堺事件と妙国寺(大阪・堺市)
本能寺の変で信長が殺された時、徳川家康が滞留していたところがこの妙国寺です。家康は小人数の伴周りを従えて危機から脱出しました。境内には大きな蘇鉄があります。信長によって安土城に持ち去られ、返された歴史があるようでその伝説(逸話)をガイドさんがとくと説明してくれましたが、はっきり言って私には関心ありませんでした。(写真は本堂の中の説明が終わって境内に出てガイドさんが撮ってくれました)
また、このお寺は、慶応4年に起きた堺事件で土佐藩士が切腹した場所です。堺事件とはフランス水兵11名が土佐藩士の射撃をうけ落命した事件です。フランスは関与した藩士の斬首を要求し、責任を問われた藩士が切腹しました。切腹の際、くじ引きで切腹する人を決めたことと、切腹の際、切り裂いた体の一部を投げつけたこと、そのこともあったのか、人数半ばで切腹は取りやめとなり、一旦死を覚悟しながら命をつないだ藩士もいたという事件です。130年ほど前の、明治新政府成立期の政治に翻弄された事件です。この事件に関心を持っていましたので、蘇鉄の説明はどうでもよかったのです。
廊下を曲がって次は枯山水の庭の説明です。植栽がすべて蘇鉄という私としては初めてのお庭でした。借景がビルのために損なわれている(確かにそうです)庭は三つの部分からなっていてと、のどかな説明でした。庭を見ながら廊下の突き当りまで来て、収蔵庫に案内されました。鉄の扉に鍵が2ケついた収蔵庫です。内心、鍵を2ケも付けるのは大げさだろうと思いながら開けるのを見ていました。
収蔵庫は6畳ほどの広さでです。中に入ると、いきなり堺事件の土佐藩士の遺髪がありました。私の頭の中には切腹した場所の石碑しか思い描いていなかったのでびっくりです。そして、その横に切腹したときに使った三宝(短刀を置いた台)です。生々しく血のりが付いています。私は、ほとんど固まりかけました。遺品がこうした形で残っていようとはまったく予想していませんでした。時代の波に翻弄されながらも抗らった彼らの覚悟の程が迫ってきました。
堺事件の土佐藩士の供養塔です。藩士が美化されることを拒んだフランス政府は、フランス水兵の犠牲者をも供養することを条件に大正になってから建てることを許可したそうです。
切腹した場所に建てられた石碑です。堺事件は森鴎外が同名で小説を書いています。文庫本に収録されています。これに対して批判的に考証した大岡昇平の著作があります。こちらはまだ読んでいませんが、近々読みたいと思っています。妙国寺発行のお寺の案内では、この点をバランスが取れた取り上げ方をしており好感が持てました。
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