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皇居(江戸城)の平川門(4) 不浄門について

江戸城の平川門をバックに写真を撮って欲しいと通りすがりに外国人観光客に頼まれたことが2回あります。日本の風景として印象深いのだと思います。その平川門は江戸城でもなぞを持った門です。それだけに興味をそそられる門です。ツツミ様から再度コメントをいただきました。ありがとうございます。
ルートを記入した図面について安政大地震の修復の際のものではとの問いかけをいただきました。私の少ない知識では「幕末ころ」と云う以外に答えを持っていないのですが、たいへん示唆に富むコメントをいただきましたので、こちらも掲載させていただきます。平川門にご興味をもたれた方にたいへん参考になるものと思います。(コメントは2回ございましたので、原文のまま挿入しました)


(江戸城本丸跡にある)売店の図面とほぼ同様の物が、甲良家文書にも有るという情報です。早速確認した所、この図面は、甲良若狭ひかえと有る事から、若狭守を名乗り、幕末から明治初めまで生きた十代目甲良棟全の時期の物かと思われます。そして、城内全面に渡ってルートの線が引いてある所から、これは「非常時」、つまり安政大地震の修復普請の際の物では無いか、と考えるのですが、如何でしょうか?


“続徳川実紀「温恭院殿(家定)御実紀」安政三年二月にある記述です。安政大地震は、前年の十月二日に発生しています。
廿七日御城内御修復ヶ所多に付。御門出入御締向之令
一、                        御徒目付組頭江
此節御城内御修復ヶ所數多に付ては。日々人足共多人數入込候事故(いりこみそうろうことゆえ)。御門/\出入御締向。別て厚心附候事(あつくこころつけそうろうこと)には候得共。此上共御門/\は勿論。富士見御天守〔富士見櫓〕。其外御番所等に至迄。聊以無油断(いささかのゆだんなきをもって)。御取締向入念(ねんをいれ)。夜中は出入等嚴重に改。持塲/\見廻候儀も。是迄よりも猶更繁々見廻り。火之元等格別に心附候様可致候(いたすべくそうろう)。若(もし)等閑之儀〔サボっている事〕も相聞候におゐては。嚴重可及沙汰(さたおよぶべく)候。
右之趣。御門番並御番所有之向々江可被達(たっせらるべく)候事。”

こういう状態であれば、人足を統括指揮する甲良若狭にとっては、あのルート図を必要とする場面であっただろうと思います。

大奥に続く平川門の警護は、非常に厳しく、通常この門を使用できたのは、奥女中、大奥広敷詰めの役人、御三卿のみで、「旧事諮問録(岩波文庫)」の元御庭番の証言を借りれば、「御小姓・小納戸といえども平河口は通れませぬ。」という具合でした。因みに御三卿は、御三家でさえ中雀門で駕籠を降りなければならない所を、本丸御殿御風呂屋口まで乗りつける事ができる程特別扱いされています。
もちろん小さい普請で、女中を他の部屋に退かせた状況で、職人が入る事は有ったようですが、そういう時の為であれば、平川橋の方からのルートのみで十分だと思われます。
それから、浅野内匠頭の護送に舟が使われたのかどうか、ということについても、検討の必要が有ろうかと思います。仮に舟が使われたとすると、竹橋、雉子橋をくぐって、今の日本橋川から、外濠のルートが想定されるのでしょうが、そうすると、その当時は呉服橋近くにあった吉良邸のすぐ脇を通る事になり、また、濠の外側は町家地ですので、警護上かえって問題が多いように思います。平川門については、半ば伝説化した話が広まっているように感じられ、それらを丹念に再検討する必要があるようです。
終わりに、絵島事件の際の実際の判決の記録が、「翁草」にあります。眉唾な話も多い書物ですが、著者は、元京都町奉行所与力で、裁判記録などに関しては信頼できそうですので、一部をご紹介します。
『右の通。於御廣敷。松前伊豆守申渡之。(処分された奥女中)九人の召使女五十七人。平川口より追放被仰付』
この事件で平川門を出たのは、少なくとも66人でした・・・。

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