伝飛鳥板葺宮
飛鳥でも最もよく知られた史蹟の一つに“伝飛鳥板葺宮”があります。蘇我入鹿が殺害された大化の改新の時の宮が板葺宮ですので、すっと記憶に入ってくるのですが、板葺宮ではなく飛鳥浄御原宮跡と云うのが今や通説となっています。キトラ古墳の壁画公開記念講演(5月15日・飛鳥万葉文化館)で橿原考古学研究所所長の菅谷先生ご自身が、この説を初めに主張したことを知りました。
この講演会で、目からうろこの話がありました。“板葺宮”という「いささか建物の荘厳さに欠ける」名前にどうして?という疑問をずーっと持っていました。大陸から伝わってきた立派な“瓦葺”の宮と云うならわかるのですが“板葺”では貧弱ではないのか?と。
先生は「飛鳥時代の床板の厚みがどのくらいあったかわかりますか?」と問いかけてきました。聴講者で答えられる人はいませんでした。飛鳥時代の床板は厚さ10cm以上あったそうです。理由は板の作り方にあります。板を作るのにまづ、丸太を半分に割り、断面が半円になりますさらにまた半分に割ります。さらに繰り返してゆきます・・・・・。ちょうど断面がバームクーヘンを切るようにです。確かに板厚は厚くなるはずです。
縦引きののこぎりが出現したのは鎌倉時代で、それまでは、板を作るのは大変な仕事だったそうです。しかも飛鳥時代の木材は高野槇でした。“槇は魔木”に通ずるように古墳の木棺に使われていました。丈夫で朽ち果てにくく高級な材料です。奈良時代になると檜に替わったそうです。
さらに、飛鳥時代の壁は土壁ではなく板壁だったそうです。つまり“板葺”というのは大変立派な建物で現在われわれが持つ“板葺”のイメージとは全く違うということです。なるほど納得です。
ところで、あの井戸(写真)が飛鳥浄御原宮(岡本宮の可能性もある)だとして飛鳥板葺宮は同じ場所のさらに地下深くなのか?それとも他の場所なのか?考えられる候補地はどこなのか?講演会の内容に満足して、つい質問をし忘れてしまいました。
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