難しくなったので、駕籠を呼び寄せ平川口から退出しようとしたけれども、結局何とか歩いて大手下乗まで辿り着く事が出来たので、通常の退出をしています。したがって、実際に平川口から退出したのは、わずかに二例に過ぎません。全ての例が書き留められたとは限らないとしても、滅多に起こらない事なので、いざという時の為に書き留めが重宝されたという事でしょうから、そんなに数が増す事も無いと思います。
平川口が使われた二例は、退出方法、ルートなど、細川宗孝公の退出の記録とも合致します。酒井遠江守の例に拠ると、殿中から中之口まで公儀陸尺が駕籠を持ち出し、酒井側に渡しますが、そこからも平川門を出るまでは公儀陸尺も駕籠の棒に手を掛けていたとの由、補注には、本来御城内は公儀陸尺が駕籠を掻く作法のようだ、とあります。以前お伝えしたように、平川門を出た所で相手側に駕籠を渡すのが本来の形だったようです。レアケースなので、目付が作法を間違えて指示したのかも知れません。この際の目付の指図には、「供廻リ(大手門から城外に出て)平川口御門江相廻リ候様」とも有ります。この指図から、病人、怪我人の退出に使われたのは、平川高麗門であったことは、間違いありません。
また、こうした書き留めが重宝される程のレアケースを、幕府大棟梁が、江戸城の工事図面に書き込むというのも妙な話で、「病人カゴ此口ヨリ出ル」というのは、大普請が行われ、傷病人の発生が多数予測されるので、あらかじめ退出ルートを取り決めたものであろうと思います。さらに言えば、あの図面の記述もしくはこの普請で怪我をして退出した者の証言が、帯曲輪門が不浄門であるとする説の元になったのでは無いか、とも考えています。
それから、以前は「殿中で御目障りの事があった場合」と記しましたが、牧野内膳正や、平川門が問題にならなかった他の病人の例(これは多数あり)を見ると、平川門から退出するのは、殿中まで駕籠を入れなければならない場合のみであったようです。吉良上野介が平川門から退出したのも、殿中まで駕籠を入れたからなのでしょう。それから、以前述べた浅野内匠頭の水上護送に関し、雉子橋の辺りで内堀と日本橋川はつながっていなかったようです。辰ノ口の方からでも吉良邸の側を通りますので、話の大筋に変更はありませんが、間違いをそのままにしておくと、その情報が事実と誤解されかねませんので、ついでに訂正しておきます。(水上護送の出典を見つけあぐねています。ご教示頂ければ有難いです。)
帯曲輪門=不浄門説は、本丸売店で販売の「セルフガイドブック」の記載がそのまま広まっていったものだったようです。こちらの記事が出た翌年(平成23年)6月20日発行の第4版からは、「平川門の脇に小さな門がある。~(中略)~これが帯曲輪門で、帯曲輪を通り竹橋の内桝形まで通じていた。」とあるのみで、「平川門」のページから不浄門の言葉が全て消え失せてしまっています。絵図にも、第3版までは、帯曲輪門の絵からの吹出しに「浅野内匠頭、絵島が出された不浄門」とあったものが、現在では、平川渡櫓門の絵からの吹出しに「浅野内匠頭や絵島は平川門から出された」という様な変更が加えられています、どうも、はっきりした根拠も無いままに、妙な「史実」を広めてしまっていたのではないか、という感じもします。ひょっとすると、不浄門という言葉を使った史料も残っていないのではないでしょうか?ともかく、浅野内匠頭や絵島がどちらの高麗門から出されたのか、しっかり検証して欲しいものです。

投稿: ツツミ | 2013年7月16日 (火) 20時39分

ツツミ様

コメントをいただきまして、
ありがとうございます。
ツツミ様の深い考察に敬服いたします。
とても参考になりました。
コメント欄の掲載だけでは、
もったいないので
あらためて記事として
掲載させていただきたいと思います。
今後もご教示いただければ
幸いに存じます。
ありがとうございます。
         
          最前列

投稿: 最前列 | 2010年10月24日 (日) 10時28分

はじめまして。
私も帯曲輪門を不浄門とする事に、疑問を感じていた者です。この春には、当方の論拠とする資料を持って、千代田区の歴史資料館に江戸城の城郭に詳しいという学芸員の方を訪ねたのですが、納得のいく解答は得られませんでした。
私は、城郭の図面ではなく、御実紀その他の史料の記述を基に、帯曲輪は少なくとも罪人の護送には使われていない、と考えています。さらに、徳川家重を始め、平川口から出棺した将軍家族は、平川橋の方から送られているということは確実で、特に他の死者を帯曲輪の方から出す必要が有ったのか疑問です。
ただ貴ブログに使われている、享保期とされる図面は、線を引いた者の性格からか、少し雑な物のように感じられ、論拠としては弱いように思います。実際、その50年以上前の万治年間の図面には、現在の形で帯曲輪門が記されています。
病人や怪我人も平川口から退出するという事は、大和郡山柳沢家に残る史料に、「城内で御目障りの事があった場合」の作法として記録にあるようです。したがって、刃傷事件の被害者である吉良上野介や細川宗孝公も、平川門から作法通りに退出しています。そして、それらの事件を記録したものに、被害者と加害者の出た門を区別するような表現の違いは、見受けられません。細川宗孝公の退出の公式な記録には、門を出てすぐ「橋」の記述があるため、平川橋のある平川高麗門の方よりの退出と考えるのが自然だと思います。
幕末の嘉永元年(1848年)11月27日には、将軍家慶の深酒に付き合い雪隠で溺死した小納戸松下伝七郎を、布団にくるみ、病気のかたちで平川口より出した、という記録があり、この平川口も帯曲輪門とは考え難いことから、江戸期を通して、平川門が不浄門だったというのが、私の考えです。
売店にかかっていたという図、近々私も見に行きたいと思いますが、ルートの線が引いてあったりする所から見ると、明治以降に描かれた物のようにも思えます。
下肥に関しては、龍ノ口辺に舟をおいて、そこに運んだという記録もありますので、これも案外大手門を堂々と行き来していたのかも知れません。
とにかく、帯曲輪門を不浄門とすることに、疑問を持つ方が他にもいらした事を喜んでいます。

投稿: ツツミ | 2010年10月23日 (土) 23時25分

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