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皇居(江戸城)の平川門(3) 不浄門について

10月13日の平川門(2)の記事にツツミ様からコメントをいただきました。多々参考になる点がありますので再掲、紹介させていただきます。

私も帯曲輪門を不浄門とする事に、疑問を感じていた者です。この春には、当方の論拠とする資料を持って、千代田区の歴史資料館に江戸城の城郭に詳しいという学芸員の方を訪ねたのですが、納得のいく解答は得られませんでした。
私は、城郭の図面ではなく、御実紀その他の史料の記述を基に、帯曲輪は少なくとも罪人の護送には使われていない、と考えています。さらに、徳川家重を始め、平川口から出棺した将軍家族は、平川橋の方から送られているということは確実で、特に他の死者を帯曲輪の方から出す必要が有ったのか疑問です。
ただ貴ブログに使われている、享保期とされる図面は、線を引いた者の性格からか、少し雑な物のように感じられ、論拠としては弱いように思います。実際、その50年以上前の万治年間の図面には、現在の形で帯曲輪門が記されています。
病人や怪我人も平川口から退出するという事は、大和郡山柳沢家に残る史料に、「城内で御目障りの事があった場合」の作法として記録にあるようです。したがって、刃傷事件の被害者である吉良上野介や細川宗孝公も、平川門から作法通りに退出しています。そして、それらの事件を記録したものに、被害者と加害者の出た門を区別するような表現の違いは、見受けられません。細川宗孝公の退出の公式な記録には、門を出てすぐ「橋」の記述があるため、平川橋のある平川高麗門の方よりの退出と考えるのが自然だと思います。
幕末の嘉永元年(1848年)11月27日には、将軍家慶の深酒に付き合い雪隠で溺死した小納戸松下伝七郎を、布団にくるみ、病気のかたちで平川口より出した、という記録があり、この平川口も帯曲輪門とは考え難いことから、江戸期を通して、平川門が不浄門だったというのが、私の考えです。
売店にかかっていたという図、近々私も見に行きたいと思いますが、ルートの線が引いてあったりする所から見ると、明治以降に描かれた物のようにも思えます。
下肥に関しては、龍ノ口辺に舟をおいて、そこに運んだという記録もありますので、これも案外大手門を堂々と行き来していたのかも知れません。
とにかく、帯曲輪門を不浄門とすることに、疑問を持つ方が他にもいらした事を喜んでいます。


享保期絵図については、描かれた目的も含めて検討する必要があるかと思っています。西ヶ谷氏がこの絵図を平川門=不浄門説の論拠としていますが、(西ヶ谷著“江戸城”91ページ)帯曲輪門≠不浄門としているのは他の絵図等と併せて、検討したものなのかなと理解しています。
本丸売店掲出の往来経路が記載された絵図については、同様の絵図が中央図書館蔵の絵図にも、また西ヶ谷文庫蔵の絵図にもあります。目的の一つは普請に城内へ入る時、各門からの行き方と門を警護するお武家さんを確認するためのようです。ただし、注意書きは無いようです。
本丸売店掲出の絵図の存在が、帯曲輪門=不浄門説に疑問を持ちつつ、ひっかかりを感じる点です。

下肥に関しては、ツツミ様のご指摘通りだと思います。大奥の人糞は不浄門から、西の丸、他も近くの門から出したのでしょう。複数の門からでたものを辰口から運び出したかと思います。

 

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辰口近くに瀟洒な美術館が立っています。時の流れを感じます。

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コメント

ツツミ様

重ねての丁寧なコメントをいただきしてありがとうございます。
この度のコメントもあらためて記事として紹介させていただきたいと思います。
ありがとうございます。

投稿: 最前列 | 2010年10月30日 (土) 01時48分

最前列様
以下は、続徳川実紀「温恭院殿(家定)御実紀」安政三年二月にある記述です。安政大地震は、前年の十月二日に発生しています。

○廿七日御城内御修復ヶ所多に付。御門出入御締向之令
一、                        御徒目付組頭江
此節御城内御修復ヶ所數多に付ては。日々人足共多人數入込候事故(いりこみそうろうことゆえ)。御門/\出入御締向。別て厚心附候事(あつくこころつけそうろうこと)には候得共。此上共御門/\は勿論。富士見御天守〔富士見櫓〕。其外御番所等に至迄。聊以無油断(いささかのゆだんなきをもって)。御取締向入念(ねんをいれ)。夜中は出入等嚴重に改。持塲/\見廻候儀も。是迄よりも猶更繁々見廻り。火之元等格別に心附候様可致候(いたすべくそうろう)。若(もし)等閑之儀〔サボっている事〕も相聞候におゐては。嚴重可及沙汰(さたおよぶべく)候。
右之趣。御門番並御番所有之向々江可被達(たっせらるべく)候事。

こういう状態であれば、人足を統括指揮する甲良若狭にとっては、あのルート図を必要とする場面であっただろうと思います。

投稿: ツツミ | 2010年10月29日 (金) 00時21分

最前列様
拙文再掲という予想外の展開、気恥ずかしいかぎりです。
もう一つ予想外、かつ有難かったのが、売店の図面とほぼ同様の物が、甲良家文書にも有るという情報です。早速確認した所、この図面は、甲良若狭ひかえと有る事から、若狭守を名乗り、幕末から明治初めまで生きた十代目甲良棟全の時期の物かと思われます。そして、城内全面に渡ってルートの線が引いてある所から、これは「非常時」、つまり安政大地震の修復普請の際の物では無いか、と考えるのですが、如何でしょうか?
先日は、肝心な事を書き忘れていたのですが、大奥に続く平川門の警護は、非常に厳しく、通常この門を使用できたのは、奥女中、大奥広敷詰めの役人、御三卿のみで、「旧事諮問録(岩波文庫)」の元御庭番の証言を借りれば、「御小姓・小納戸といえども平河口は通れませぬ。」という具合でした。因みに御三卿は、御三家でさえ中雀門で駕籠を降りなければならない所を、本丸御殿御風呂屋口まで乗りつける事ができる程特別扱いされています。
もちろん小さい普請で、女中を他の部屋に退かせた状況で、職人が入る事は有ったようですが、そういう時の為であれば、平川橋の方からのルートのみで十分だと思われます。
それから、浅野内匠頭の護送に舟が使われたのかどうか、ということについても、検討の必要が有ろうかと思います。仮に舟が使われたとすると、竹橋、雉子橋をくぐって、今の日本橋川から、外濠のルートが想定されるのでしょうが、そうすると、その当時は呉服橋近くにあった吉良邸のすぐ脇を通る事になり、また、濠の外側は町家地ですので、警護上かえって問題が多いように思います。平川門については、半ば伝説化した話が広まっているように感じられ、それらを丹念に再検討する必要があるようです。
終わりに、絵島事件の際の実際の判決の記録が、「翁草」にあります。眉唾な話も多い書物ですが、著者は、元京都町奉行所与力で、裁判記録などに関しては信頼できそうですので、一部をご紹介します。
『右の通。於御廣敷。松前伊豆守申渡之。(処分された奥女中)九人の召使女五十七人。“平川口より追放”被仰付』
この事件で平川門を出たのは、少なくとも66人でした・・・。

p・s 続徳川実紀に、安政大地震の際の城内修復に関する通達が記されていました。上記愚按を補強するため、別便で、後程その文面をお伝えします。

投稿: ツツミ | 2010年10月28日 (木) 23時05分

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