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2010年10月

聖武天皇・光明皇后陵

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聖武天皇陵の参道・拝所

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光明皇后陵拝所
陵の近くに眉間寺をたてましたが、そのお寺ともども、戦国時代に松永弾正久秀が多門城を築き陵墓は破却されたようです。権力の頂点に立って歴史に名を刻んでも時の流れに抗うことはできません。

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多門城は現在若草中学校になっていて校地内には入れませんでした。ここからの東大寺の眺めも悪くありません。

旅行から帰ってきて、正倉院から持ち出されて1250年も行方不明になっていた宝剣2本が東大寺の大仏の足の下から発見されていたものであることがわかり大きなニュースになりました。「東大、元暗しだね。」とおやじギャグを嫁さんに飛ばしたのですが、家にやってきた子供が同じギャグをいったので大笑いになりました。

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皇居(江戸城)の平川門(4) 不浄門について

江戸城の平川門をバックに写真を撮って欲しいと通りすがりに外国人観光客に頼まれたことが2回あります。日本の風景として印象深いのだと思います。その平川門は江戸城でもなぞを持った門です。それだけに興味をそそられる門です。ツツミ様から再度コメントをいただきました。ありがとうございます。
ルートを記入した図面について安政大地震の修復の際のものではとの問いかけをいただきました。私の少ない知識では「幕末ころ」と云う以外に答えを持っていないのですが、たいへん示唆に富むコメントをいただきましたので、こちらも掲載させていただきます。平川門にご興味をもたれた方にたいへん参考になるものと思います。(コメントは2回ございましたので、原文のまま挿入しました)


(江戸城本丸跡にある)売店の図面とほぼ同様の物が、甲良家文書にも有るという情報です。早速確認した所、この図面は、甲良若狭ひかえと有る事から、若狭守を名乗り、幕末から明治初めまで生きた十代目甲良棟全の時期の物かと思われます。そして、城内全面に渡ってルートの線が引いてある所から、これは「非常時」、つまり安政大地震の修復普請の際の物では無いか、と考えるのですが、如何でしょうか?


“続徳川実紀「温恭院殿(家定)御実紀」安政三年二月にある記述です。安政大地震は、前年の十月二日に発生しています。
廿七日御城内御修復ヶ所多に付。御門出入御締向之令
一、                        御徒目付組頭江
此節御城内御修復ヶ所數多に付ては。日々人足共多人數入込候事故(いりこみそうろうことゆえ)。御門/\出入御締向。別て厚心附候事(あつくこころつけそうろうこと)には候得共。此上共御門/\は勿論。富士見御天守〔富士見櫓〕。其外御番所等に至迄。聊以無油断(いささかのゆだんなきをもって)。御取締向入念(ねんをいれ)。夜中は出入等嚴重に改。持塲/\見廻候儀も。是迄よりも猶更繁々見廻り。火之元等格別に心附候様可致候(いたすべくそうろう)。若(もし)等閑之儀〔サボっている事〕も相聞候におゐては。嚴重可及沙汰(さたおよぶべく)候。
右之趣。御門番並御番所有之向々江可被達(たっせらるべく)候事。”

こういう状態であれば、人足を統括指揮する甲良若狭にとっては、あのルート図を必要とする場面であっただろうと思います。

大奥に続く平川門の警護は、非常に厳しく、通常この門を使用できたのは、奥女中、大奥広敷詰めの役人、御三卿のみで、「旧事諮問録(岩波文庫)」の元御庭番の証言を借りれば、「御小姓・小納戸といえども平河口は通れませぬ。」という具合でした。因みに御三卿は、御三家でさえ中雀門で駕籠を降りなければならない所を、本丸御殿御風呂屋口まで乗りつける事ができる程特別扱いされています。
もちろん小さい普請で、女中を他の部屋に退かせた状況で、職人が入る事は有ったようですが、そういう時の為であれば、平川橋の方からのルートのみで十分だと思われます。
それから、浅野内匠頭の護送に舟が使われたのかどうか、ということについても、検討の必要が有ろうかと思います。仮に舟が使われたとすると、竹橋、雉子橋をくぐって、今の日本橋川から、外濠のルートが想定されるのでしょうが、そうすると、その当時は呉服橋近くにあった吉良邸のすぐ脇を通る事になり、また、濠の外側は町家地ですので、警護上かえって問題が多いように思います。平川門については、半ば伝説化した話が広まっているように感じられ、それらを丹念に再検討する必要があるようです。
終わりに、絵島事件の際の実際の判決の記録が、「翁草」にあります。眉唾な話も多い書物ですが、著者は、元京都町奉行所与力で、裁判記録などに関しては信頼できそうですので、一部をご紹介します。
『右の通。於御廣敷。松前伊豆守申渡之。(処分された奥女中)九人の召使女五十七人。平川口より追放被仰付』
この事件で平川門を出たのは、少なくとも66人でした・・・。

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修ちゃんを救いましょう

麻生修希ちゃんは重い心臓病にかかり、一刻も早い心臓移植を必要としています。しかし、国内でドナーを待つ時間的な余裕はありません。海外での渡航移植しか道が残されておりません。そのためには1億5千万円の費用がかかります。

募金の振込先等、詳しくは、こちら→http://syu-chan.com/index.php”修ちゃんを救う会”のホームページです。

来週の11月6日のラグビーテストマッチ 日本対ロシアの試合会場となる秩父宮ラグビー場でも募金が出来ます。

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10月30日の秩父宮ラグビー場には、レフェリー、監督、選手ほか多くの方が大きな声で募金を呼び掛けていました。
各地でも募金活動が行われています。
多くの善意を結集し、なんとしても大切な命を救いましょう。

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ラグビー 日本vsサモア戦のイベント

風で雨が舞う中の秩父宮でのイベントなどです。

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試合前には“SHANADOO”のミニライブ

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ハーフタイムにはサモアのダンス
冷たい雨の中です。

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グッズとしては“#23の赤いサポータータオル”
リポビタンDの無料試飲と抽選でグッズのプレゼントがありました。クーラートートバックが当たりました。

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ラグビーテストマッチ 日本vsサモア

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試合開始前のハカです。

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台風が近づく悪天候の中、日本は上々の滑り出しです。2分にPGを決め、7分に5メータースクラムからボールを出し、ニコラスが切り込みホラニ龍コリニアシに渡って中央付近にトライを上げ前半を10-0でリードして終えます。

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前半の半ば過ぎからテリトリーで優位に立っていたサモアは後半5分、14分とPGを決め10-6と追い上げます。さらに29分にカーン・フォトゥアリイがディフェンスを抜いて中央やや左にトライを上げ逆転します。コンバージョンも決まってそのまま10-13でサモアが勝ちました。
29分の決勝トライのひとつ前の日本のプレーの選択が勝利を左右したと思います。自陣10メートル付近からハイパントを上げますが、強風に押し戻されて有効なハイパントにならず、サモアにボールを確保されました。地域的にはサモアに押されていましたし、天候を考慮すればタッチキックで相手陣に入るべきだったと思います。ゲームコントロールのミスを決勝トライに結びつけられました。

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勝利に喜ぶサモア

メインスタンドの屋根の下の席をキープしていたのですが、応援に気合を入れようと開始前にバックスタンドに廻って雨にも負けず応援したのですが、残念な結果でした。

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講演の夕べ

29日は、有楽町の読売ホールで講演の夕べを聴きに行きました。第二部はクラリネット奏者の北村英治さんでした。
ご家庭での教育から、52歳で初めて自らのファンでもある十歳以上年下の芸大の先生に強く請い、教えていただいた経験などをお話していただきました。そうした姿勢が81歳とは思えない元気さの源なのでしょう。限られた時間ではありましたが演奏を聴かせていただきました。

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講演のあとはCDにサインでした。

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ラグビーワールドカップNZ大会への抱負 by J.K.

JRFUの会報誌が送られてきました。巻頭記事がジョン・カーワンヘッドコーチのラグビーワールドカップ・ニュージーランド大会への抱負です。
記事の中でJ.K.は「前大会でとった2チーム制はとるつもりはない。なぜなら、世界の舞台で日本のラグビーがどれだけ成長したかを見せることも大切な事だからです。」と語っています。
前回大会の対オーストラリア戦では13トライを奪われ、ノートライに抑えられて3-91の大敗を喫しました。来年のニュージーランド大会では地元オールブラックスと対戦します。とてもじゃないけど怖くて見れないと思っていましたが、日本がどこまでできるのか?見たくなってきました。
また、J.K.は代表選手をわりと動かさないと見ていましたが、「選手達が経験を積み、互いを理解するする事がW杯のような舞台では絶対に必要です。」
たぶんそうなんだろうとは思っていましたが、メンバーを大きく動かさないのはこうした考えからであることを述べています。

23日の秩父宮ラグビー場でのトークイベントで稲垣トップリーグCEOに上田さんが「JKと食事しながら話したそうだけど何を食べたの?」と突っ込みを入れ、稲垣さんが「焼き魚定食」と答えていました。その様子はトップリーグのホームページのこちらです。→http://www.top-league.jp/news/news8930.html
ちなみに魚は“鮭”でした。

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皇居(江戸城)の平川門(3) 不浄門について

10月13日の平川門(2)の記事にツツミ様からコメントをいただきました。多々参考になる点がありますので再掲、紹介させていただきます。

私も帯曲輪門を不浄門とする事に、疑問を感じていた者です。この春には、当方の論拠とする資料を持って、千代田区の歴史資料館に江戸城の城郭に詳しいという学芸員の方を訪ねたのですが、納得のいく解答は得られませんでした。
私は、城郭の図面ではなく、御実紀その他の史料の記述を基に、帯曲輪は少なくとも罪人の護送には使われていない、と考えています。さらに、徳川家重を始め、平川口から出棺した将軍家族は、平川橋の方から送られているということは確実で、特に他の死者を帯曲輪の方から出す必要が有ったのか疑問です。
ただ貴ブログに使われている、享保期とされる図面は、線を引いた者の性格からか、少し雑な物のように感じられ、論拠としては弱いように思います。実際、その50年以上前の万治年間の図面には、現在の形で帯曲輪門が記されています。
病人や怪我人も平川口から退出するという事は、大和郡山柳沢家に残る史料に、「城内で御目障りの事があった場合」の作法として記録にあるようです。したがって、刃傷事件の被害者である吉良上野介や細川宗孝公も、平川門から作法通りに退出しています。そして、それらの事件を記録したものに、被害者と加害者の出た門を区別するような表現の違いは、見受けられません。細川宗孝公の退出の公式な記録には、門を出てすぐ「橋」の記述があるため、平川橋のある平川高麗門の方よりの退出と考えるのが自然だと思います。
幕末の嘉永元年(1848年)11月27日には、将軍家慶の深酒に付き合い雪隠で溺死した小納戸松下伝七郎を、布団にくるみ、病気のかたちで平川口より出した、という記録があり、この平川口も帯曲輪門とは考え難いことから、江戸期を通して、平川門が不浄門だったというのが、私の考えです。
売店にかかっていたという図、近々私も見に行きたいと思いますが、ルートの線が引いてあったりする所から見ると、明治以降に描かれた物のようにも思えます。
下肥に関しては、龍ノ口辺に舟をおいて、そこに運んだという記録もありますので、これも案外大手門を堂々と行き来していたのかも知れません。
とにかく、帯曲輪門を不浄門とすることに、疑問を持つ方が他にもいらした事を喜んでいます。


享保期絵図については、描かれた目的も含めて検討する必要があるかと思っています。西ヶ谷氏がこの絵図を平川門=不浄門説の論拠としていますが、(西ヶ谷著“江戸城”91ページ)帯曲輪門≠不浄門としているのは他の絵図等と併せて、検討したものなのかなと理解しています。
本丸売店掲出の往来経路が記載された絵図については、同様の絵図が中央図書館蔵の絵図にも、また西ヶ谷文庫蔵の絵図にもあります。目的の一つは普請に城内へ入る時、各門からの行き方と門を警護するお武家さんを確認するためのようです。ただし、注意書きは無いようです。
本丸売店掲出の絵図の存在が、帯曲輪門=不浄門説に疑問を持ちつつ、ひっかかりを感じる点です。

下肥に関しては、ツツミ様のご指摘通りだと思います。大奥の人糞は不浄門から、西の丸、他も近くの門から出したのでしょう。複数の門からでたものを辰口から運び出したかと思います。

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辰口近くに瀟洒な美術館が立っています。時の流れを感じます。

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ラグビー日本代表に立川剛志選手追加招集

昨日24日から日本代表の合宿が始まりました。今日、フルバックとして東芝・立川剛志選手が追加招集されました。今週末の30日にサモア戦が行われるこの時期の追加招集と云うのは、怪我による代表選手の交代が考えられます。代表選手の三洋・田邉選手の後半の交代が気になりますが、試合を見ていませんので理由がわかりません。また、協会のホームページにはその理由が発表になっていないので追加招集の理由がわかりません。

23日のトップリーグでヤマハはサントリーに0-72で大敗しました。これほどの大敗になると感想も何もあったものではないので、観戦記をブログにアップしなかった程です。が、その中で、日本代表に選べれている五郎丸選手の再三の甘いタックル、ディフェンスが気になりました。ディフェンスは1人がはずされてもチームとしてどうフォローするかなのでしょうが、それにしてもと云う思いを持ちました。カーワンヘッドコーチは常々「タックルのできない選手は選ばない。」と述べていますので、試合中、試合の行方よりカーワンヘッドコーチの言葉が胸をよぎっていました。
冒頭にに述べましたが、追加招集の理由が明らかにされていませんが、23日の秩父宮の試合を見た感想では、「そうなんだろうな」と思いました。
試合出場停止で、今年6月のパシッフィックネーションズカップを棒に振った立川剛志選手にはきっちり結果を出して欲しいと願っています。

ヤマハ・ジュビロはファンを大切にするとても良いチームです。サントリー戦の大敗はいただけません。頑張って欲しいです。

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ギンナン拾い

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今日は、恒例となったギンナン拾いの日でした。
国交省の国道事務所がギンナンを落として
一か所に集めてきます。
そこで拾う、と云うか、かき集めます。
去年に比べ、大きな粒が多くありました。
猛暑が良かったのかもしれません。

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東芝vsクボタ ラグビートップリーグ第7節in秩父宮

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開始3分にクボタのヒッキー選手がゴールポスト下に先制トライをあげますが、前半は14-13とほぼ互角ながら東芝が1点リードで終えます。

後半のスタートでクボタは絶好の位置でペナルティーをもらいますが、PGを狙わずラインアウトからトライを狙います。結局攻めきれずに4分にPGを決めて、14-16でクボタが再逆転します。7分に東芝がクボタゴールライン手前5メートルでもらったペナルティーを速攻でヒル選手がトライを上げれば、12分にクボタのドゥラーム選手がこの日4本目となるPGを決め19-19の同点になります。
しかし、23分に中居選手が、27分にクボタの裏に蹴られたボールを宇薄選手が押さえて突き放し、33-19で東芝が勝ちました。
前半はクボタがラインアウトを2本スチールしクボタペースに持ち込みました。逆に後半はクボタが2本スチールされ、突き放されてしまいました。

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クボタはドゥラーム選手が復活してスピードが格段に増しました。また、ラインアウトからの東芝のモールでのトライも阻止しました。敗れましたがクボタ本来の強さを取り戻した試合でした。リーグ戦の後半は上昇気流に乗るのではないでしょうか。

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ガツン、バチンとぶつかる音が何回も響いてくる激しい試合でした。廣瀬キャプテンは、試合後のインタビューを受けている間も額からの出血が止まらず何回もタオルで血を拭っていました。

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奈良旅行3日目は登山Day

奈良旅行3日目は登山Day 雨の心配は無く、今日は山登り日和でした。なんと3つの山に登りました。ただし、山の高さをたしても490.4メートル 畝傍山、耳成山、天香久山の大和三山です。 いつでも登れる。という気持ちは、結局いつまでも登らない。になってしまうので、ひとくぎりついて気持ち良かった。写真等は後日アップします。 本日の訪蹟は、 橿原考古研博物館→畝傍山→藤原京朱雀門等→藤原京資料室→耳成山→奈良文研発掘調査部→天香久山→天岩戸神社→紀寺跡→本薬師寺跡 お金がかかったのは、最初の博物館だけ。いつものことながら安上がりの趣味です。写真は藤原京から見た畝傍山です。コスモスが綺麗でした。 明日はラグビーがあるので旅行は今日で終わりです。

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奈良旅行2日目

奈良旅行2日目 曇り時々小雨。レンタサイクルを使うには微妙な天気で、結局予定を変更して、 薬師寺・特別公開→天理参考館→石上神宮→平城宮旧跡横断→法華寺の阿弥陀寺浄土院跡 浄土院跡は、たんぼの中に“奈良時代の庭園の巨石がぽつんとある”という私好みの場所だったのですが、帰り際に農作業していた方に呼びとめられました。勝手に入ったことを注意されるかと思いきや、史跡の話でなんと1時間!辺りは暗くなり街灯がつき、雲間に月は出てくるはの畦道の歴史談議でした。 夜の散歩はまず興福寺。五重塔はライトアップしてました。続く東大寺は真っ暗闇。寝ている鹿さん、そして写真は夜食の鹿さん、でした。

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奈良旅行

奈良旅行 西の京 ラグビーの試合と併せてと思っていたら、奈良のお寺の特別公開の期間となったので、いささか慌て気味で奈良に来ました。今日は、聖武天皇・光明皇后陵→多門城跡→転害門→戒壇院→興福寺→元興寺→頭搭→大乗院庭園阿修羅とは半年ぶりのご対面した。元興寺では天井裏に入れてラッキー。頭搭ではちょっと興奮。改めてリポートします。夜の部は平城宮の朱雀門へ、大極殿まで行こうとしたのですが暗くて、不審者に間違われそうなので断念して兵部省跡などを見て終了です。(写真は朱雀門です。デカイ。誰もいない)

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銀座三越からアカペラ・ライブ

銀ブラと云う言葉がまだ生きているのかよくわからないけれど、今日は、いま評判の銀座三越で、デパ地下でお弁当を買って、屋上でいただきました。

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いつもは見上げる和光の時計が同じ目線にあって新鮮なスペースでした。

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お弁当をいただいていると、雀がちゅんちゅんちゅんちゅんと寄ってきます。銀座雀は生きる知恵をしっかり身につけていました。

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夜は、ライブハウス・TACTでアカペラグループの“宝船”ライブを聴いて過ごしました。お店はスズラン通りにありますが、ひと頃にに比べると人出が少ないような、・・・・
“宝船”は女性6人のグループで、昨年のオーストリアのアカペラコンクールのジャズ部門で優勝した実力派です。関西での活動が主ですが、私にとっては昨年に続いて2度目のライブでした。楽しめました。

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熊谷駅(高崎線)のレンタサイクル

熊谷駅から熊谷ラグビー場へは、バス便になります。ですが試合後は、観客が一斉に帰りますし、車の場合も駐車場から出るのに時間がかかります。さらにバスも車も帰りの渋滞もあります。
駅から自転車が一番良いと思っていたのですが、インターネットでレンタサイクルを検索すると、東京から行くと一つ手前の行田駅になります。なおも検索すると、熊谷駅にもあるというので、トライしてみました。
やっていました。ラグビー場とは反対側の南口(東京から群馬方面へ向かって左側)です。南口を降りるとすぐにトヨタレンタカーが目に入り、その隣のニッポンレンタカーの角を左へ入るとすぐ右側にあります。改札口から2~3分です。みなさんはご存知でしたか?

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エキナン駐輪・貸自転車 TEL 048-521-3568
午後1時から3時までの間は休み時間になっているようです。確認してみてください。
借りるのに身分証明書などは必要なく、まず保証金5千円を預けます。1日借りて500円です。自転車を返す時に5000円が返ってきて500円を払います。

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自転車は、はっきり言ってブコツです。前輪にお店の名前、後輪には電話番号が書いてあります。それでもちょい失敬されてもかなわないので、途中鍵を買って前輪にもかけました。鍵は前もって持参したほうが無難です。ラグビーを見ている間中、自転車の心配はしたくありません。
乗り心地は良いとは言えませんが、ラグビー場までは平坦な道で10分ちょいで着きます。心地よい風のなか、渋滞も無縁なレンタサイクルは雨さえ降らなければアクセスとしては一番です。

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コカ・コーラvsサントリー ラグビートップリーグ第6節in熊谷

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試合開始のキックオフをキャッチしたサントリーがオブストラクションの反則、コーラはすかさずオープンに廻しウェブ選手が右隅に飛び込んで1分でトライ。
サントリーは8分にピシ選手がコーラをかわして右サイドに走りこんで5-5の同点に追いつきます。
コーラは16分自陣深くから左タッチライン沿いに攻め上がり、最後は築城(康)選手が右サイドにトライ、コンバージョンもなって12-5とリードします。
サントリーは20分、26分と連続してモールを押し込んでのトライ、その後互いにPGを一つずつ決め、前半は15-20でサントリーがリードします。

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後半に入ってサントリーはコーラ陣に攻め込み反則を誘い4分と10分にPGを決めリードを広げます。さらにサントリーは後半にもモールを押し込むトライなどで、後半3トライで追撃したコーラを降しました。

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コーラはスクラムで劣勢に立たされたことで追いつけませんでした。しかし、怪我人も戻りはじめて5トライをあげたことは今後へむけて大いに期待できます。
それにしてもサントリーは6トライの半分がモールを押し込んでのトライとは、なにやら先祖返りの様な今日の戦いぶりでした。

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怪我から戻ってきて今シーズンはじめてフィールドに立ったウェブ選手

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ニッパツ球技場 ラグビー 東芝vsリコー

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16日のラグビートップリーグが行われた、横浜・三ツ沢のニッパツ球技場は、球技専用で秩父宮ラグビー場と同様で、グラウンドと観客席が近く、皆さんラグビーの迫力とスピードに感激していました。

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芝生は絨毯のようですばらしく、選手のプレーで芝生がはがれることもありませんでした。

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ちびっこチアリーディング

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ラグビースクールのお子さんが多く、試合後はサインをもらいたい選手達を指名していました。あこがれの選手、自分の目標とする選手像がはっきりしている感じでした。

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東芝vsリコー ラグビートップリーグ第6節inニッパツ球技場

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キックオフのボールを確保したリコーが東芝陣内で試合を進め、9分に22メートルラインに入った中央でPGを得、なんなく決め先制します。東芝は13分ヒル選手がセンターライン付近から抜け出し、宇薄選手につないで中央にトライします。東芝は初めてのチャンスを確実に決めました。
その後もリコーは終始東芝陣内で攻勢に出ますが、27分に東芝はラインアウトからラックになり出たボールを立川選手がトライを決めます。33分にはベイツ選手がトライを上げます。前半を通して、陣地はリコーがとっていましたがリコー陣内に入った少ないチャンスを東芝が確実に決めていました。(前半 東芝 21 - リコー 3 )

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前半37分に東芝・大野選手が珍しくハイタックルでシンビンとなりますが、1人少ないことを忘れてしまう安定した試合運びで一方的な試合になるかと思ったのですが、リコーは後半11分にラーカム選手がショートパントをし、ボールを拾った星野選手が右タッチライン沿いにタックルを振り切ってトライを上げ反撃を開始します。17分にセンターライン付近での東芝のスクラムから出たボールにリコー・ラーカム選手が反応しエリソン選手につないでトライ。26分にはスクラムから8-9と渡り、池田選手がそのまま左隅にトライを決め、東芝21-リコー22と逆転します。

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基点となったラーカム選手

しかし東芝はここから攻勢に出、リコーは反則の繰り返しで29分にシンビンで1人少なくなります。33分にPGを決めた東芝は35分にリコーゴールライン前のラインアウトからモールを押し込んで試合を決めました。フルタイムのスコアは東芝31-リコー22でした。

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33分モールのボールをベイツ選手がグラウンでィング

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錦秋十月大歌舞伎

新橋演舞場

“頼朝の死”は新歌舞伎で、イヤホンガイドを聞く必要はなかったぐらいで、わかりやすいお芝居でした。頼朝が御所に勤める女房に言い寄るために女装して塀を乗り越えてきたところを、それと知らぬ畠山重保が曲者として斬り殺してしまう。父の死の真相を知りたがる頼家と、この事実を御台所の政子と大江弘元が隠し通すことで芝居は進んで行くのですが、お芝居の出来よりもこの筋立てそのものがしっくりと受け入れることができませんでした。

“どんつく”はおなじみの曲芸もあり、江戸時代の大道芸のオンパレードでした。

“艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)酒屋
上方狂言の心中ものです。物語そのものはいかにも江戸時代の心中ものらしさが溢れていて良かったのですが、心中の当事者の半七と三勝が最後にちょっとだけ出てくるだけです。半七の女房・お園とその父、それに半七の父によって話が進みます。これがこのお芝居をわかりずらくしているようです。半七の遺言とも言える手紙を先を争って読む場面があるのですが、私が行った日の公演では観客から少し笑いが起こりました。お芝居そのもののわかりにくさが出たような気がしました。13年ぶりの上演というのはこの辺の事情なのかな?と思いました。

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演目

昼の部
 頼朝の死
 連獅子
 加賀鳶

夜の部
 近江源氏先陣館
 どんつく
 艶容女舞衣 酒屋

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皇居(江戸城)の平川門(2) 不浄門について

前の記事“皇居(江戸城)の平川門(1)の続きです。

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帯曲輪門(おびくるわもん・・・・・写真の赤丸で囲んだ門)が不浄門とする解説が多くあります。不浄門とは、城内の糞尿、死体、それに罪人を城外に出す門です。罪人としては、高遠に流された大奥女中の絵島、忠臣蔵の浅野内匠頭がいます。うんこが出される同じ門から出された時の内匠頭の気持ちはどうだったのでしょうか?城持ち大名として屈辱的な扱いでした。
まず、この門が本当に不浄門なのか?と云う疑問がありました。理由は次の写真を見ていただくとわかります。

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城内から出る通常の道順は黄色の線です。右手の高麗門を経て平川橋から外へ出ます。渡櫓から左手の帯曲輪門から出ると、堀の真ん中の長い通路(帯曲輪)を通って竹橋門から城外へ出ます。これでは竹橋門から城外へ出たと云った方がよさそうです。現地へ行った人なら程度の差はあれ疑問に感じると思います。しかも、糞尿も内匠頭も船で運び出されています。「わざわざ竹橋まで運んでから船に載せる?ちょっとおかしいでしょう。」と云うことです。話は脱線しますが、人糞は肥料として売買の対象でした。大名屋敷からは上物で庶民のは安かったそうです。

長い間疑問に思っていましたが、その疑問に答える説が西ヶ谷恭弘によってとなえられました。
“享保年間江戸城絵図”(東京都立中央図書館蔵)では、現在の帯曲輪門は無く、平川門から堀への石段があります。ここから船に載ったという説です。内匠頭の家来が平川門へ来て見送った事とも合致します。卓見だと思います。
西ヶ谷氏は不浄門とは帯曲輪門ではなく平川門全体を言ったに違いないと述べています。

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西ヶ谷説の根拠となった享保年間江戸城絵図(部分)です。絵図の上が城内です。
ちなみに帯曲輪門(竹橋門と平川門の間の堀の中の通路)の役割ですが、竹橋門から侵入した敵は、本丸に行くつもりが平川門近くで行きどまりになってしまいます。


しかし、上記の絵図と現状は明らかに違います。皇居東御苑(江戸城の本丸)の売店にかかっている絵図に次のように書いてあります。

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絵図の左側が城内です。通路を示す線には「病人カゴ此口ヨリ出ル」と書かれています。 病人も不浄門より出していたことがわかりました。ただし不浄門の位置が現在とは違います。売店の方にダメもとでこの絵図の出所と書かれた年代を聞きましたがやはり「わかりません。」という回答でした。絵図の所蔵印は「宮内省図書寮」のように見えました。この絵図は享保年間絵図より新しい時代と思われます。なぜなら東京都立中央図書館にある他の絵図に現状と同じ配置の絵図が何枚か存在しています。

江戸時代は260年続きました。絵島と浅野内匠頭の時代には、現在ある帯曲輪門(不浄門)は存在しなかったのです。無かったのですから今見るあの門を通ったというのは誤りである。と云うことになります。(西ヶ谷氏説に同調)
その後、幾度かの門の改変をうけて現在の帯曲輪門が不浄門としての役割を果たしていると理解するのが合理的です。したがって、現在は、平川門全体ではなく帯曲輪門を不浄門と呼んで差し支えないものと思います。101012c6

こちらは現在の姿とほぼ同じになった江戸時代の絵図です。260年の時間の変化を無視してはならないと思います。

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皇居(江戸城)の平川門(1)

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平川門は優美な姿をしています。大奥に近く、大奥の女性が通ったところから御局門とも呼ばれたようです。
平川門から城内へは、まず平川橋を渡ります。

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この橋の擬宝珠(ぎぼし)を注意深く見ると慶長や寛永の年号が入った銘文が刻まれています。他の橋にあったものを集めてきましたので数は10冠あります。

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橋を渡ると右手にある高麗門を通り抜けます。

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渡櫓(わたりやぐら)から三の丸(城内)に入ります。これだけなら江戸城の他の門と基本的にはかわりません。しかし渡櫓の右横に高麗門が付属しています。この小さな門からは城内には行けず、竹橋門を経て城の外に出てしまいます。

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(城内から見た写真)この門は入り口と出口が反対で外が城内方向に向いています。この門について様々な解説があります。
平川門については不浄門であるとなっているのですが、この小さな門こそが不浄門であるとする解説が多く見られます。この点について私なりの見方を次の記事で述べたいと思います。
(“皇居(江戸城)の平川門(2)不浄門ついて”に続く)

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皇居(江戸城)の石垣刻文

次がいつになるかわからないので、龍馬の薩長同盟の裏書きをもう一度見てきました。前回より混んではいましたが、それでも入館を待つこともなく容易に見ることができました。100人も入れば一杯になる展示室ですから混んでも大したことはありません。鮮やかな朱書きにまた感動しました。

今日、皇居に来た主目的は別にありました。その一つが石垣の刻文を見ることでした。少し前に江戸城の刻文の発見が報道されましたが、意外と簡単に見れる所にあることを知ったからです。
皇居の北東、鬼門にあたる所にあります。

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鬼門から鬼が入るというので、それを防ぐために“南無阿弥陀仏”と刻まれています。掘りの水位が高くて“南無阿弥”までしか確認できませんでしたが、巨大な城郭をほこった武家の棟梁が鬼を恐れていたことが伝わってきました。その対比が面白く感じました。

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赤矢印のところです。大手門と平川門の間の和気清麻呂の像がある近くで、気象前交差点の近くです。

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徳川将軍家墓所(芝 増上寺)

今日は、雨が上がったので芝・増上寺から皇居へ行ってきました。

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増上寺では区民祭が開かれ賑やかでした。祭りにあわせて徳川将軍家の墓所が公開されました。

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2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂、皇女和宮、さらに犬公方綱吉の生母桂昌院らの合祀塔の8基です。
2台将軍秀忠の塔は木造で戦災で焼けましたので将軍夫人の塔に合祀されています。墓域の一角には塔が1基転がっていました。戦災で焼け出されたとはいえ、狭いところに集められ、まるで将軍家の団地サイズの集団墓地と云った感じで、絶大な権力をほこった威厳も栄光も全くありませんでした。

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人と防災未来センター(神戸)

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阪神淡路大震災のメモリアル施設が“人と防災未来センター”です。子供の頃新潟地震を経験していますので、展示・資料の持つ意味が良くわかります。
子供の頃「地震は太平洋側で新潟市が地震にあうのは800年は無い」と云われていました。ですから「神戸で地震にあわれた方が、神戸でもこんなに揺れているのだから東京は一体どうなの?全滅?」と感じた気持ちは良くわかります。とボランティアの方と同じ感想でした。
「災害は忘れた頃にやってくる。」「のではなく災害は忘れた所にやってきます。」
館内は時間を区切ってグループになって見学します。じっくり話しながら見て行ったので途中で一人になりました。東館に3Dの上映館がありますが、たった一人で見ることになりました。案内の女性が、型どおりの説明を私一人にするのがなんとなくおかしく感じました。
市内には震災の状況をそのまま保存しているところがあります。

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旧居留地の広場であった東遊園地の地下には亡くなられた方の名前が刻まれたプレートがあります。

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地震の時、道路は水のように波打ちます。地震が終わった時、波打ったままの状態で止まります。中央より右側がそのまま保存されています。(東遊園地脇)

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高速度道路の破壊された橋脚です。(東遊園地から海軍躁錬所へ行く途中)

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神戸事件

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神戸市の中心に、駅名にもなっている三宮神社があります。神社の角に“史蹟神戸事件発生の地”の石碑が立っています。1868年1月の鳥羽伏見の戦いの数日後の事件でした。備前(岡山)藩は新政府より西宮の警備を命じられ岡山から西宮へ向かっている途中、ここで隊列の前を外国人3人が横切って外国人に負傷者が出たのです。隊列は総勢1800人でした。

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フランス兵2名、アメリカ兵1名が隊列を横切った場所は石碑より若干東に寄っています。(グレーに着色した辺り)

これにより神戸は一時外国軍隊の占領することになりました。事件は、諸外国の要求に屈服して砲術隊長の滝善三郎の切腹によって解決が図られます。

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能福寺(神戸市兵庫区)には責任をとって切腹した滝善三郎の供養塔があります。滝善三郎が切腹したのは、永福寺で能福寺より道2本隔てたところにありましたが太平洋戦争の空襲で焼け廃寺になりました。供養塔は1949年に現在地に移されました。
遺骸は岡山に運ばれて、お墓は岡山市の東山墓地にあります。藩主(皮肉にも徳川慶喜の弟)はお家大事で説得します。死と引き換えに滝家は五百石加増されています。

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切腹は形式化されており、腹を切る前に介錯するようになっていましたが、この時は実際に腹を切ってから介錯されています。抗議を形で表しました。2月9日午後11時過ぎ永福寺本堂でした。
神戸事件で外国部隊が占拠している状態の中で土佐藩が神戸を通過しています。錦の御旗を奪われるという失態がありました。後に土佐藩とフランス水兵との堺事件につながって行きます。

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勝海舟寓居と海軍躁錬所(神戸旅行)

兵庫区の平野の交差点、国道に沿って北200メートルほどのところに祇王神社があります。神社の入り口を右に小道を100メートル程進むと勝海舟の寓居があります。海舟は別に屋敷はあったのですが、大庄屋の生島家の別荘があり、海舟はほとんどこちらに住まっていたそうです。

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門周りは当時のままだそうです。海舟や龍馬が今この門から出てきても違和感がありません。観光客もいませんでした。旅行の計画には入っていなかったのでここに行き会えてちょっと嬉しかった。

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こちらは御存知、海軍躁錬所跡です。人気スポットです。

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湊川神社

湊川神社の祭神である楠木正成が戦死したのが1336年ですが、この神社が創建されたのは五百年以上経った明治になってからです。

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境内の東南に正成のお墓があります。正成の死から350年ほど経った江戸時代に徳川光圀が建てたものです。その頃には正成の墓はよく判らなくなっていました。

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南西隅には正成終焉の地があります。
石段を上がって写真を撮っていたら、いきなり参拝者が柏手を打ってきてその音に驚きました。石段の上にいた私を拝むような格好になったのが少しおかしかったのですが、「社務所に言えば中に入れますよ」と教えてくれました。石段のところにその旨の掲示が出ていたので知っていたのですが、「明治になってから作ったのだろう」と思っていましたので、御礼だけは言いましたが、中に入る気はありませんでした。
宝物館も見学しました。正成の唯一の真筆が見れるかと思ったのですが、“巧芸版”と記載されていましたので、展示されていたのはレプリカのようです。

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兵庫の津

神戸を外から訪れる旅行者にとって、“兵庫”と“神戸”の区別などつきはしません。「鎖国を終えて兵庫が開港するよう条約で結ばれましたが、実際に開港したのは神戸でした。」と云われてもピンときませんでしたが、実地に来てみればまさしく「百聞は一見にしかず。」です。

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江戸時代までの中心であった兵庫を巡るに際し、市立博物館で買い求めた“よみがえる兵庫津”がとても参考になりました。

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兵庫の津のルーツとなった古代大輪田泊の突堤に使われた巨石が発掘され島上町の運河に面して設置されています。

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来迎寺
清盛が港の風よけのために作った人工島経ケ島に建てられました。松王丸、祇王、祇女のと伝えられる五輪塔があります。

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能福寺
平清盛が剃髪して入道になった寺です。
説明板に「我が国唯一 将軍平清盛公墓処 八棟寺殿平相国廟」
清盛の廟跡です。

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真光寺
一遍上人の廟所です。上人は、自分が死んだら飢えた動物にわが身を与えよと遺言したそうですが、弟子が、それではあんまりだということで荼毘にふしてお墓を建てたとのことです。廟所の中の五輪塔がお墓ですが、上人の時代からは下った室町時代のものです。

近くには兵庫城の跡(案内標識のみで跡かたもありません。)清盛塚などがあります。

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雪見御所(雪御所)と平家の邸跡

神戸市兵庫区平野町の平は平家の記憶が地名として留めているとのことです。地名として残っているのは平野町だけではなく字名として“雪御所”としても残っています。

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雪御所町にある湊山小学校の地下から明治に発掘された岩に平清盛の邸跡“雪見御所旧跡”を彫った石碑があります。その後この小学校の地を発掘調査をし地下遺構が確認されています。周囲は住宅が立ち並んでいますので全体像は明確になってはいません。

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平頼盛邸跡(荒田八幡神社)
安徳帝の仮宮という石碑が立っています。
この辺りが平家の公達の邸宅が連なっていたのでしょう。

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須磨寺と須磨の関

須磨寺(正式には福祥寺)は源平ゆかりの寺として有名ですが、源平の戦い以前に創建されています。境内には源平の戦いにちなむものがたくさんあります。

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敦盛塚

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敦盛首洗い池(石の柵の中に見えるのは義経腰かけの松)


小さな宝物館は無料休憩所の一角にあり、自由に出入り出来ます。勿論無料。

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宝物館の展示品のひとつ、敦盛の青葉の笛です。

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須磨寺から5分程のところに須磨ノ関がありました。長田宮と書いた石碑の横面に須磨ノ関が近くにあることが書かれています。関守神社の境内にありますが、元々はもっと東にあったとのこと。

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平重衡別れの松の跡の碑です。地図での所在地は住宅地になっていましたが。須磨寺駅の入り口に立っていました。まるで駅前の郵便ポストのような立ち位置でした。散々住宅街を探し回って探したので拍子抜けです。

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一の谷(源平古戦場)

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須磨の海岸の西寄りに“源平史跡 戦いの浜”の石碑があります。さらに西には敦盛塚がありますが、戦いの地であることには変わりはないので、“戦いの浜”の碑から崖にかかる道を登りました。

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登りきったところに“安徳帝内裏跡伝承地”の碑があります。その横には和宮の像(なぜかこの近くの山から掘り出されたそうな)と安徳宮の小さな社があります。周囲は住宅街になっていますが一の谷を望む台地のひらけた所にあります。なるほどと思わせる立地です。

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一の谷は深くて谷の入り口当たりでも10階建てのマンションぐらいの深さがあります。それに谷の入り口が袋の口をすぼめるように狭くなっています。平家が防衛に自信を持っていたというのが現地に来るとよくわかります。
有名な鵯越は一の谷の背後にはありません。どこかで情報が錯綜したのでしょうが、一の谷を背後から突かれたら総崩れになったであろうことは容易に想像できます。

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谷の入り口には高さ2メートルを超す磨崖仏があります。谷の奥から土石流となって転がり落ちてきたそうです。源平争乱の時代とは違いますが、源平争乱から800年以上たっています。その間、色々な事が起来ています。す。

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石宝殿 播磨生石神社

神戸の三宮からJRで710円、もう姫路が近くになろうというところに宝殿駅があります。ここから徒歩20分ほど南西に生石(おうしこ)神社があります。古墳に興味がある方は知らない人はいない有名な神社です。御神体が古墳の切り出し途中の石槨だからです。石槨は言ってみれば古墳のプレハブ石室です。

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この小山そのものが岩となっています。御神体は社殿の背後赤矢印のところにあります。

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御神体は一辺7メートル、高さ6メートルで重量は5~7トンと推定されます。

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御神体の下部は水がたまって小池になっています。切り出ししやすいように地山の岩石に深く切り込まれています。“浮石”と呼ばれる所以です。

石槨を彫り出す際にでた岩石は高御位山の山頂に捨て置かれているそうです。
この地に来てみてわかることは、海が近く、川も流れていて、巨岩を運び出すのに好都合な場所であることがわかります。何らかの、おそらく政治情勢の変化によって運ばれることが無くなったのだろうと思います。
本来、神社は“死”に関することは最も忌み嫌う所です。神社の創建はこの岩の塊が石槨であるという記憶が忘れ去られた時期でしょう。

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バターナッツかぼちゃ

私は、秩父宮ラグビー場に行く時は、時間に余裕がない時以外、渋谷駅から青山通りを歩いています。

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去年?それとも、もう少し前?はっきり記憶していませんが、青山通りに面した国連大学前に市(ファーマーズ・マーケット)が立つようになりました。ここの屋台で時折食事をすることはあったのですが、野菜などを買うことはありませんでした。最近テレビにとりあげられることが増えてきたようです。先週もテレビに映し出されていました。嫁さんが「行きたい」と云いだしましたが、ラグビーに付き合うこともなさそうなので一緒に行く事にはならないでしょう。それならお土産代りに何かを買って行こうと、テレビで紹介されていたバターナッツかぼちゃを1個買い求めました。

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大きなサイズで1個500円です。

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レシピも付いています。
嫁さん「変わったかぼちゃなので少し飾っておくことにする」ということでまだ食べていません。食感はまたいずれ。

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サントリーvs豊田自動織機 ラグビートップリーグ第4節in秩父宮

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サントリーはキックを使わず、徹底的にボールを廻してきました。立ち上がりから自動織機は守勢に立たされます。豊田自動織機は13分にレッドカードで1人少なくなります。サントリーは直後の14分に平選手のトライを皮切りにトライを重ねて行きます。豊田自動織機は、その後もイエローカード3枚をもらいます。1トライを返すのが精いっぱいでした。92-8の大差になりました。

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後半は、会場の関心事はもっぱら、いつ侍バツベイ選手が出てくるのか?になっていました。バツベイ選手は後半残り10分の登場でしたが、このような試合展開では見せ場を作ることはできませんでした。

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コカコーラvsリコー ラグビートップリーグ第4節in秩父宮

両チームともボールを大きく動かす試合展開で、コーラが2分にリコーのディフェンスの穴を突いて吉原選手があっさり中央にトライを決めます。しかしその後はリコーが攻勢に出て、コーラは反則が多く、反則の繰り返しで1人少なくなった10分にリコーにトライを許します。前半は2トライずつ取り合って15-15で折り返します。
後半11分、コーラがリコーのゴールラインに攻め込みますが、リコーは素早いラインアウトから小松選手が90メートル近く左タッチライン沿いに走り抜けトライに結びつけました。この後も、コーラがトライを返すと、リコーも取る展開になりますが、コーラが常に追いかける形になりました。終了3分前にコーラがPGを得ますが、これが外れて逆転はなりませんでした。どちらに勝利が転んでもおかしくない試合でした。コーラはちょっとタックルの甘さが見られました。しかし勝ち点2をゲットしました。

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東芝vsNEC ラグビートップリーグ第4節in秩父宮

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東芝のゲームの入りが、今までとちょっと違いました。ハイパントなどキックが多く意外な感じがしました。東芝は15分にモールを押し込んで、ベイツが押さえて先制トライ。東芝ーNEC戦らしい幕開けでした。

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19分にNECはロビンスがPGを決めます。これがNECの得点のすべてになりました。東芝は25分に宇薄選手がトライを上げます。東芝は持ち前の前へ出るラグビーで後半に入っても5トライを上げ、調子を上げていたNECをノートライに押さえ47-3で勝ちました。マンオブザマッチは後半2トライを上げた望月選手でした。
この試合は港区ダービーでした。今回が初めてでしたが、接点に勝負をかける両チームですので、名勝負を期待します。

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港区庁から港区ダービーのカップが授与されました。

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