前の記事“皇居(江戸城)の平川門(1)の続きです。

帯曲輪門(おびくるわもん・・・・・写真の赤丸で囲んだ門)が不浄門とする解説が多くあります。不浄門とは、城内の糞尿、死体、それに罪人を城外に出す門です。罪人としては、高遠に流された大奥女中の絵島、忠臣蔵の浅野内匠頭がいます。うんこが出される同じ門から出された時の内匠頭の気持ちはどうだったのでしょうか?城持ち大名として屈辱的な扱いでした。
まず、この門が本当に不浄門なのか?と云う疑問がありました。理由は次の写真を見ていただくとわかります。

城内から出る通常の道順は黄色の線です。右手の高麗門を経て平川橋から外へ出ます。渡櫓から左手の帯曲輪門から出ると、堀の真ん中の長い通路(帯曲輪)を通って竹橋門から城外へ出ます。これでは竹橋門から城外へ出たと云った方がよさそうです。現地へ行った人なら程度の差はあれ疑問に感じると思います。しかも、糞尿も内匠頭も船で運び出されています。「わざわざ竹橋まで運んでから船に載せる?ちょっとおかしいでしょう。」と云うことです。話は脱線しますが、人糞は肥料として売買の対象でした。大名屋敷からは上物で庶民のは安かったそうです。
長い間疑問に思っていましたが、その疑問に答える説が西ヶ谷恭弘によってとなえられました。
“享保年間江戸城絵図”(東京都立中央図書館蔵)では、現在の帯曲輪門は無く、平川門から堀への石段があります。ここから船に載ったという説です。内匠頭の家来が平川門へ来て見送った事とも合致します。卓見だと思います。
西ヶ谷氏は不浄門とは帯曲輪門ではなく平川門全体を言ったに違いないと述べています。

西ヶ谷説の根拠となった享保年間江戸城絵図(部分)です。絵図の上が城内です。
ちなみに帯曲輪門(竹橋門と平川門の間の堀の中の通路)の役割ですが、竹橋門から侵入した敵は、本丸に行くつもりが平川門近くで行きどまりになってしまいます。
しかし、上記の絵図と現状は明らかに違います。皇居東御苑(江戸城の本丸)の売店にかかっている絵図に次のように書いてあります。

絵図の左側が城内です。通路を示す線には「病人カゴ此口ヨリ出ル」と書かれています。 病人も不浄門より出していたことがわかりました。ただし不浄門の位置が現在とは違います。売店の方にダメもとでこの絵図の出所と書かれた年代を聞きましたがやはり「わかりません。」という回答でした。絵図の所蔵印は「宮内省図書寮」のように見えました。この絵図は享保年間絵図より新しい時代と思われます。なぜなら東京都立中央図書館にある他の絵図に現状と同じ配置の絵図が何枚か存在しています。
江戸時代は260年続きました。絵島と浅野内匠頭の時代には、現在ある帯曲輪門(不浄門)は存在しなかったのです。無かったのですから今見るあの門を通ったというのは誤りである。と云うことになります。(西ヶ谷氏説に同調)
その後、幾度かの門の改変をうけて現在の帯曲輪門が不浄門としての役割を果たしていると理解するのが合理的です。したがって、現在は、平川門全体ではなく帯曲輪門を不浄門と呼んで差し支えないものと思います。
こちらは現在の姿とほぼ同じになった江戸時代の絵図です。260年の時間の変化を無視してはならないと思います。
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