2009年11月13日 (金)

縮景園(広島旅行8)

091110syuku1 城主浅野家の別邸として築かれた庭園です。いわゆる大名庭園です。すばらしい庭園です。庭園にこうした表現はそぐわないかもしれませんが「絶品」です。日本三名園にはその規模は及びませんが、この縮景園の方が数段すばらしいです。舟泊もあり是非味わってもらいたいお薦めのお庭です。
回遊式です。途中“腰掛石”がありました。お殿様が腰をおろした石です。私も腰をおろし、しばしばお殿様気分を味わいました。扇子を持っていればなお良かったのにと思わずにはいられませんでした。
091110syuku2 市内なのに庭のここかしこにカニが動き回っていました。この庭園も原爆の被害を受けています。建物は戦後の復元ですし、園内から原爆犠牲者の遺骨が発見されましたが、それでも広島の旅の最後に少し気持ちが落ち着ける空間と出会いました。

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広島城その2(広島旅行7)

091110isi1_2 広島城で刻印が多くみられる石垣が2か所あります。私が確認できたのは7~8ケでした。名古屋城天守閣の石垣には名前が刻まれた石があるのが有名ですし、江戸城は刻印の宝庫です。全国の大名を動員して作らせました(天下普請)ので、各大名の受け持ちを示す刻印があります。広島城の刻印にはどんな意味があるのか?ちょっと私にはわかりません。
毛利輝元は関ヶ原の合戦で西軍の大将でしたのでこの城を築いて10年後にはこの城を追われました。まあ、大将と云っても関ヶ原の合戦では大阪城にいましたし、関ヶ原にいた部下の吉川は徳川に内通して全く動かず、小早川の裏切り以上の裏切りだったと私は思っています。毛利の後にこの城に入った福島正則は家康の思惑を見抜けず結果的には豊臣滅亡に手を貸しました。「感情のままに行動したバカ武将」です。徳川の世になって、この城の石垣の“無断修理?”をきっかけに事実上お取りつぶしになりました。城内に福島正則が破却した跡と伝えられる壊れた石垣があります。091110isi3 冷やかに見てきました。

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広島城その1(広島旅行6)

091110siro1 毛利輝元により築かれた広島城は平地に建てられています。(平城) その上、石垣があまり入り組んで作られていなくて四角形に近い城域ですので、一見堅固な城のようには見えません。規模の違いを別として、二条城、米沢城に近い印象を持ちます。ですが、堀の幅の広さ、そして三角州の中ですから川筋が幾重にも城を囲んでいますので見た目以上の防御力を誇っていたのでしょう。091110siro2
二の丸の門と櫓が復元されています。往古のよすががしのばれます。これまた、原爆で失われた天守閣も復元され博物館になっています。天守閣最上階からはビルの谷間の原爆ドームが望まれます。入館料は360円です。

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2009年11月10日 (火)

胡蝶蘭

091110a2 私の誕生日のお祝いにと、娘の嫁ぎ先の実家から胡蝶蘭をいただきました。
帰宅しましたら、小型冷蔵庫ほどの大きさの箱に入っていました。これほどのお花をいただいたのは初めてです。私には不釣り合いなほど立派な胡蝶蘭ですが、嬉しく、ありがたく頂きました。

玄関に飾りました。来客にも楽しんでもらいます。091110a

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広島 大本営(広島旅行5)

091110dai2 大本営と云うのは戦争の最高司令部にあたります。太平洋戦争では、ありもしない戦果を発表し国民をだましたため、戦後は「大本営発表」と云えば誇大表現の嘘の発表の代名詞になりました。太平洋戦争の時は、大本営は東京にありました。
広島城の本丸跡に置かれた大本営は日清戦争当時の大本営です。2年半程この地にあり、国の指定史跡になりましたが原爆により建物は倒壊し、現在は基壇と石碑が残っています。大本営跡に向かって左手には昭憲皇太后の御座所跡が、これも基壇のみが残っています。091110dai1

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2009年11月 9日 (月)

軍管区司令部 地下司令室(広島旅行4)

091025e1 広島城内に中国軍管区の防空作戦室が残っています。数重センチの分厚いコンクリートで作られています。空襲警報などを発令する地下通信室の跡です。原爆投下の第一報がここから発せられました。広島城の天守閣は原爆で倒壊しました。この地下壕から出て見た光景は驚きをはるかに超えていたのだろうと思います。ここでは軍人だけではなく女学生も働いており、女学生の多くが犠牲になりました。ここも訪れる人は少ないようです。
壕の上部の窓から壕内を写真に撮りましたが、荒れていると思いきや、内部はきれいにされていました。意外でした。091025e2_2
広島旅行ではありますが、ここまでは“旅行”と云った気分とは程遠い気持ちが沈み込む足取りとなりました。

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原爆供養塔(広島旅行3)

091025d2 平和記念公園そのものが原爆で全滅した町の跡ですから、公園内を歩いている自分の足の下が焦熱地獄の地面だったと思うとつらい気持ちになります。
平和記念資料館、追悼平和祈念館に続いて、公園内にある原爆供養塔に向かい、手を合わせました。ここには名前も残すことなく引き取り手のない原爆の犠牲者の遺骨が眠っています。この日の午後に訪れた縮景園でも遺骨が発見されこちらに葬られたと説明板がありました。同じ公園内ですが、こちらを訪れる人は少ないようですが、安らかにと手を合わせ、無念さをいっぱいに受け止めなければいけない場所です。
供養塔の近くに韓国人原爆犠牲者慰霊碑がありました。小学生の一団にボランティアの方でしょうか、「犠牲者を国が違うからと云っていたわる気持ちが違ってはいけません。」と諭すように話していました。

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2009年11月 8日 (日)

平和記念公園(広島旅行2)

091025d1 毎年、原爆戦没者慰霊祭が行われる平和記念公園ですが、テレビで式典の様子がニュースなどで映し出されます。式典の進行に関心がいってしまいますが、元々日々の生活がある町だった所だったのですね。
原爆で全滅した町の跡が公園になっている。そのことをあらためて訴えているのが町名を刻んだ石碑でした。史蹟としての石碑は、ほとんど長い時間をかけて変化した記録をとどめるものですが、この石碑は、一瞬にして消え去った瞬間を記録しています。悪魔の魔法にかけられて石碑にさせられた無念さを訴えています。魔法使いが掛けたのではなく人間が掛けたことはいまさら言うまでもないことです。

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原爆ドームと爆心地(広島旅行1)

(10月26日)広島を新幹線で通過したことはありましたが、町を訪れるのは初めてでした。路面電車から降り、原爆ドームを目の前にすると、旅の解放気分は雲散霧消します。緊張で少し体が硬くなります。良く知られた原爆ドームですが、その姿よりも原爆によって吹き飛ばされて建物の周囲に転がっているコンクリートや石に原爆の破壊力の大きさを感じました。この後で記念館で見た写真ではコンクリート類はもっと多かったようです。091025c2
次に爆心地に向かいました。原爆ドームからは、数十メートルの距離ですが、こちらへ回る人は少ないようです。それでも修学旅行の一団と10人ほどの外国人の集団にガイドさんが説明していました。
爆心地を示す石碑の横に立って、何回か真上を見上げてみました。直径600メートルの火球を想像してみようとしたのですが、この空にそんなものができるなど、想像できるものではありません。想像を絶する悪魔の所業としか言いようがありません。

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2009年11月 3日 (火)

ぎんなんわり 合羽橋道具街

今や東京の観光名所となった合羽橋道具街。食品サンプルはさすがです。休日は閉っているお店が多いのは残念です。
ぐるーっと回って買ったのは、コーヒー店での小物と“ぎんなんわり”です。“ぎんなんわり”は3種類見かけました。1100円から1500円ぐらいでした。超マイナーな料理道具ですが、さすがは合羽橋商店街です。091101c

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“よみがえる浮世絵”展

091101a0 1日は会期末が迫っている江戸東京博物館の“よみがえる浮世絵”展に行ってきました。全体的にインパクトがなかったです。大正期の浮世絵の展示ですが、江戸時代のあの大胆な構図が新しくなった風景などで展開されているかと期待したのですが、期待はずれでした。見る人も少なく、ショップにもあまり人はいませんでした。
両国から合羽橋へ隅田川沿いを通ってゆきました。091101b 隅田川が汚い川の代名詞だったことが今は信じられないくらいです。途中、遠回りしながら池波正太郎記念文庫へ。後でわかったことは葛飾北斎のお墓があるお寺の前を素通りしてしまったことに気付きました。
記念文庫では、「書斎を和室にしようと最初は思ったが、畳に寝転がりそうなので、洋室にした。複数の小説を同時並行に書いていたので、云ってみれば役者を同時に複数演じる苦しさがあった。」と云う趣旨の独白が復元された書斎のところに書かれていました。書き続けることの苦しさを云っていたのですが、それを押しての膨大な著作でした。

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ブレディスローカップ  7 ギルフォード選手 

091031bl24 オールブラックスのギルフォード選手が初キャップなるか?と云うより是非初キャップを獲得して欲しいと願っていました。
ギルフォード選手は、6月に開催された20歳以下のワールドカップにニュジーランド代表として来日し活躍しました。決勝戦で応援に来ていたお父様が秩父宮ラグビー場で倒れ、亡くなるという悲運に見舞われました。表彰式が始まるという時に、お父様の異変がギルフォード選手に伝えられ、スタンドに上がってきました。091031bl26 私は異変を知っていましたが、少し離れた観客はギルフォード選手がスタンドに上がってきた事情を知らず、サイン帳を差し出しました。ギルフォード選手がこのような事情にもかかわらずサインをしました。この光景が強く印象に残っています。
あの時からまだ5ヶ月です。20歳にしてオールブラックスの一員として再来日です。試合が終盤になると交代出場はないのか?!気になりましたが、残念ながら出場機会は得られませんでした。これから永くオールブラックスの選手として活躍して欲しと願っています。試合後のグラウンドでパス回しで体をほぐすギルフォード選手に心の中で声援を送りました。091031bl25

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ブレディスローカップ  6 グッズ

091031bl200会場で無料で配布されていたのが読売新聞の特集号で、NZが80勝32敗4分けの対戦成績などが紹介されていました。デイリィーヨミウリの英語版も発行されていたのかと思ったのですが、日本語版と英語版が表裏になっていました。
飲食売店は長蛇の列でしたし、グッズの売店も混みあっていました。マフラータオル(2000円)とピンバッジ(500円)は早々と売れ切れて私は買えませんでした。携帯ストラップ(800円)、トートバック(1500円)、キャップ(2000円)それにプログラムを記念に買いました。プログラムは1部1500円・A4版の64ページ。買いそこなったピンバッジが欲しくてグッズを販売した会社のホームページをのぞいてみましたが、ブレディスローカップ関連グッズはまったく載っていませんでした。091031bl22 091031bl21 

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ブレディスローカップ  5 カップ授与

091031bl17 試合後の表彰セレモニーでオールブラックスキャプテンのリッチー・マコウがカップを授与され高々と掲げ、選手が応援に応えるためバックスタンに向かい、何人かの選手がサインに応じていましたが、私が驚いたのは、この日の試合に出なかったリザーブの選手やおそらくリザーブにも入らなかった選手でしょう、セレモニーに目をくれることなく黙々とボールを回していました。最終戦ですので全員がセレモニーに参加して喜びを共有するのが普通?と思っていました。
同じグラウンド上でまったく違う空気が流れていました。これがオールブラックス流なのでしょうか?091031bl18 この2枚の写真は同時進行で行われていました。

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2009年11月 2日 (月)

ブレディスローカップ  4 オールブラックス逆転勝ち

091031bl13 オールブラックスは後半5分にコンラッド・スミス選手がステップを切りワラービーズのバックスをかわして右にトライを決め再逆転します。この後はPGで得点を重ねてゆきます。ワラビーズもオールブラックスの22ml内に攻め込みますがゴールラインを割れません。残り時間4,5分で10点リードしてペナルティーをもらったオールブラックスはペナルティーゴールを狙いました。残り時間と点差からトライに取りに行くと思ったのですがPGでまさにとどめを刺しに行きました。勝ちにこだわる執着心は、私の想像を超えていました。結局オールブラックスがリード保ったまま試合が終わりました。091031bl14
この試合では“ノットリーリース・ザ・ボール”の反則が少なかったです。集散が早くボールを持った選手がフォローが遅くて孤立する場面はほとんどありませんでした。
オールブラックスのカーター選手は難しい角度も含め8本全部のプレースキックを決めました。ワラビーズのギタウ選手6本中5本を決め、(はずした1本は比較的やさしい角度)このレベルではプレースキックをはずすようでは勝利はおぼつかないと云うことでしょう。
トライを狙わないと「無気力」だといった、まったくもって的外れな見方をする人も中にはいますが、世界トップレベルの試合で両チーム合わせて14本のPGはキックの大切さを示しています。091031bl15

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