沖縄旅行2日目
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建って2年半程になる国立新美術館は、いうなれば国立の貸画廊の団地と言ったところでしょうか。3階建ての建物の中に展示区画がいくつもあります。私はルーブル美術館展だけ見ましたが、嫁さんは工芸展にも寄ってきました。
ミュージアムショップというのは所蔵品のグッズ類が目玉商品なのでしょうが、ここでは常設展示というのはありませんので、どんなものが置いてあるのかな?ということで地下一階のミュージアムショップへ寄ってきました。アンモナイトをかたどった化石チョコレートなど、個々には興味ある商品はあるのですが、印象としては“雑貨店”です。
旧歩兵第三連隊の跡地ですので兵舎の模型の展示と旧建物の一部が残されています。旧建物は「加工」されていて、美術館のビュッフェからはそれとはわかりません。兵舎は戦争遺跡です。美術館的発想で建物を加工し、アートにしてしまうことに違和感を強く持ちました。美術館本体の建築は斬新で良かっただけに惜しまれます。
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ルーブル美術館の所蔵品から、テーマは「美の宮殿の子どもたち」です。絵画、彫像など、時代地域にとらわれず展示されていました。(23日は)結構混んでいました。東京での展覧会はどこへ行っても人が多いです。
注目の“少女のミイラ”の区画のところが一番空いていたのには拍子抜けでした。 ミイラは棺の蓋を外して麻布にくるまれた状態でした。エジプトでは“木”は貴重品でしたから棺に入ったこの子は、恵まれた家庭の子だったのでしょう。
絵画で一番印象に残ったのは「デュビュフ家の肖像」でした、家族がそろったの何の変哲もない絵なのですが、絵が現代の写真の役割をしていた時代のいわば「家族そろっての記念写真」というところです。ポストカードになっていませんでしたので展覧会としては特に注目の作品ということではないのでしょう。
これだけ“子供”の展示を一堂に見ると、数えきれない家族が、数えきれない一人が、生まれては想いを持って過ぎ去っていった。一番小さな、だけど一番多い歴史がそこにあることがひしひしと感じられました。
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15,16日は大阪、奈良への旅行で、帰京した翌日の日曜日の新聞で神戸、大阪の豚インフルエンザ・・・いつの間にか新型インフルエンザというようになっていた・・・の患者発生が大き報じられ、TV画面ではマスク姿のオンパレード。土曜までは大阪の中心部ではそんな事にはなって無かったのに・・・。
月曜日に職場へお土産のお菓子を持って行きました。菓子箱には大阪城の絵が大きく描いてあり、お菓子の名前も、思いっきり「大阪○○○」 タイミング悪過ぎだけど仕方がない。こうなれば逆にこちらから話題を振るしかない。
20人ほどの女性の職場です。「豚インフルを持ってきているかもしれないよ」といったら「年齢的に大丈夫でしょう」と答えが返ってきた。確かにオヤジはあまりかからないようだ。私も言い返しました。「高校生の被害が多いようだから。皆さんも大丈夫。悔しかったらセーラー服を着て会社に来てよ!」と、笑いでお土産は無事通過しました。
ちなみに、会社のガイドラインにそって、出勤前に体温を測っています。平熱です。
対策は大切だけど、ニュース報道は少し騒ぎ過ぎでは?
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アジア5カ国対抗で日本が87-10で下したカザフスタンに韓国は敗れています。順当なら大差の試合になるだろうと思いつつ、しかし日本には対抗心を燃やしてくるので試合前はどのような点差になるかと思っていましたが、結局は大差の試合になりました。日本代表の進化を素直に喜びながらも、一方でライバル韓国の凋落をさびしいと感じてもいました。
トップリーグにはアジア枠があります。韓国の選手が活躍しています。アジア枠ができる以前から日韓の差は開き始めていましたが、このアジア枠は日韓の差が固定されることに作用して行くことになるのでしょう。
スタンドの一角で最後まで大きな声で「テーハミング」と応援していました。大差の試合でしたが、最後まで声援が小さくなることはありませんでした。声援を送る気持は万国共通です。
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小野澤選手が16日の日韓戦で50キャップを獲得しました。(日本代表として出場50試合)この日も4トライを挙げる活躍でした。
報道によれば、 印象に残る代表戦は?の質問に「初キャップとワールドカップフランス大会のフィジー戦」との事です。
ワールドカップフランス大会の第1戦のオーストラリア戦では3-91の大敗でした。2チーム制をとっていましたので第1戦に出場した小野澤選手は「第1戦で戦ったメンバーのこの悔しさを第2戦のメンバーは胸に刻んで戦ってくれ」と訴えたそうです。第2戦はあと一歩のところで力尽き、ワールドカップ2勝目はなりませんでした。日本代表小野澤選手自身は第2戦にも後半20分から出場していますが、「日本代表を心底強くしたいと思った試合だった」そうです。
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3月、4月、5月と三ヶ月連続で大阪に旅行しました。
3月に堂島の蔵屋敷跡巡りをしていた時、洋菓子屋さんに長い列を作っているのを見ました。「大阪人が列を作るのだからさぞかしグルメの商品だろう」ぐらいにしか思っていませんでした。私はこうしたことにまるっきり暗いのです。“堂島ロール”と教えてくれたのはKさんでした。
4月に続いて今回も泊まったホテルがこのお店から1,2分のところでした。ホテルに向かう途中でオレンジ色の堂島ロールが入ったバックを抱えた人と何人もすれ違いました。
今日、Kさんが地の利を生かし列が少ないと見て並びました。しかし結果的には待ち時間1時間以上になってしまったのですが、噂の“堂島ロール”をゲットしてくれました。キトラ古墳の壁画公開にも並ばずに済んだのにです。
今までの逆で、今度はすれ違う人が私が持っているオレンジ色の“堂島ロール”の入ったバッグに視線を落として行くのがわかります。「飽食の時代に食べ物に列を作るなんてナンセンス」と思っていた私でしが、このオレンジ色のバッグを抱えると、ようやく大阪へのいっぱしの旅行者になった気がするから不思議です。
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大阪に来ています。飛行機から天香具山などの大和三山や明日香の地が良く見えました。その明日香へ伊丹空港から近鉄で引き返すように行き、飛鳥資料館でのキトラ古墳壁画“白虎””青竜”の特別公開の壁画を見学しました。
壁画は5人ほどが同時に見ると展示ケースの周りはいっぱいになります。平日ですので待ち時間ゼロでじっくり見る事ができました。が、休日に見学者が増えるとゆっくりは見れないでしょう。休日の見学はかなりきついと思います。時間が許すなら平日が絶対お薦めです。
“白虎”は保存状態がよいのですが”青竜”は一部しか認められません。その後、埋蔵文化財展示室を廻ってきましたが、ここに実物大模型があり古墳内の壁画の位置関係が良くわかります。
万葉文化会館で菅谷橿原考古学研究所所長の講演を聴きましたが、あらためて記事にいたします。
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4月25日は朝から歩き詰めで、4時頃になっていましたが、豊国廟まで来ました。廟そのものは早くに徳川によって破壊され、明治になってから石塔が立てられているという知識はあったので、史蹟そのものとして見る興味はあまりなく、その場所に行くということに意味を持たせていました。
社務所で50円払って、「登拝券」と“登”の文字にちょっぴり気になるものを感じていたのですが、まさかここまで階段が多くあるとは思いもよらず、登る途中から石段の数を数え始めました。かつて廟があったと思われるところに大きな五輪塔がありました。梢越しに市内が見え、夏は涼しい風が吹いて上りの苦労も報われるだろうと想像しながら下り、社務所に石段の数を確認しました。489段です。
こうなると意地です。ここまでの途中の石段も数えることにしました。13段、9段、34段がさらにありました。都合545段でした。ああ疲れた。
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京都御所の西・平安女学院内に有栖川宮邸が移築され公開されていました。(4月23日~29日) 通常は授業(華道・茶道など)に使われているそうです。
お公家さんの邸宅として興味がありました。能舞台として使用できる板敷きの部屋や2畳の上段の間がついている12畳の部屋には火灯窓があり印象的でした。
御所内から現在地に移築されたのは明治6年だそうですから和宮との婚約そして破棄となった熾仁親王が生まれたお屋敷ということになります。直前に訪れた京都御所では和宮が使った輿が展示されていました。そして親王は明治維新で官軍の総大将・東征大総督となって江戸へ下ることになります。明治維新の匂いがするお屋敷です。
入場料500円は少し高いような気がしましたが、建物の傷みが目につき修復費用の寄付金とするということで納得です。
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有栖川宮熾仁親王というと北白川宮能久親王の名前を連想します。有栖川宮に比べるとあまり関心が払われない宮様です。私自身、吉村昭の小説「彰義隊」を読むまでは全く関心がありませんでした。
明治維新の際、北白川宮は上野の寛永寺に入り輪王寺宮となっていました。江戸攻撃の回避と徳川慶喜の除名を嘆願したのは篤姫や和宮ばかりではありません。宮も依頼を受け、東征大総督となって江戸に向かっている有栖川宮に静岡まで嘆願に行きましたが、冷たく突き放されます。その後、彰義隊、奥羽列藩同盟の盟主に担ぎあげられるなど、宮様でありながら朝敵になるという運命をたどります。維新後許されると日清戦争後の台湾へ近衛師団長として赴き、当地で病死をするという数奇な運命が待っていました。皇族が外征地で無くなった稀有の例です。朝敵となったことの贖罪の気持ちが働いていたというのが吉村昭が描くところの北白川宮像です。
今、東京の北の丸公園の旧近衛師団司令部庁舎(現近代美術館・工芸館)横に銅像が立っています。説明の看板にはさすがに「朝敵となった」との説明はありません。
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