有栖川宮と北白川宮 2
有栖川宮熾仁親王というと北白川宮能久親王の名前を連想します。有栖川宮に比べるとあまり関心が払われない宮様です。私自身、吉村昭の小説「彰義隊」を読むまでは全く関心がありませんでした。
明治維新の際、北白川宮は上野の寛永寺に入り輪王寺宮となっていました。江戸攻撃の回避と徳川慶喜の除名を嘆願したのは篤姫や和宮ばかりではありません。宮も依頼を受け、東征大総督となって江戸に向かっている有栖川宮に静岡まで嘆願に行きましたが、冷たく突き放されます。その後、彰義隊、奥羽列藩同盟の盟主に担ぎあげられるなど、宮様でありながら朝敵になるという運命をたどります。維新後許されると日清戦争後の台湾へ近衛師団長として赴き、当地で病死をするという数奇な運命が待っていました。皇族が外征地で無くなった稀有の例です。朝敵となったことの贖罪の気持ちが働いていたというのが吉村昭が描くところの北白川宮像です。
今、東京の北の丸公園の旧近衛師団司令部庁舎(現近代美術館・工芸館)横に銅像が立っています。説明の看板にはさすがに「朝敵となった」との説明はありません。
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